イエス様との対話 -7ページ目

人はなぜ不完全に作られているのか? 3/3

人はなぜ不完全に作られているのか? 3/3

(イエス様からのメッセージの続き)

そして今も、わたしはわが十字架で傷ついた手を人に差し出して懇願する。
王の王であり、主の主であるこのわたしは、人の前にひざまつき懇願する。
「心の底にあるあなたの愛を解き放ちなさい」
「わたしを愛してほしい。」
「あなたの周りの人を愛してほしい。」
「世界の問題の解決は、あなたにはできないかもしれないが、
あなたの周りの人に愛を与えることで、あなたの世界を変えることができる。」

わたしは、わたしを知る人にも、知らない人にも、その心にそう語っている。
しかし、わたしはそれを強要はしない。
涙を流しながら、十字架でわたしの血と命を注ぎ出しながら、懇願し続けている。

そしてある人はその声を聞き、その人生を変えている。
たといわたしを知るところまで至らなくても、回りに人に親切になろうとする人も大勢いる。
また、社会的なさまざまな活動を始める人もいる。
たといわたしを知らなくても、わたしはそれらの人々を希望と期待をもって見守っている。
そしてほんの少しでも、この世に蒔かれた愛が、成長するのをわたしは見守る。
天国はからし種のようなものだとわたしは語った。
それはどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなると・・
ほんの小さな微笑、道を行き交う人の交わすちょっとした挨拶、
小さな愛や親切・・・それがこの世の救いとなる。
それが希望であり、未来への光だ。

人は、世界の政府や大企業や権力や富のあるものたちが、
何か大きな変革をすることで未来が開けると考える。
しかし、わたしはそうは見ていない。
柔和なものこそさいわいである。 彼らは地を受け継ぐからである。
日常の、小さな柔和な愛の行為。 それが地を受け継ぐものである。
あなたの小さな愛が、どれだけ世界の問題の解決になっているのか、あなたには見えない。
それでも、わたしの愛に信頼し、小さな愛と親切を与え続けなさい。
わたしが、あなたのその小さな愛を使って、どれだけのことを行うことができるか、
あなたは天国に来るまで把握することはできないだろう。

覚えていて欲しい。 「神は愛である。」
だからどんな小さなことであっても、そこに愛があるのなら、わたしがそこにいるということだ。
そしてわたしがそこのいるということは、全宇宙以上の力がそこのあるということだ。

だからがっかりしてはいけない。
どんなに悲しく、悲惨なニュースを聞いても、意気消沈してはいけない。
それらの人々のために祈り、祈りつづけなさい。
そしてあなたの周りの人に、小さな愛を注ぎだし続けなさい。

「これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを注ぐかいなかを見なさい。」 マラキ3:10

****

ハレルヤ! イエス様、感謝します。

人はなぜ不完全に作られているのか? 2/3

人はなぜ不完全に作られているのか? 2/3

(イエスさまからのメッセージの続き)

天地創造を完成したときわたしは言った。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」創世記1:31
そう、そのすべては完璧であった。
アダムとイブも含めて、すべてははなはだ良く、完全であった。
そしてその「完全さ」の中には、人が「神に似たもの」として造られたことも含まれる。
それは自分の意思を持つ存在として造られたこともその「完全さ」の一部だ。
人が、自分の意思によって愛するようにである。 それが完全さであった。

そしてもちろん、選択の自由がある以上、間違った選択もありえる。
間違った選択をする可能性がないのなら、選択の自由とはいえないだろう?
だから驚くかもしれないが、人が間違いをすることもできる存在として造られ
すべてを完全に正しくするとは限らない存在として造られたのは、
「はなはだ良かった」ことの一部分なのだ。
つまり完全ではないことが、わが創造の完璧さだったということだ。

