イエス様との対話 -8ページ目

「彼には神の助けがない」:イエス様による詩篇解説3:1,2

おはようございます。

詩篇3章 (ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌)
3:1 主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、
3:2 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。

イエス様からのメッセージという形で解説をいただきましたが、
そのまま書くととても長くなるので、要約だけを書きます。

***

ダビデは、その人生で非常に多くの苦難があった。
しかし自分の息子に王座を奪われ、命を狙われたこの事件は、そのすべての中でも最もダビデの心を引き裂くものだった。
そして多くの人々は、「彼には神の助けがない」と言った。
しかしダビデはすべてを神に委ねた。最終的には、神は王座をダビデに返された。

イエス様も非常に多くの苦難を経験した。
主は、わたしたちの救いのために十字架にかかってくださった。
十字架上にイエス様に対して、多くの人々は言った。「彼には神の助けがない」と。
イエス様自身も言った。「父よ、どうしてわたしを捨てられたのですか?」
しかし父なる神は、イエス様を死から蘇らせ、永遠の栄光ある勝利を勝ち取られた。
そしてその十字架と復活によって、わたしたちに救いを与えてくださった。

主は、わたしたちとともいてくださる。どんな状況にあっても。
たとい周りに人々が、「おまえには、神の助けなんかあるはずがない」と言っても。
わたしたち自身、自分の過ちや罪を思い出すとき、「こんな人間を、神が助けてくださるわけがない」と思ったとしても。
それでも、主イエスの十字架の恵みにあって、主はわたしたちを愛し、恵みを与えてくださる。
今は、わたしたちにはその勝利が見えなくても、主はその御言葉を決して破られることはない。

***

だからどんなときにも、主を褒め称えましょう!!
「神の助けがない」と思うときにも、褒め称えましょう!
主を褒め称えましょう!!!

***


「恩送り」への返信

ある知り合いからの転送メールをいただきました。

2010年1月18日14:02
先日、ラジオで「恩送り」という言葉を初めて聞きました。
他人から受けた恩や親切、特に相手にそのお返しができなかった恩を、また他の人に送っていく、という意味だそうです。

その方へ、返信を書きました。

2年ほど前、地域の福祉広場にて、母の日のイベントを開催したことがあります。
こども達のダンス・チーム「キッズ・ビート」がショーを披露したあと、
お茶を飲みながら、それぞれ「母」の思い出などを話しました。
ある年配の女性は、自分が受けた恩を自分の母親には返すことはできなかった。 
でも、それを娘や孫に返したい・・そういっていました。 
じわっと、目頭が熱くなったことを覚えています。

わたしの母は、今病気です。 ときどき東京の病院に面接に行っています。
でも母への恩を、充分に返すことは決してできません。
それがこども達の心に受け継がれ・・彼らの人生の中で生きるように・・・
それがわたしの祈りです。

***
ヨハネ13:14,15
主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、
あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
***

アーメン。 主よ。
あなたの大いなる愛に、わたしたちは決してお返しはできません。
主よ、どうかその愛を、回りの人に送ることをお助けください。
イエス様のお名前で祈ります。 アーメン

甘えてもいい♪

数日前、「子育て勉強会」の帰りに図書館に寄りました。
面白い表題の本が目に入り、参考になるかなと思って借りてきました。
「いい子に育ててはいけない。--ふざけた話をする子ほど輝いている。」という本です。
図書館のカウンターで、「うちの子たちは、ふざけた話しかしないのですが・・・」なんて
ふざけたこと(真実ですが・・)を言って、借りてきました。

今、途中まで読んでいますが・・
甘えてもいい。 
ふざけたことを話せるほうがいい。 
ただ聞いてもらいたい。 
「いい子」ではければ・・と頑張りすぎている子達がたくさんいる
・・それで自分を追い詰め、悩んでいる
などなど・・・大変興味深い内容です。

クリスチャンも、主に対して似たような勘違いをすることがあるのかなと思います。
一生懸命「いい子」になろうと・・・
確かに、わたしたちは主にあって、成長するべきではあります。 
しかし主は、あるがままのわたしたちを愛し、理解してくれる。 
主には、思いっきり甘えていい。 
ふざけた話や愚痴をだらだら主に話してもいい。 
かたくなになることもあるし、意固地になったり、頑固になったりすることもある。 
でも、主はそんなわたしたちを否定するのではなく、十字架でしっかりと受け止めてくださる。 
主は、甘えてもいい相手なんです。
主に対しても、「いい子」になろうとする必要はないし、そうしてはいけないんですね。
・・そうするとただただ苦しくなってしまいます。

