天国の書 第7巻(4) | それゆけだんごむし!ーカトリック「神のご意志の王国」の霊性のブログ

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第7巻(4)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 4 】

 

1906年7月17日

 神の意志を行なう者に、イエスはご自分の宝の鍵を与える。

 神からくる恵みに魂が携わらないものはない。

 

1906年7月21日

 正しい意思が行動を清める。

 

 

1906年7月27日

 十字架においてイエスは魂を持参金とし、それらをご自身に結びつけられた。

 

1906年7月28日

 魂の大胆さ。イエスは彼女を擁護する。

 

◆1906年7月31日

 イエスは単純さについて語られる。

 

◆1906年8月8日

 止まることなく走り続けることがいかに必要であるか。

 

◆1906年8月10日

 地上の満足が一つ減れば、天国の幸福が一つ増える。

 

◆1906年8月11日

 十字架は宝である。

 

◆1906年8月25日

 聖職者の私利私欲と人間科学

 

◆1906年9月2日

 ルイーザはイエスに清算することを望む。

 イエスは彼女に自分のことを何も考えないことを望んでおられる。

 

 

 

1906年7月17日

神の意志を行なう者に、イエスはご自分の宝の鍵を与える。

神からくる恵みに魂が携わらないものはない。

 

今朝、私は祝福されたイエスが鍵を手にしておられるのを見ました。そして主は私にこう言われました。

 

「娘よ、この鍵は私の意志の鍵です。私の意志の中に生きる者が、好きなように開け閉めし、私の宝物から好きな物を何でも取るために鍵を持つのは当然のことです。実際、私の意志に従って生きることによって、魂は私の宝物を自分のもの以上に大切にしてくれるでしょう。なぜなら私のものはすべて魂のものであり、魂はそれらを無駄にすることはないからです。それどころか魂はそれらを他の人に与え、あるいは、私にもっと誉れと栄光を与えることができるものは何でも自分のものにします。だから見なさい、私はあなたに鍵を預けます――私の宝を大切にしなさい。」

 

彼がそう言っている間、私は神の意志にすっかり浸り、神の意志しか見えなくなり、私は一日中、この神の意志の天国で過ごしました。何という幸福、なんという満足感!

夜の間、私は自分の外にいることに気付き、この雰囲気の中に居続けました。そして主はこう付け加えられました。

 

「ご覧なさい、愛する者よ、私の意志の中に生きる者は、天と地のすべての被造物のために私の意志からもたらされる恩寵の中に携わらないものは何もありません。なぜなら、父の家に住む者は、すべてのものに満ち溢れている者だからです。そして、外にいる他の人が何かを受け取るとしたら、それはその中に住んでいる者からの贈り物なのです。」

 

しかし、この神聖な意志について私がどう理解したかについては誰にも語ることはできません。これらは表現することができないものだからです。すべては神の栄光のためでありますように。

 

 

 

 

1906年7月21日

正しい意思が行動を清める。

 

祝福されたイエスがほんの少しお出でになり私にこう言われました。

 

「娘よ、すべての人間の行いは、たとえ聖なるものであっても、私に対する特別な意図なしに行われると、暗闇に満ちて魂から出てきます。一方、私を喜ばせようとするまっすぐで特別な意図をもって行うなら、それらは光に満ちて出てきます。なぜならその意図は行動そのものを浄化するからです。」

 

 

 

1906年7月27日

十字架においてイエスは魂を持参金とし、それらをご自身に結びつけられた。

 

今朝、私の愛すべきイエスが十字架を抱きしめておられるの見て、私は心の中でこう思いました。

「十字架をお受けになったとき、主はどのような思いを抱かれたのでしょう?」

 

そして彼は私に言われました。

 

「娘よ、十字架を受け取ったとき、私はそれを私の大切な宝物として抱きしめました。なぜなら、十字架において私は魂を持参金とし、それらを私自身に結び付けました。まさに、十字架を見て、その長さと幅を見て私は喜びました。私はその中に、私の配偶者たちすべてに十分な持参金があるのを見たし、そして誰も私と結婚できないことを恐れる必要はありませんでした。なぜなら、私は十字架にあって、彼らの持参金の代価を自分の手に握っていたからです。しかし、この条件では次のようになります。もし魂が私を配偶者として受け入れることの契約として、私が魂に送るささやかな贈り物 — 十字架 — を受け入れるなら、結婚は成立し、私は魂に持参金の贈り物を与えます。もし魂が贈り物を受け取らないなら、つまり、魂が私の意志に従わないのなら、すべてが取り消され、たとえ私が魂に持参金を与えたくても与えることはできません。結婚を成立させるには、必ず双方の意志が必要なのです。魂が私の贈り物を受け取らないということは、魂は結婚を受け入れたくないということを意味します。」

 

 

 

 

1906年7月28日

魂の大胆さ。イエスは彼女を擁護する。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスが少しの間お出でになりました。イエスを見るやいなや、私の腕の中に、まるで主を心の中に閉じ込めたいかのように、とても抱きしめました。その時、回りにいた何人かの人たちがこう言っていました。

