天国の書 第7巻(3) | それゆけだんごむし!ーカトリック「神のご意志の王国」の霊性のブログ

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第7巻(3)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 3 】

 

1906年6月20日

 すべては一点に還元されなければならず、すべては炎にならなければならない。

 

1906年6月22日

 イエスの衣服に似た服。

 

1906年6月23日

 従順によって、彼女は生贄としてこの世に生き続ける。

 

1906年6月24日

 彼女は天国を待ち望み続ける。

 

◆1906年6月26日

 彼女は赤ん坊のイエスに会い、イエスは彼女にキスをし、彼女を憐れむ。

 

◆1906年7月2日

 苦しみと共にイエスのために指輪を作る。

 

◆1906年7月3日

 神の意志は地上の魂の天国であり、神の意志を行なう魂は地上の神の天国を形成する。

 

◆1906年7月8日

 魂はイエスの光に引き寄せられるが、従順はそれを望まない。

 

◆1906年7月10日

 イエスに完全に身を捧げる者は、イエスのすべてを受け取る。

 

◆1906年7月12日

  被造物にとって苦しみとなるものはすべて神に触れる。

 

 

 

 

1906年6月20日

すべては一点に還元されなければならず、すべては炎にならなければならない。

 

魂と肉体が激しく痛み、一晩中燃えるような熱にうなされた私は、自分が燃え尽きようとしているのを感じました。私の力は尽き、死にそうになのに、主は来られませんでした。もうこれ以上は耐えられそうにありませんでした。そしてしばらくすると、私は自分が自分の外に出て行くのを感じ、計り知れない光の中に私たちの主を見ました。すると私自身の体の最も小さな粒子でさえも、完全に釘付けにされました。他の時のように手や足だけでなく、骨の一本一本に釘が打ち込まれていました。ああ、どれほどの多くの苦い痛みを感じたことでしょう!ちょっとした動作のたびに、私はその釘によって切り裂かれ、気を失いました。私は死のうとしているように感じましたが、諦めて神の意志に没頭しました。それが神の宝物を開く鍵であり、そこから苦しみの状態を維持するための力を得て、私を満足させ、幸せにしてくれるように思えたからです。しかし私は燃えていました。その釘は火を生み出しているようで、私はその中に燃やされていました。祝福されたイエスは私をご覧になり、喜んでおられるようでした。すると主は私にこう言われました。

 

「娘よ、すべてはひとつの点に帰らなければなりません。つまり、すべてが炎にならなければなりません。そしてこの炎からろ過され、押され、叩かれ、最も純粋な光が出てきます。火の光ではなく、太陽の光のように、私を取り巻く光に完全に似ています。光となった魂は、神聖な光から離れることはできません。むしろ、私の光は魂を吸収し、天国へと運びます。それゆえ、勇気を出しなさい、これは魂と肉体の完全な十字架なのです。あなたの光はすでに炎から飛び立とうとしており、私の光はそれを吸収するためにその炎を待っているのが分かりませんか?」

 

主がそう言っている間、私は自分自身を見つめると、自分の中に大きな炎を見えました。そこから小さな小さな光の炎が出て来て、今にも分離して飛び立とうとしていました。私の満足感を誰が説明できるでしょうか?死にそうになったとき、私の唯一にして最高の善、自分のいのち、自分の中心といつも一緒にいることを考えると、私は前もって天国を感じました。

 

 

 

1906年6月22日

イエスの衣服に似た服。

 

私の苦しみは増し続けていましたが、祝福されたイエスが少しの間お出でになり、縫い目も隙間もない、すべて装飾された完全な衣服が私の体の上に掛けられているのを見せてくださいました。それを見ていると、主は私にこう言われました。

 

「愛する者よ、この衣は私の衣に似ています。私は私の受難の苦しみをあなたと分かち合い、あなたを生贄といて選んだことを通して、あなた方に伝えました。この衣は世界を覆い、保護するものであり、すべてであるがゆえに、誰もその保護から逃れることはできません。しかし、邪悪が蔓延する世界は、もはやこの衣で覆われるには値せず、神の憤りの重さを感じなければなりません。ですから、私はこの衣によって長い間封じられていた私の正義を発散させるために、この衣を自分のもとに引き寄せようとしています。」

 

その瞬間、私がこの数日間で見た光がこの衣の中にあり、主はそれらをご自分の中に吸収するために、その両方を待っているように思われました。

 

 

 

1906年6月23日

従順によって、彼女は生贄としてこの世に生き続ける。

 

体調が悪くなり続けたので、私は聴罪司祭に上にかいたようなことを話ましたが、同じ話題に関するいくつかのことについては黙っていました。その理由の一つは、私が極度の衰弱を感じていて話す力がなかったことで、また、従順が私に罠を仕掛けるかもしれないという恐れからでした。おお、聖なる神よ、なんという恐れでしょう!私がどのように生きているかは神だけが知っています。私は絶えず死に続けながら生きています。私の唯一の救いは、神に再びいのちを見つけるために死ぬことです。しかし従順が残酷な死刑執行人のように振る舞い、神のもとで永遠に生きるのではなく、死に続けさせようとします。ああ、従順よ、おまえはなんと恐ろしく、強いのでしょう!