例えば、車のエンジンだ。
エンジンは、しっかりと隙間なく、完璧に作られていると思うだろうか?
否、そうではない。 隙間や多少いびつな形状にあえて作られている。
どうしてだろうか?
それはエンジンが始動し、燃料が燃え、熱くなったときに、エンジンの各部分が膨張するからである。
設計者は、熱による膨張を考慮にいれ、あえていろいろな隙間やいびつな形状に作らなければならない。
そうでないと、エンジンが熱くなったとき、動く隙間もないほど各部品がきつく合わさってしまうからだ。
だからエンジンを不完全な形状に作ることが、「完全な」エンジンの作り方だ。

それと同じように、わたしは人を不完全なものとして創造した。
いつもいつも正しい選択をし、愛情深い行いをすることが約束されているロボットとして創造をしたのではない。
そうではなく、神に似たものとして、愛する子供たち、恋人、伴侶として創造した。
ちょうど恋人たちや夫婦が、互いへの愛が、その人の心からのものであることを望むように、
わたしも人の愛が、その人自身の心からのものであることを望む。

ただ単に恋人だから、あるいは夫婦だから、当然愛しあう「べき」だ・・という理由だけで「愛し合う」ことを
誰が望むであろうか? 誰も、そんな「愛」は望まない。
それは愛と呼べるものではなく、むしろ束縛であり、拘束である。

わたしは人を愛する対象として創造した。
愛する子として、恋人として、伴侶として・・・
わたしの無条件で、永遠の愛で、愛することのできる対象として創造した。
そして人は、その意味で「完璧」な存在として造られた。
自分自身の選択をするもの。
自分の心から、愛を選ぶか、そうでないかを自分で決めるものとしてだ。
そういう意味で人が創造されたとき、わたしはそれを見て、「はなはだ良かった」と言った。

(つづく)

人はなぜ不完全に作られているのか? 1/3

人はなぜ不完全に作られているのか? 1/3

メールマガジンの読者からの質問を受けました。
わたしの質問も一緒に主に尋ねてみました。
長いので、3部かに分けて送信します。

(質問)
イエス様、あなたは人間をどうしてこんなにも不完全に創造されたのですか?
ただ単に、わたしたちが「自分達が不完全であると知る為」なのですか? 
それによってあなたを知るようにですか?
しかしそのために、たくさんの不幸な人々がいます。 
わたしたちには、信じられないような環境に生きている人々もいます。
いったいどうしてなのですか? もうちょっとマトモにできなかったのですか?

(イエス様からのメッセージ)
おはよう。 わたしはこうして質問してくれることが大好きだ。
あなたとこうして会話をする機会をいつも心待ちしている。
しかし、わたしはわたし自身をあなたに押し付けることはしない。
あなたが、こうして立ち止まり、わたしの顔を求め、わたしの意見を求めてくるのを
いつも忍耐強く待っている。
あなたが聞きたいという気持ちになるまで、ただ単に、わたしはあなたに語ることができないからだ。


わたしは神ではないか? 全知全能のものではないのか?
それでも、わたしに出来ないことがあるのか?
そうだ。 ある意味では、わたしにもできないことがある。
それはわたし自身が、自分を制限して、それをしないようにしているからだ。
それは、あなたの思い、考え、心に、あなたの同意もなく、無理やり押し入り、
わたしの思いを押し付けることだ。
それは愛の故である。
わたしはあなたを愛している。 心から、永遠の愛で愛している。
わたしのあなたへの愛を取り去るものは、天にも地にも、過去にも現在にも将来にも、何もない。
わたしはあなたと完璧に、永遠に恋に落ちているからである。
しかしだからといって、それはわたしの思いを、あなたの同意もなしに無理やり押し付けることではない。
もしそうしたとしたら、それは愛ではないだろう。 そう思わないかな?