 

「彼女はなんて大胆なんだろう。彼女は自由すぎます。人が自由を謳歌するとき、その人が持つべき尊敬と敬意は失われます。」

 

それを聞いて私はすっかり赤面してしまいましたが、そうしなければなりませんでした。

 

主は彼らに言われました。

 

「人が誰かを愛し、敬い、尊重するのは、それを自分のものにしたい時だけです。そして、それを自分のものにしたくないときは、それは彼がそれを愛していないことを意味し、したがって彼はその人に対して尊敬も敬意も抱いていません。たとえば、もし誰かが金持ちを愛しているかどうかを知りたければ、金持ちについて話すとき、その人は金持ちをもっとも尊敬し、金持ちを重んじます。金持ちを尊敬するのは、彼らが金持ちだからにほかなりません。そしてすべての富を自分のものにしようと思うでしょう。一方、彼らを愛していない場合は、彼らについての話を聞くだけでイライラします。他のすべてのものについでも同様です。だから、彼女は非難されるどころか賞賛に値します。そして、もし彼女が私を自分のものにしたいと望むなら、それは彼女が私を愛し、私を尊び、私を尊重していることを意味しているのです。」

 

 

 

1906年7月31日

イエスは単純さについて語られる。

 

いつもの状態を続けていると、祝福されたイエスがほんの少しおいでになり、私をすっぽりと抱きしめてこう言われました。

 

「娘よ、単純であることは美徳であり、食べ物にとっての調味料のようなものです。単純な魂には、私の中に入るための鍵も扉もなく、私が彼女の中に入ることもありません。なぜなら、魂は四方から私の中に入ることができ、私は魂の中に入ることができるからです。さらに言うなら、魂は私の中に入ることなく、私の中に自分自身を見出します。魂は単純であることによって、最も単純な魂である私に似るようになり、私が最も単純であるがゆえに、私はどこにでも存在し、私の手から逃れるものは何ひとつありません。単純な魂は太陽の光のようなもので、どんな霧があっても、どんな埃の中を光線が通り抜けようとも、常に光のままで、すべての人に光を与え、決して変わりません。同じように、単純な魂は、どんな苦痛や不快感を受けようとも、自分自身と、自分を苦しめた人々のために光であることを止めません。また、悪いものを見ても、汚れることはなく、常に光のままです。なぜなら、単純さは神聖なる存在に最も似ている美徳だからです。この美徳を通してのみ、人は他の資質に参加することができ、単純な魂にのみ、神聖な恩寵が入り込み、活動するための支障や妨げはありません。実際、一方と他方はどちらも光なので、一方の光は容易に他方の光に溶け込み、他方の光に変容するのです。」

 

しかし、この単純さについて私が理解したことを誰が言えるでしょうか?あたかも自分の心の中に海があるような気がして、私はこの海の小さな一滴一滴を区別して現すことが出来るのです。神に感謝。

 

1906年8月8日

止まることなく走り続けることがいかに必要であるか。

 

今朝、祝福に満ちたイエスがほんの少し来てくださいました。私は主の窮乏のためにすっかり疲れていたので、主は私にこう言われました。

 

「娘よ、魂が中心点に到達するためには、立ち止まることなく常に走り続けていることが必要です。なぜなら、走ることによって、魂の道はよりスムーズになり、魂が進み続けるにつれて、自分の中心を見つけるために到達しなければならない地点が魂の前に姿を現すからです。そしてその道すがら、魂の旅に必要な恩寵が、恩寵の助けを借りて、苦労や人生の重さを感じないように、魂に施されるのです。歩いたり立ち止まったりする人とは正反対です。実際、立ち止まるだけで、魂はすでに歩いた歩みの疲れを感じ、旅への体力を失ってしまいます。歩かないことで、最も高い位置にある自分の場所を見ることが出来ず、魅力を感じなくなします。魂が走らなければ、恩寵は無駄に与えられることはなく、怠惰は退屈と煩わしさを生み出し、人生は耐えがたいものになるでしょう。」

 

 

 

1906年8月10日

地上の満足が一つ減れば、天国の幸福が一つ増える。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しお姿をお見せになり、こう言われました。

 

「娘よ、魂が私を愛するためにこの世で魂が失ったわずかな喜びのために、私はあの世においてもう一つの喜びを与えましょう。だから、ここでの満足が一つ減れば、あの世での喜びが一つ増えます。私のために、この20年間、あなたがベッドの上での生活でどれほどの苦難を味わったか、そして私が天国でどれだけの喜びを与えるかを少し想像してごらんなさい。」

 

それを聞いて私はこう言いました。

「良きお方、何をおっしゃるのですか? 私は光栄に思うし、ほとんどあなたのおかげです。なぜなら、あなたは私にあなたを愛するがゆえに、あなたへの愛を奪われる機会を与えてくださるからです。そしてあなたは私に多くの喜びを与えてくださるとおっしゃるのですか?」
 

彼はこう付け加えました。

「まさにその通りです。」

 

神に感謝します。

 

 

 

1906年8月11日

十字架は宝である。

 