そうそう・・
この間、この本を読んでいたとき、ちょうど娘(20歳)がバイトから帰ってきました。
そしてわたしのほっぺたに、外気で冷え切った両手をくっつけてくるのです。
「つめた~~~~イ!!」と叫ぶと、娘は言いました。 
「あまえてるんだよ~~~~♪」

その後で、わたしは食べたみかんの皮を娘に差し出し、「これ捨てて~~」と言いました。
「ゴミ箱は、パパのすぐ横にあるじゃない。」
そこでわたしは言いました。 「あまえてるんだよ~~~~♪」

主にも甘えましょうよ。 
頑張っていい子になろうとなんかしないで!!!
大丈夫ですよ。 主は、あなたを愛しておられます。 


発想を変える

おはようございます。
最近、こういう話しを読みました。

***
1703年に、ロシアのピョートル大帝が新しい首都サンクトペテルブルクを建設しました。
しかしその建設技術者たちは、あるとき大きな問題に直面しました。
主要な街路の真中に非常に大きな岩があり、それを移動しなければならなかったのです。
近代的な重機のない時代でしたから、岩の移動には大変な労力が必要となり、その費用も莫大なものとなってしまいます。
しかしその費用の工面は困難な状況でした。 

八方塞がり状態に技術者たちが頭を悩ましているとき、ある貧しい農夫が、とても少ない費用で問題を解決できると申し出ました。
トップの技術者たちが解決できなかった問題を、どうして無学な貧しい農夫が解決できるというのでしょうか?
しかし万策尽きた市のお偉方は、この農夫に任せてみることにしました。

翌朝、彼は数名の農夫たちとシャベルを持ってやってきました。
彼らは、岩のすぐ横にその岩がすっぽり入るくらいの穴をほり、その中に岩を落として、埋めてしまったのでした。

「発想を変える」ことで、トップの専門家もできなかったことを、この貧しい農夫は難なく解決したのでした。

(要約翻訳)
***

「コロンブスの卵」のようなストーリーですね。
わたしたちも時として、「方法」にあまりにも捕らわれ、その枠の中でしか考えられなくことがあります。
「発想を変える」のなら、まったく新しい側面から、ずっと簡単な解決が見つかることがよくあります。
時には、それが「解決するべき問題」ですらなかったと気がつくことで、「解決」されることもあります。

「発想を変える」・・・大切ですね。

***

ハレルヤ! イエス様、感謝します。
あなたは天から人の子を見下ろし、
賢いもの、神を尋ね求めるものがあるかないかと見られます。

わたしたちのとって山のような問題は、
あなたには、ほんの小さな凸凹にすぎません。
わたしたちには行く手が見えなくても、主よ、あなたはわたしたちの歩むべき道を見られます。
それはわたしたちの目には今は隠されていても、あなたの目には隠されていません。
しかし、主よ、わたしたちがあなたを尋ね求め、
あなたからの見方をするのなら、それはわたしたちにも見えてくるのです。

また、あなたは時には、たといわたしたちにそれが見えなくても、
わたしたちの知らないうちにさえ、あなたはわたしたちをその道に置かれます。
時には、嵐と洪水によってであることもあります。
そのため問題解決どころか、あなたを尋ね求めることで、もっと深刻な問題が引き起こされたとさえ思ってしまうこともあります。
そしてわたしたちに出来ることは、そこに流れてきた倒木の破片にしがみつくことだけであることも・・・
しかし気がつくと、その洪水は、わたしたちが越えることができないと思っていた大きな壁のはるか上を覆い、
わたしたちはあなたの流れによって、その壁を向こう側へ押し流されているのです。
そして岸に立ったとき、わたしたちの知らないうちに、あなたが問題を解決されたことをわたしたちは知るのです。

ですから、あなたのみ名をほめたたえます。
あなたは、あなたを尋ね求めるものを、決して捨てられないからです。

主イエスのお名前で祈ります。
アーメン

***

つばきの泥

おはようございます。

インターネット上でのみ言葉の発信は、2006年の4月にヤフーブログから始まりました。
ブログに昔投稿した記事を、ときどき再送信してみようかと思います。
今日は、最初にブログに書いた記事です。

***
聖書にこういう話しがあります。(ヨハネによる福音書9:1-7)

イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、
「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
(中略)
イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。
そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

この話しで、イエスがしたこと、
つまり「地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗る」ことは、目にとって最悪の出来事です。 
普通、こんなことをしたら健康な目でさえ深刻なダメージを負ってしまいます。 
しかしこの場合は、それが神の方法でした。 
それによってこの盲人は見えるようになったのです。

