「逝去」を伝えるニュースです。

 

 

 

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(追加)みなさんの記事

https://ameblo.jp/utrillo-714/entry-12627541666.html(ユトリロさんの記事)

https://ameblo.jp/france-mei/entry-12627487664.html(ゆうき芽衣さんの記事)

https://ameblo.jp/jean-marie-v/entry-12627128243.html(ジャンマリ・ヴェさんの記事。この次の記事も、グレコについての話題です)

 

 
 

「ついに来るべき時が来た...」

 

 

本当にそう思いました。

 

 

一昨年に、シャルル・アズナヴール(1924.5.22-2018.10.01)が亡くなり、「1920年代生まれ」の歌手としては、ほぼ「最後」とも言えたジュリエット・グレコ。

 

それに先立つこと、「(「同年」)5月16日」には、「30年」連れ添った、「最後で最愛の夫」で、「作曲家」、「伴奏ピアニスト」でもあったジェラール・ジュアネスト(1933.5.2-2018.5.16)を亡くし、「その後の様子」が大変「気がかり」でもありましたが、この「9月23日」、グレコ自身もついに、「旅立ち」になられました...。

 

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思えば、「2016年」、私は、「2度目」にして「最後」の、ジュリエット・グレコの「来日公演」に参戦する「機会」を得ることが出来ました。

 

1996年12月8日の「金沢公演」以来となるその公演(6月1日 東京・渋谷 オーチャードホール)は、すでに「チケット」も入手して、あとは「遠征の手配」のみとなっていたのですが、その「直前」である「4月の終わり」になって、急きょ、「公演中止」の報せを聞くことになったのです...。

 

 

その当時の記事。

 

 

当時、知り合って間もない頃の「ユトリロさん」から回って来た「情報」でしたが、すでに「公式発表」もされており、程なく、「払い戻し」となりました。

 

「公演中止」の理由は、「体調不良」とのことでしたが、今回、「ウィキペディア」をあらためて確認したところ、何と、「脳血管障害(脳卒中)」だったということでした。これではたしかに、「来日公演」なんて「無理」だというものです。

 

そのこともあって、私は「ユトリロさん」とともに、日程も近かった、シャルル・アズナヴール(何と、当時「92歳」!!)の公演へ「緊急参戦」したのですが、「幸か不幸か」、それが、私にとっては、「最初で最後」の、「アズナヴール公演」となってしまったのです...。

 

その当時の記事。

 

 

アズナヴールは、「最晩年」の2018年9月にも「来日公演」を行なっていますが、もともとは「5月」の予定が、「骨折」のため、「延期」となっていたものでした。

 

私も「参戦」を予定していましたが、「代替公演」の日時では、どうしても「都合」がつかないため、やむなく「払い戻し」としたところ、「公演」からわずか「2週間後」に、「訃報」を聞くことになってしまったのです...(「当該記事」は、上に挙げてあります)。

 

やはり、「高齢」での「来日」は、その、「身体にかかる負担」が、「想像以上」のものだったということでしょう。

 

同様に、一昨年7月に「来日公演」を行なった、「映画音楽の巨匠」で、「世界的ジャズピアニスト」であるミシェル・ルグラン(1932.2.24-2019.1.26)もまた、公演後「半年」で、この世を去っています...。

 

その当時の記事。

 

 

「日本公演は"鬼門"」...?

 

「当時」は、「そんなこと」すら考えてしまうほど、「悲しいニュース」が続きました...(「今年1月」の、サルヴァトーレ・アダモの「公演延期(中止)」は、その「回避」だったのか、「新型コロナウイルス禍」が言われ始める「直前」のことでした。)。

 

 

話が少しそれてしまいましたが、ジュリエット・グレコは、「後進に道を譲る(勇退)」という意味も込めて、当時(2016年)、「最後の公演」を行なうことを「企画」していたのですが、「日本」でそれが「果たされる」ことは、ついにありませんでした。

 

 

それでは、ジュリエット・グレコを偲んで、その「名曲」を、いくつかご紹介しましょう。

 

 

「il n'y a plus d'apres "あとには何もない"」(1960)。

 

ギイ・ベアール(1930-2015)の詞・曲による「名作」です。

 