愛とは、自分自身の自由意志から出てくるものだ。
無理やり引き出された「愛」は愛ではない。
また、「愛」さなければいけないから「愛する」のも愛ではない。
また、人が「愛するように創造された」からといって、自動的に愛するのも愛ではない。

わたしは人を愛している。 実に、わが命を十字架で与えたほどの愛で愛している。
そして今から永遠に至るまで、わたしは人を愛し続ける。 あなたもだ。 約束するよ。
しかし、あなたから愛されることを、わたしは強要はしない。
それはあなた自身の心から、あなた自身の思いから、自分自身の意思から出てこなければならないからだ。
そうでなければそれは愛とはいえない。
だからわたしの言葉にこうあるとおりだ。
「エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。」雅歌8:4
わたしは人の愛がおのずから起るのを、忍耐と愛と永遠の恵みと憐れみをもって待っている。
わたしは天から雨を送り、人の命を支え、
たとい人がわたしを知らず、わたしを認めなくても、
大いなる恵みにあって、一人一人を見守っている。
そして、その人の中に愛が起るのを忍耐をこめて見守っている。
わたしはそれを強要することはなく、また、人が本能的に自動的に「愛する」ように造ることをしなかった。

(つづく)

「声をあげてよばわる」詩篇3:4・・主による解説

おはようございます。
詩篇3:4
わたしが声をあげて主をよばわると、
主は聖なる山からわたしに答えられる。」

(イエス様による解説)

わたしに呼ばわりなさい。
わたしはあなたに答える。
声をあげて呼ばわりなさい。
わたしは聖なる山から、あなたに答える。
声をあげることは、重要だ。
ただ頭の中の「思い」において、わたしを呼ぶことは良い。
しかしもし「声をあげて」よばわることができる状況であるのなら、
そのほうがもっと良い。
試練や悩みで伏しているとき、ただ無言で祈るのではなく、声にだして祈ってほしい。
祈りを声に出し、
賛美を声に出しなさい。
そして勝利を得るまで、声に出して、
祈り、賛美をし、よばわり、歌い、そして祈りなさい。
特に激しい試練や悩みにあるときは、
それは救命のための胸骨圧迫(心臓マッサージ)ににている。
救急車が来るまでただひたすら、心臓をポンプし続けるようなものだ。
ただ119番に電話をして、後は何もせずに、
救急車が来るのを待っいるのではない。
助けが来るまで、ポンプし続けるのだ。
悩みや試練の時の「祈り」は、119番への電話のようなものだ。
その時点で、天国からの助けは送られる。
しかし、勝利を勝ちとり、平安と信仰を得るまで、
つまり「救急車」が到着するまで、
「声をあげて」わたしを呼びもとめ、
勝利を得るまで、祈りと賛美を声に出し続けることは、
その心臓マッサージのようなものだ。
だから、声に出してわたしによばわりなさい。
決してあきらめてはいけない。
勝利はすぐに、そう、すぐに来る。
あなたがあきらめずに、賛美を声にだしてし続ける、そのほんのわずかな間に、わたしは大いなる奇跡を行うからである。
だから声をあがてわたしによばわりなさい。
わたしは聖なる山から、あなたに答えよう。

***
ハレルヤ!
イエスさま、感謝します。



「声をあげてよばわる」詩篇3:4・・主による解説

おはようございます。
詩篇3:4
わたしが声をあげて主をよばわると、
主は聖なる山からわたしに答えられる。」

(イエス様による解説)