このように「祈り」の答えが、わたしたちの期待とは全く違う方法でくることがあります。 
そして、「結局、祈りは役に立たない」「状況は、もっと悪くなった」とがっかりしてしまうことがあります。 
でも、神は愛であり、主の恵みと愛に信頼している人のために、主は、すべてのことを共に働かせて益としてくださいます。 
そして、神の愛に信頼し続けるのなら、最後には、神が、わたしたちの最も深い心の中にある願いを
・・自分自身でもはっきりとわからなかったような願いを・・・完璧な方法で答えてくださったことを知るようになるでしょう。

「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」と、イエスは言われました。 
この盲人が、「その池で目を洗って何の役に立つ?」と思って、手探りでそこまで行って洗わなかったら、
祈りの答えを受け取ることはできなかったでしょう。 
でも、「アホらしい」と思ったとしても、イエスの言葉に信頼し、従ったために、神の祝福と祈りの答えを受け取りました。

シロアムとは、「つわされた者」の意味であり、神の御子イエスのことです。 
その池とは、主の御言葉です。 
主の御言葉、聖書を紐解いて見てください。 
特に、新約聖書をお勧めします。 

***

元の記事のURLはこちらです。
http://blogs.yahoo.co.jp/fim_inoue/2061179.html


新年の夫婦喧嘩

おはようございます。
入院している母の面会のための東京トリップの時のことです。

1月5日母の誕生日に、予定よりかなり遅れたものの家内や何人かの子供たちを連れて母に会いに行くことができました。
東京で働いている長男も合流することができました。

夕食時に母と別れた後、久しぶりに会った長男と共に、家族で外で食事をすることにしました。
ちょうどサラダバーと焼きたてパンの食べ放題(だったはず)のレストランがあったので、そこに入ることにしました。

しかし、車をレストランの駐車場に入れた後、その隣に魚料理店があることに気がつきました。
そちらに入るなら、車も駐車しなおさなくてはならなかったため・・
まずは、そのレストランにサラダバーがあったかどうか確認することにしました。
それは家内が、「魚が食べたい・・けど、みんなの好きな方でいい・・でも、サラダバーがないなら嫌だ」
・・などと言い始めたからです。

ですからレストランの中に入ってサラダバーがあることを確認し、それでいいかと家内に聞きました・・・が・・
家内は、「もうレストランの中に入っているのに、今更、ここでいいか聞いても意味ない」と憤慨していました。
わたしは言いました。
「でも、サラダバーがあるなら・・ってことだったし、それを確認するためには、中に入らなければならなかったし・・・」
「でももう入っているでしょ!」
「だって・・そうしなければ・・・カクニンできなかった・・」
いつもの、まったくくだらない、たわいのないことでの口論が始まりました。

こども達はわたしたちよりこういう場合、ずっと分別があり、さっさと中に入っていきました。
そして注文をしたとき・・長男がそれとなく、家内のためにビールを注文してくれました。
そのちょっとした心配りが、わたしたちにはとても嬉しかったです。

ビールを飲みながら、サラダを食べ始めると家内も落ち着いて来て・・
「このサラダ、とっても体によさそうね」などとコメントしていました。
こどもたちとわたしは、互いに目くばせしながら、笑いがふきだしそうになりました。
・・・が、おそらく家内もポジティブになろうと努力してくれていたのでしょう。

後でですが・・家内はやっぱり魚がたべたかったのかな・・ということが、わたしの鈍感な頭にもぼんやり分かってきました。
しかしMS-DOS時代のOSが動いているわたしの単純頭脳では、大抵はそこまでわからないので、
こういうすれ違いが、わたしたちにはしょっちゅうです。 やれやれ・・

ま、とにかく今年の第3回目、または4回目の夫婦喧嘩も、「じゃれあい」のレベルで一件落着し、
とても楽しい家族の食事になりました。 ふ~~~!

蛇足・・そして、ノロケですが・・
ときどきこういう風に支離滅裂になる家内が、わたしにはとっても可愛いのです。
家内の方でも、わたしの頑固さにもかかわらず、わたしを可愛いと思ってくれているかどうかは・・神のみぞ知るです。(笑)
ま、それは家内と神様との間のことですから・・神様にお任せしておきます。


***
愛するイエス様

わたしたちは決して理想的な夫婦でもなく、理想的な家族でもありません。
どちらかというと「困った」夫婦であり、「おふざけ」「ずっこけ」家族です。
でも、主よ。 わたしたちは幸福です。
こんなわたしたちにも拘わらず、あなたが愛してくださっていることを知っているからです。
主よ、あなたの愛と恵みと忍耐と理解と包容力には、本当にいつも驚かされます。
あなたが、こんな夫婦でも愛して下さることがおできになるのなら、ほとんどどんな人にも希望があります。
ですから、主よ、わたしはあなたの恵みをほめたたえます。

尊いイエス様のお名前で祈ります。
アーメン
***

みなさん! 
イエス様が、こんな夫婦を愛せるのなら、あなたにも絶対に希望がありますよ!!