 いつもの状態に気が付くと、白い真珠でいっぱいの十字架を手にした、愛するイエスが見えました。主はそれを私に贈り物として与え、私の胸に置かれました。そしてそれは部屋の中にいるように私の心に染み込んでいきました。それから彼は私に言いました。

 

私の娘よ、十字架は宝であり、この貴重な宝を保管する最も安全な場所は自分自身の魂です。いや、むしろ、魂が忍耐強く、諦観と、他の美徳とともに、この宝を受け取る決心をすれば安全な場所なのです。なぜなら美徳はそれを守るための多くの鍵であり、それを台無しにしたり泥棒にさらしたりしないようにします。けれども、特に忍耐の金の鍵を見つけなければ、この宝は多くの泥棒に見つかり、彼らはそれを盗んで台無しにするでしょう。」

 

 

 

1906年8月25日

聖職者の私利私欲と人間科学

 

今朝、私は自分の外にいることに気付きました。司祭や高位の聖職者たちが、自分たちの利益や、自分たちには必要のない人間科学に熱中し、自分たちよりも上位の権威に対する反逆の精神を高めているように見えました。

 

主は私に言われました。

 

「娘よ、利権、人間科学、そして司祭に関係のないすべてが、司祭にとって泥まみれで腐敗した第二の天性を形成しています。そして、たとえ聖なるものであっても、彼から生れるわざは、とても臭く、吐き気を催すので、私には耐えがたいものです。これらの罪のために祈り、償なってください。私はもうこれ以上我慢できません。」

 

 

 

 

1906年9月2日

ルイーザはイエスに清算することを望む。

イエスは彼女に自分のことを何も考えないことを望んでおられる。

 

今朝は聖体拝領を受けなければならなかったので、引きこもる準備をしました。つまり、死に備えるためです。そして聖体拝領を受けた後、私は祝福されたイエスに言いました。

 

「私の人生の最後の最後まで残さないように、今すぐ清算をしましょう。私自身、自分がどうなっているのか分かりません。私は自分のことを顧みないし、顧みないことによって、自分自身を認識しないので、恐れも、良心の呵責も、動揺も感じません。一方、私よりもはるかに善良な人々、そして私が読んだ聖人たちの人生でさえも、彼らは皆、自分自身を振り返っています。寒かろうが暖かろうが、誘惑に駆られようが穏やかであろうが、告白が上手かろうが下手だろうが、彼らのほとんどすべてが内気で、興奮しやすく、几帳面な性格です。その代わりに、私のすべての注意はあなたを望み、あなたを愛し、あなたを傷つけないことにあります。そのほかの部分については何も考えていません。他のことを考える暇はないようで、それをしようとすると、内なる声が私を揺さぶり、𠮟りつけ、こう言います。

 

『時間を無駄にしたいのですか?神と一緒に行動することを考えなさい。』

 

ですから、私自身、自分が今どのような状態にあるのか、つまり、寒いのか、乾いているのか、暖かいのか分からないのです。そして、もし誰かがその説明を望んだとしても、私は説明することができません。私は間違っていると思います。だから今すぐ清算をして、わたしがそれを正すことができるようにしてください。」

 

そして何度も何度も祈った後、主は私に言われました。

 

「娘よ、私はいつもあなたを膝の上において、自分のことを考える暇を与えないようにきつく抱きしめています。父親が幼い子供を膝の上に乗せるように、私はあなたを抱きしめ、キスをし、愛撫します。自分の手で食物を与え、うっかり幼子が汚してしまっても、父親がきれいに洗います。もし、父親が苦しんでいる姿を見せれば、幼子は父親を慰め、涙を拭いてくれます。もし父親がイライラしていれば、幼子は父親を落ちつかせます。要するに、父親は幼子の命であり、幼子が食べる必要があるか、汚れていないか、服を着せる必要があるか、そして幼子が眠る必要があるかどうかを、幼子に少しも心配させません。なぜなら腕で揺りかごを作り、揺すって眠らせ、自分の膝の上で眠らせるからです。そして、幼い子供は、父親の安らぎと生活のすべてであり、他の成長した子供たちは、家の整理整頓や自分たちの掃除、その他のすべての世話をします。だから私もそうします。私はあなたを幼い娘のように私の膝の上に乗せ、私と親密に結ばれているので、あなたに私を感じさせません。私はあなたのすべてのことを考え世話をします。汚れていたら掃除し、食べ物が必要ならば食べ物を与えます。要するに、私はあなたが自分の必要に気づかないように、すべてにおいて先回りしているのです。そして、あなたを私にしっかりと抱きしめることによって、あなたに恵みを与えています。 なぜなら、あなたは非常に多くの欠点から逃れられているからです。もしあなたが自分のことを考えたら—— ああ、どれだけ多くの欠点に陥ることでしょう! だから、私に対して幼い娘としての務めを果たすことを考えなさい。それ以外のことは何も考えてはいけません。」

 

 

(5)に続く…

 



だんごむし通信

 

天国の書「第7巻」始めました。

順次更新予定です。

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

 

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