わたしに呼ばわりなさい。
わたしはあなたに答える。
声をあげて呼ばわりなさい。
わたしは聖なる山から、あなたに答える。
声をあげることは、重要だ。
ただ頭の中の「思い」において、わたしを呼ぶことは良い。
しかしもし「声をあげて」よばわることができる状況であるのなら、
そのほうがもっと良い。
試練や悩みで伏しているとき、ただ無言で祈るのではなく、声にだして祈ってほしい。
祈りを声に出し、
賛美を声に出しなさい。
そして勝利を得るまで、声に出して、
祈り、賛美をし、よばわり、歌い、そして祈りなさい。
特に激しい試練や悩みにあるときは、
それは救命のための胸骨圧迫(心臓マッサージ)ににている。
救急車が来るまでただひたすら、心臓をポンプし続けるようなものだ。
ただ119番に電話をして、後は何もせずに、
救急車が来るのを待っいるのではない。
助けが来るまで、ポンプし続けるのだ。
悩みや試練の時の「祈り」は、119番への電話のようなものだ。
その時点で、天国からの助けは送られる。
しかし、勝利を勝ちとり、平安と信仰を得るまで、
つまり「救急車」が到着するまで、
「声をあげて」わたしを呼びもとめ、
勝利を得るまで、祈りと賛美を声に出し続けることは、
その心臓マッサージのようなものだ。
だから、声に出してわたしによばわりなさい。
決してあきらめてはいけない。
勝利はすぐに、そう、すぐに来る。
あなたがあきらめずに、賛美を声にだしてし続ける、そのほんのわずかな間に、わたしは大いなる奇跡を行うからである。
だから声をあがてわたしによばわりなさい。
わたしは聖なる山から、あなたに答えよう。

***
ハレルヤ!
イエスさま、感謝します。



「ぼくたちいのったんだよ!」

おはようございます。

昨夜は、夕方から雪が振り出しました。
6歳の末っ子のきーくんとちょっと外に出たとき、近所のおばさんが玄関先に出ていました。
「やれやれ・・・」という表情で、ずんずん積もっていく雪を見ていました。
きーくんは、大きな声でうれしそうに言いました。
「ぼくたち、雪がふるようにいのったんだよ~~~~!!」
「そんなこと・・いのらんどいて~~~」
おばさんとわたしは大爆笑!
クリスマスにも雪がなかったから、友達といっしょに雪が降るように祈ったということでした。

また、きーくんはその後、車の中で「祈り」のことをもっと話してくれました。
「インフルエンザが治るように祈ったんだよ。」
ウチでは、インフルエンザにかかった人はいません。
しかし神様は、その祈りを「インフルエンザにかからないように・・」とちゃんと翻訳してくださったようです。
神様は、幼いこどもの信じる心からの祈りを聞いてくださいます。

御言葉の学びの時間に、お兄さんが、「イエス様から聞くこと」のクラスをしてくれたことも話してくれました。
イエス様は、「今、食べ物をあげているところだよ。」と言って、
御言葉のクラスにみんなに何か食べるものをあげているイメージをもらったと言っていました。
「その食べ物って、きっと心の食べ物・・・み言葉のことだよね。」・・と説明しました。

そこで、きーくんは子ども向けのみ言葉の学びのコミックの一場面について話し始めました。
「女の人が、聖書をむしゃむしゃ食べちゃうんだよ。
そして、あ~~~おいしかった! っていうんだ。 面白かったよ。」

神さまは、きーくんをみ言葉と信仰にあって、育てて下さっています。
感謝です。

***

では、今朝は詩篇8を共に祈りましょう。

主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、
あだに備えて、とりでを設けられました。
わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
すべての羊と牛、また野の獣、
空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

アーメン! ハレルヤ!
***


火星人と金星人

おはようございます。
次回の、子育て勉強会は先回にひきつづき夫婦関係を主題として選びました。
今度の資料は、「男は火星から、女は金星から」ジョン・グレイ著を使います。
その本に「男と女の感情ニーズ」について書いてありました。
男と女の感情的ニーズは異なります。 著者は、それぞれ6つづつを挙げています。
男が重んじる感情ニーズ
1:信頼されること、
2:受け入れられること 
3:評価されること
 