メッセージを受け取り、生きなさい

おはようございます

先日、送信しましたマイケル・ジャクソンについての2つのメッセージの後
読者の方からメールをいただきました。(HMさんとしておきます。)
HMさんも、マイケル・ジャクソンについてのメッセージを受け取っていたとこのことでした。

聖書にはこうあります。
『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。
使徒行伝2:17-18

預言の賜物・・つまり、主から聞くことは、特定の人だけに与えられているのではありません。
誰でも、主を知り、愛する人に、主は語りかけておられます。
ただ波長を合わせ、受信する方法さえ学ぶのなら、主のみ声を聞くことは誰にでもできます。

それでは、HMさんからのメールを紹介しましょう。

***

Michael Jacksonの映画が公開になった頃だったか?
マイケルの事を想っていた時に、聞こえてきたことがありました…

あの幕の閉じ方は本意ではなかった
子供達のために
…ただ、今はとても幸せでいる
痛みも苦しみもない世界がここにある
不安もない
この場所から彼ら(子供達)を見守り
メッセージを送ることが出来る
彼らにはそれを受け取る力がある
あなたもメッセージを受け取り、今いる世界を楽しみ、生きなさい(行きなさい)

…と

子供達とは、自分の子供達だけでなく、世界中の子供達だと思いますし、
主にあっての子供達…つまりは私達をも指していると感じています
そして、イエス様からのメッセージを受け取り、その 道を進みなさいだと感じています

***

アーメン。 HMさん、ありがとうございました。

マイケルさんのたましいに平安が与えられますように。
彼の祈りを主が聞いてくださり、世界のこどもたちを守ってくださいますように。
こどもたちや若者たちが、主が愛してくださっていることを知り、
主の愛のメッセージを受け取り、この世界を楽しみと喜びを持って生きることができますように。
主よ、どうか・・・彼らにお語りください。
あなたの愛をささやいてください。
主、イエスのお名前で祈ります。 アーメン

神は、かたより見ることがない

神は、かたより見ることがない

おはようございます。中学生とのみ言葉のクラスの続きです。 
ローマ2:1-11の最終回です。

**ローマ2:9-11**
悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
***

主は、外見ではなく心を見られます。

何をやってもヘマやドジばかりの人がいるかも知れません。
いくつかの悪いこともあるかもしれません。
やくざのように正真正銘の悪党もいるかもしれません。
しかしその中には、心は純粋な人もいます。
人情がある人が・・・。
自分自身は「悪い」ことをよく知っていて、そのことについて「正直」である人。
そして同じように「正しく」なれない人への憐れみや人情を持っている人がいます。

神は、そういう人の心を見られ「善を行う人」としてみてくださるでしょう。

何でもきちっとできる人が人がいるかも知れません。
どこから見ても良いことだらけ。
人からも、社会からも称賛されている人かもしれません。
しかしそういう人の中には、時々、氷のように冷たい人もいます。
自分と同じようにうまく、正しくできない人への愛も憐れみも全く持たない人が・・・
自分自身は「正しい」と自負し、他のすべての人を心の中で裁いている人が・・

神は、そういう人の心を見られ「悪を行う人」としてみられるでしょう。

だからわたしたちは外見で、また、わたしたち自身の理解で人を裁かないように注意しましょう。
主は、心を見ておられ、ご存知です。
主は、人を偏りみることはされません。
主にまかせ、委ね、信頼していましょう。

最期に第一コリント2:2で、中学生とのみ言葉クラスを終わりました。
***
わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、
あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
***

主がわたしたちを守り、外見上で互いに裁くのではなく、
お互いの心におられるイエス様を見、主にあって互いを認めることをさせてくださいますように。
イエス様のお名前で祈ります。 アーメン


わざに従って報いられる?

おはようございます。
**ローマ2:6-8**
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、
光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
***

愛するイエス様

主よ、これは大変な御言葉です。
恐ろしいほどです。

主よ、だれが立つことができるでしょうか?
わたしたちは皆、弱く、罪の沢山ある人間です。
常に、栄光とほまれと朽ちないものを求めていると自信をもって言うことはできません。
むしろ、妬みや党派心で悩み、
真理に従わないで、自分自身の強情な道に進んでしまうことが多いくらいです。
主よ、もしこの言葉の通り、「怒りと激しい憤りとが加えられる」のでしたら、
誰が立つことができるでしょうか?