変わりゆく「サンジェルマン・デ・プレ」で、「再び会う」時には、「あなた」も「私」も、「(昔とは違う)別の人」と、なかなか「エスプリ」のきいた、「味わい深い」歌詞になっています。

 

ちなみに、ギイ・ベアールは、女優エマニュエル・ベアール(1963-)の「お父さん」です。

 

 

「si tu t'imagines そのつもりでいても」(1947)は、グレコのレパートリーの中でも「最も古い作品」のひとつです。

 

「歌手デビュー」に当たって、ジャン=ポール・サルトル(1905-80)から紹介してもらった一篇で、詩人レーモン・クノー(1903-76)の詩に、「les feuilles mortes "枯葉"」(1946, ジャック・プレヴェール詞)でもおなじみのジョゼフ・コスマ(1905-69)が曲を付けたものです。

 

詩は、「若い女性」に向けた、「教訓」のような内容となっており、当時は「最新の感覚」でもあった、「自立した女性」という、グレコの「先進性」を感じることの出来る歌となっています。

 

この映像は、1961年の「東京公演」(東京厚生年金会館)のものだということです。

 

 

1960年に「バークレー社」に移籍したレオ・フェレ(1916-93)は、その後、「破竹の勢い」とも言える「大活躍」を見せることになりますが、その「記念すべき第1作」とも言えるのが、この「jolie mome "ジョリ・モーム(美しい小娘)"」(1960)です。

 

ちょっと「悩ましい」歌詞ですが、フェレのその言葉使いの「巧みさ」と、グレコの「粋」な歌唱によって、「生き生き」とした歌となっています。

 

「グレコのレパートリー」としての方が、むしろ「有名」かも知れません。

 

 

1966年のオランピア劇場公演は、「現在では目立たない」かも知れないものの、「名作の宝庫」となっています。

 

オープニングナンバー「j'ai le coeur aussi grand "ひろい心で"」。

 

「chambre 33 "33号室"」。

 

「cimetieres militaires "軍人墓地で"」。

(このCDの「再販」が、「強く」、望まれます...)

 

 

「la fiancee du pirate "海賊の花嫁"」(1928/1953)は、ドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)の「戯曲」で、クルト・ヴァイル(1900-50)が作曲を手がけた音楽劇、「三文オペラ」(1928)の中の1曲。その「フランス語版」です。

 

グレコのレパートリーの中でも「有名」なもののひとつですが、1981年10月16日、東京の「草月ホール」での「ライヴ録音」は、とてもスケールの大きな「絶唱」でした。

 

その録音が見当たらなかったのは少し「残念」ですが、この録音にも、その「片鱗」は、うかがうことが出来ると思います。

 

 

「coin de rue "街角"」(1954)は、グレコのオランピア劇場での「初公演」の際、シャルル・トレネ(1913-2001)から贈られた曲です。

 

何と、「カフェのテーブル」で、「15分」で書き上げたという、「逸話」も残っています。

 

この映像は、1972年2月16日のボビノ劇場での公演の模様だということです。

 

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「mon fils chante "歌う少年(息子よ、歌いなさい)"」(1972)は、モーリス・ファノン(1929-91)が詞を書き、ジェラール・ジュアネストが曲を付けた作品。

 

当時のギリシャの「軍事政権」による「弾圧」に「抵抗」するため、「自由が永遠の命を得るまで、自由が世界中に生き続けるために、息子(たち)よ、歌いなさい」と語られているこの作品ですが、「現在(の某国)」でも、大いに「通用」するような...。

 

 

「je vous attends "あなたを待つ"」(1974)は、「大きなワルツ」という「副題」が、最近では付いているようですね。

 

この「スケールの大きな曲」も、もちろんジェラールが書いたもので、編曲もフランソワ・ローベール(1933-2003)と、まさに「ブレルつながり」の、「盟友」たちとの作品となっています。

 

詞は、アンリ・グーゴー(1936-)が書いています。

 

 

「non Monsieur, je n'ai pas vingt ans "ノン・ムッシュー、私は20歳じゃない"」(1977)も、同じコンビによる作品で、「1970年代」における、グレコの「最大」のヒット曲です。