4:称賛されること 
5:認識されること   
6:励まされること
女が重んじる感情ニーズ
1:気づかわれること 
2:理解されること  
3:尊重されること
 
4:仲間意識を持ってもらえること 
5:承認されること   
6:安心させられること
・・・だそうです。
面白いのは、男と女のそれぞれ異なるニーズは、互いに対応関係にあるということです。
つまり・・
男は、女から信頼されると、もっと女を気遣うようになる。
逆に、女は男から気づかわれると、その男をもっと信頼するようになる。
男は、女から受け入れられると、その女をよりよく理解しようとする。
女は、男に理解してもらえると、その男のことを受け入れられるようになる。
・・・などのようにです。
火星人と金星人の両側が、相手の必要を知り、それを満たそうと歩み寄るのなら、
とても素晴らしいパートナーになれる・・・そんな内容でした。

***
愛するイエス様
あなたは人を、神に似せて作られ、男と女とに作られました。
ですからあなたは、その両方が必要とされていることをご存知です。
夫婦でも、友人でも、仕事仲間でも・・
異性人(異星人)同士の食い違いのために、おたがいに悩むこともありますが、
主よ、互いに補い合う部分も沢山あります。
ですから、そのことの故にあなたに感謝します。
互いの違いを乗り越え、さらにはその違いを踏み台として、
互いに成長していけますように、あなたの恵みによってお導きください。
尊いイエス様のお名前で祈ります。
アーメン。
***

わたしの主、盾、栄え…イエス様による詩篇3:3解説

おはようございます。
イエス様による詩篇の解説 3:3です。
「しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄、わたしの頭をもたげてくださる方です。」 
***
(イエス様からのメッセージ)
この聖句の通り、わたしはあなたの主、あなたを囲む盾、あなたの栄えである。
あなたが落胆しているとき、あなたがうなだれているとき、
悲しみや失意で圧倒されるように感じるとき
どんなにがんばっても、何もうまくいかないとき
すべての努力が、いつも失敗に終わってしまうとき
あなたには、成長や前進の希望さえないように思うとき
「彼には、神の助けがない。」と人々があなたに向かって言うとき
あなた自身の心も、あなたを訴え、あなたにそう語るとき
そんなときであっても、わたしは変わらない。
わたしはあなたのあがない主。
わが十字架にあって、あなたをあがなった。
わたしはあなたを囲む盾。
あなた自身の盾もかぶとも、あなたの霊の武具のすべてが役に立たないようなときでさえも、
わたしはあなたを囲む盾である。
そして、わたしはあなたの栄えだ。 
あなたの栄えは、あなた自身の力や能力によるのではない。 あなたの栄えは、このわたしであって、それ以外にはない。
だから、あなたのこうべをあげなさい。
天に向かって、あなたの顔を上げ、わが顔を尋ねもとめなさい。
わたしは主、あなたの盾であり、あなたの栄えだ。
そして、何も、あなたからわたしを取り去ることはできない。
わたしはあなたのもの。 あなたはわたしのものだ。
大丈夫。 すべてはうまくいく。 わたしに任せておきなさい。
***
ハレルヤ! イエス様、感謝します。


身重の女と乳飲み子をもつ女とは(B)・・マタイ24:19

おはようございます。

マタイ24:19
その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。

この聖句についてイエス様に説明したいただきましたが、そのまま書きますととても長くなります。
ですから要点だけを箇条書きにします。 神様の祝福と平安とがあなたにありますように。

1:
主は、どんな時にもどんな場合でも、主に信頼するものを守られる。
2:
ただし、それはどんな苦難や試練もない・・という意味ではない。
3:
しかし苦難や試練を通して、主はわたしたちを守り、力強く使ってくださる。
たとい地上での命が終わったとしても、それは天国への卒業であり、
わたしたちは「保護」され、「安全」であり、永遠の幸福を楽しむようになる。
4:
この世にあっても、天国に移されても、主にある者は「守られている」ということを主のみ言葉によって知っていたとしても、
「恐れ」「心配」「悲しみ」を感じることは人間として普通のことである。
特に身重の女性や乳飲み子を持つ女性にとってはかなり困難な体験となりうる。 
そういう意味で「身重の女と乳飲み子を持つ女」にとっては特に、困難な時期となる。