しかし主よ、あなたには恵みがあり、許しがあり、
わたしたちの弱さを顧みてくださる愛があります。
主よ、わたしたちの行いによってではなく、あなたの恵みによって
あなたの憐れみに頼ります。
主よ、あなたにある「正しいわざ」とは、ただあなたの愛に頼ることだけです。
それ以外の「正しいわざ」はわたしたちにはありません。
わたしたちの「正しい」と思っている「わざ」は悪臭を放ちます。

主よ、あなたは言われました。
「主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。
 主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。
(詩篇103:9,10)

主よ、この恵みの言葉にわたしたちはしがみつきます。
われらの罪にしたがい、われらの不義に従って報いられたら、
わたしたちは皆、滅びるしかありません。
しかし主よ、あなたご自身が、十字架でわれらの罪を負い、不義のあがないをされました。
わたしたちはただあなたの愛、恵み、憐れみに頼ります。
他には立つ場がありません。

また主よ、このことを知って、わたしたちに対して負債のあるものも許す恵みをおあたえください。
主よ、あなたの前にわたしがどれだけ罪深いが知るとき、
それにも関わらず、あなたの十字架で許されていることを深く知るとき、
わたしたちには、他をさばく権利は全くないことを知ります。
主よ、あなたの前に正直であるのなら、わたしたちには人を裁くことはできません。
わたしたち自身の不義が大きいからです。
だからこそ、あなたはかたくなな許さない心について厳しく語られます。

しかし主よ、あなたの愛は、それよりもさらに大きいものです。
想像もつかないほど、人知を遥かに超えたものです。
ですから、主よ。
あなたの愛と恵みにあって、わたしたちはあなたを褒め称えるのみです。
あなたの許しと愛と寛容の故に、あなたをあがめます。

尊いイエス様のお名前で祈ります。 アーメン

ナバルの話し

おはようございます。
ローマ2:5の補足です。
**第五節**
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、
あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、
自分の身に積んでいるのである。
***

ダビデの時代にナバルという「よこしまな人」がいました。
彼は非常に強情であり、頑なであり、
誰も、彼に話しかけることさえできませんでした。

ダビデとその従者が、サウル王から逃げていたとき、
ナバルの羊を、ダビデたちは守ってあげていました。
収穫の時に、ダビデはいくらかの報酬を求めましたが、
ナバルはダビデからの使いに対して非常に無礼な返答をしました。

それを聞いたナバルの妻、アビゲイルはナバルに内緒で、ダビデのもとへ贈り物と届け、
ナバルの家に対する災いを未然に防ぎました。
しかし、ナバルが後でその出来事を聞いたとき、
その心は彼の内で石のように硬くなり、とうとう死んでしまいました。
(サムエル記上25章参照)

ナバルは若い頃からずっと、いつもそんなに頑迷だったわけではなかったことでしょう。
しかし長い年月の間、ここで少し、あそこで少しと心を頑なにしていってしまったのです。
そして最後には、彼の心は石のようになってしまいました。

主の聖霊の小さなささやきに耳を傾けなくても、
時には大きな違いをもたらさないように見えることがあります。
ここで少し、あそこで少し、多少強情になっても、大きな違いはない
・・そんな場面は日常沢山あります。
しかしそれは日々、少しずつが積み重っていきます。
そしてある日、わたしたちは自分自身の頑迷さの中に囚われて、
身動きさえできなくなっていることに気がつくようになるのです。
しかしそのときでは少々遅すぎます。

聖霊の愛のささやきに従うことも、
ほとんどの場合、即座に大きな違いをもたらしません。
小さな許し、小さな理解、小さな信頼
・・・それがどうした? というようなものばかりです。
しかしそれもまた日々、少しずつ積み重なっていきます。
そしてある日、主はその栄光の富の中から豊かな恵みと祝福とを注ぎこんでくださるのでしょう。
その恵みにわたしたちはただ圧倒されるでしょう。

***

(祈り)
愛するイエス様

今日の新しい日を感謝します。
あなたの恵みは日ごとに新しいことを感謝します。
主よ、今日、あなたの愛の御声をお聞かせください。
あなたの愛の御霊の声を受け入れさせてください。
もしそうすることに抵抗する思いがわたしの中にあるのでしたら、
主よ、どうかその思いを取り去ってください。

あなたの愛を感謝します。
あなたの御霊を感謝します。

尊いイエス様のお名前で祈ります。
アーメン