 

グレコの「長年のキャリア」の中でも、「最高傑作」のひとつと言える作品です。

 

この曲の記事(歌詞対訳を掲載しています)

 

 

グレコの夫、ジェラール・ジュアネストは、ジャック・ブレル(1929-78)の「作曲家」兼「伴奏ピアニスト」として「スタート」しました。

 

中でも、「ne me quitte pas "行かないで"」(1958-59)や、「la chanson des vieux amants "懐かしき恋人たちの歌"」(1967)、「j'arrive "孤独への道"」(1968)は特に「有名」です(最初に載せている、「ジャック・ブレルがテーマの記事一覧」よりどうぞ)。

 

 

「駆け出し」だった頃のブレルは、パリに上った際、グレコのもとを訪れ、その作品をいくつか披露しましたが、その中の1曲、「le Diable(ca va) "OK、悪魔"」(1953-54)をグレコが気に入り、オランピア劇場公演(1954年)で歌うことを「約束」しました(この曲は、上掲の、「ノン・ムッシュー、私は20歳じゃない」の記事に載せています)。

 

ブレルは、その「喜び」と「感謝」を忘れることなく、「友情」は、終生続くことになりました。

 

 

こちらは、グレコのために作られた作品「je suis bien "とても素敵(私は幸せ)"」(1966-67)。

 

詞はブレル、曲はやはりジェラールが書き、1966年のオランピア劇場公演で発表されました。

 

 

ブレル自身より、「最後」に贈られたのはこの曲、「voir un ami pleurer "泣く友を見る(涙)"」(1977)。

 

ブレルがレコードを発売するよりも「2ヶ月」早く、グレコのステージにて「発表」されました。

 

この曲の記事(歌詞対訳を掲載しています)

 

 

セルジュ・ゲンスブール(1928-91)も、「新人時代」に、その作品を、グレコに贈っています。

 

「accordeon "アコーディオン"」(1962)もその中の1曲ですが、グレコのレパートリーの中でも、大変「有名」なもののひとつです。

 

 

これらの他に、「有名」で、「人気のある曲」を以下にまとめておきましょう。

 

 

「romance "ロマンス"」(1951)。

 

この曲も、1981年の「東京公演」の録音が「素晴らしい」のですが、残念ながら見当たりませんでした。

 

作曲は、ジョセフ・コスマの手によります。

 

 

「sous le ciel de Paris "パリの空の下"」(1951)は、もとは、「映画」の「主題歌」です。

 

 

グレコ、イヴ・モンタン(1921-91)、コラ・ヴォケール(1918-2011)、いずれの録音も、大変「素晴らしい」!!

 

「les feuilles mortes "枯葉"」'(1945-46)は、イヴ・モンタンが、マルセル・カルネ監督(1906-96)の映画、「夜の門」(1946)で歌ったものが知られていますが、後に、「スタンダード・ナンバー」となり、広く歌われることになりました。

 

 

ジュリエット・グレコは、フランス南東部のラマチュエル(ヴァール県)の自宅で亡くなったということですが、1992年8月2日に「急逝」したミシェル・ベルジェ(1947-92)も、この「ラマチュエル」の、「別荘」でのことでした。

 

それほど、「魅力のある街」だということなのでしょう。

 

「一度は訪れてみたい」とも思ってしまいますね...。

 

 

2018年の、夫ジェラール・ジュアネスト、また、シャルル・アズナヴールの逝去に続いて、ジュリエット・グレコまでもが世を去ってしまい、今度こそ、本当に、「伝説の終わり」といった感じがしてしまいますが、そんなことを言っていたら「ダメ」ですね。

 

これからも、「記事」を通して、グレコをはじめとした、これらの方々の「偉業」を、伝えていきたいと思っています。

 

 

あらためて、ジュリエット・グレコのご冥福をお祈りしたいと思います。

 

 

合掌...。

 

 

ジュリエット・グレコ(1927.2.7-2020.9.23)

 

 

 

 

 

 

1981年10月16日の、東京「草月ホール」でのライヴ録音はこちら。

 

こちらは「自伝」(書籍)です。

 

 

(daniel-b=フランス専門)