5:
わたしたちの感情がどうであれ、それでも、主は守ってくださる。
その困難な時期をも切り抜けさせてくださる主の約束は変わることがない。

***

では、ともに祈りましょう。

愛するイエス様

あなたはわたしをこの世に生まれさせてくださいました。
そして今日まで、わたしを支えてくださいました。
また、永遠の世界にいたるまで、わたしを世話し、保護し、守ってくださいます。
たとい困難や艱難に遭遇することがあったとしても、主よ、
あなたはそのすべてから大いなる勝利を得られます。

主よ、特に小さな子供たち、そしてその母親たちのために祈ります。
今は、まだこの艱難は来ていません。 ですからそのために感謝します。
それが来ることを心配したり、恐れたりしませんように。
あなたの御心に従って、あなたの知っておられる最善の時にそれが来ます様に。
その時、主よ、おさな子たちや妊婦たち、お年寄り、弱い者たちをお守りください。
あなたの力と栄光とは、弱い者にもっとも大きく示されます。
その弱さが、最大の強さとなるからです。

そしてそのすべてが益となり、賛美となり、勝利となる
あなたの約束を感謝します。

尊いイエス様のお名前で祈ります。 アーメン

***


身重の女と乳飲み子をもつ女とは(A)・・マタイ24:19

おはようございます。

家内はあちらこちらで聖書クラスをしていますが、次の聖句についてどう説明したらよいか分からず、
わたしに質問してきました。

マタイ24:19
その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。

マタイ24章のクラスは、わたしの何度もしていますが・・実は、この部分はわたしにとっても不可解な部分でした。
ですから、この機会にイエス様に尋ねてみました。
が・・・その前に、この聖句の背景を説明しましょう。

マタイ福音書24:15-20
預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

***
これは聖書でいう、大艱難の時代の記述です。

やがて世界のリーダーとして台頭する独裁者(聖書では「反キリスト」と呼ばれています)は、
その統治の半ば(3年半)に、自分が神だと宣言し、自分の像を「聖なる場所」に建立します。
「聖なる場所」の解釈はいろいろありますが、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって共通の聖なる場所である
エルサレムの神の神殿のあったところ(現在は、イスラムのモスクが立っています)のことかも知れません。
それがどこであれ・・その時から、大艱難期と呼ばれる時代が始まります。
それは聖書の多くの御言葉により、3年半と定められています。
(「一時と二時と半時」、「42ヶ月」、「1260日」などと記されています。)
そしてこの大艱難の後、王なるイエスが再臨され、反キリストとその軍勢を滅ぼし
この世界を神の愛と恵みによる統治に取り戻されます。

なお最近、多くの教会やクリスチャンの間では、
主の来臨と携挙が大艱難の前であるという考え方がポピュラーになっています。
しかし聖書にははっきりと「患難の後」と記されています。

マタイ24:29,39 
「しかし、その時に起る患難の後・・人の子のしるしが天に現れ・・
天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」

さてこの聖句の背景とその時に起こっていることが分かった上で、この聖句の意味するのは何なのでしょうか?

(次回に続きます。)

***
では、一緒に祈りましょう。

愛するイエス様

あなたの素晴らしいみ言葉と、未来の預言を感謝します。
あなたの預言によれば、困難な時代が来ることをわたしたちは知っています。
しかし、それらを通して、あなたはわたしたちを守られます。
しかも、ただ単に「守ってくださる」だけではなく、
主よ、あなたはあなたを知る民と共に働いて、
この困難な時代に多くの奇跡としるしと証しとをされることを知っています。
そしてこの困難な時代が来たとき、あなたの再臨が間近であることも知っています。
ですから、あなたのみ言葉によって、主よあなたをほめたたえます。

主イエスよ! 来たりませ!

アーメン
***