 

それで聴罪司祭は私に、彼はそれを許さないと言い、従順がそれを望んでいないと主に伝えるように言いました。なんという苦痛でしょう!それで、自分がいつもの状態であるのに気づくと、主が見え、聴罪司祭が私を死なせないようにと祈っているのが見えました。主が彼の言うことを聞くかもしれないと恐れて私は泣いていましたが、主は私にこう言われました。

 

「娘よ、静かにしなさい。泣いて私を苦しめないでください。私は世界を滅ぼしたいので、あなたを連れて行く理由があります。そしてあなたとあなたの苦しみへの配慮から、私はまるで縛られているように感じています。しかし、あなたをこの世に留めておきたいと言う聴罪司祭の気持ちも正しいのです。なぜなら、哀れな世界、かわいそうなコラートが置かれている状態を誰も守ってくれなかったら、どうなってしまうのでしょう?そして自分自身のためにも。なぜなら、あなたがそこにいるからこそ、私はあなたを用い、時には直接的に彼について何かを語るからです。そして時には間接的に𠮟責し、突き放し、彼が私の機嫌を損ねるようなことをさせないようにしています。だから、もし私があなたを自分のもとに呼び寄せるなら、私は彼の苦しみを用います。しかし、勇気を出しなさい、今状態では、私は聴罪司祭よりもむしろあなたを満足させたいと感じています。そして私自身、彼の意志を変える方法を知っています。」

 

その時私は自分の中にいて、従順がそれを望まないことを彼に伝えませんでした。なぜなら、私は聴罪司祭が私たちの主と一緒にいるのを見たので、聴罪司祭はすでにすべてを知っておられるように思えたからです。

 

 

 

 

1906年6月24日

彼女は天国を待ち望み続ける。

 

私が上記のことを聴罪司祭に話した後、彼は私が主に逆らうことを強く望んでいたので動揺しました。しかし、従順がそれを望みませんでした。私は体調が悪化していました。祝福されたイエスの数々の苦難を思うと、何度も何度も胸が熱くなり、天国が待ち遠しくなりました。従順に対して不平を言い続ける自分の哀れな人間性をまざまざと感じました。私は自分の人間性の貧しさをまるで圧縮機の下で押しつぶされているように感じ、決心がつきませんでした。そうこうしているうちに、私たちの主が光の弓を手にしてこられました。光の大鎌が出て来て、祝福されたイエスが手に持っていた弓に触れると、弓はキリストに吸い込まれました。そして従順が何を望んでいるかを私に話す時間も与えずに、彼は姿を消しました。弓は私の魂であり、大鎌は死であると理解しました。

 

 

 

 

1906年6月26日

彼女は赤ん坊のイエスに会い、イエスは彼女にキスをし、彼女を憐れむ。

 

同じように続けると聴罪司祭がやって来て、私に同じ従順を与え続けました。その後、赤ん坊のイエスが来られたので、私は従順に対する私の苦しみを話しました。イエスは私を愛撫し、憐れみ、たくさんのキスをしてくださいました。このキスを通して、主は私に生命の息吹を吹き込んでくださり、気づくと自分の中の人間性が強められたように感じました。神だけが私のこの痛みを理解することができます。なぜなら、それは私が語ることの出来ない痛みだからです。せめて、主がこのような従順を捧げる人々を照らしてくださることを願っています。主が私をお赦しくださいますように。痛みが私に余計なことまで語らせるのです。

 

 

 

1906年7月2日

苦しみと共にイエスのために指輪を作る。

 

いつもの状態で苦しみが少しずつ増し続けていたとき、祝福されたイエスが少しだけお出でになられ、私にこう言われました。

 

「娘よ、私は自分自身を世界から断絶したいので、本当はあなたを連れて行きたいのです。」

 

神は私を誘惑したかったようですが、私は主が私を連れて行くことについては何も話しませんでした。なぜなら、従順が反対したことと、また、私が世界をかわいそうに思っているからです。その間、主は私に御手を示され、その指には、白い宝石のついたとても美しい指輪がはめられていて、その宝石からは沢山の小さな金の指輪が垂れ下がり、それらが絡み合って主の御手の美しい飾りとなっていました。彼はそれを示し続け、とてもお気に召され、こう付け加えられました。

 

「あなたはこの数日間、あなたの苦しみによって私のためにこのようなことをしてくれました。私はあなたのめにもっと美しい苦しみを用意しています。」

 

1906年7月3日

神の意志は地上の魂の天国であり、神の意志を行なう魂は地上の神の天国を形成する。

 

聖体拝領を受けた後、私はすべてが最も神聖なイエスと一つになり、抱きしめられていると感じました。イエスが私を抱きしめている間、私はイエスの中で安らぎ、イエスは私の中で休まれました。それから主は私に言われました。

 

「愛する者よ、私の意志に生きる魂は安らぎます。なぜなら、神聖なる意志が魂のためにすべてを行ない、それが魂のために働いている間、私は魂の中に最も美しい休息を見出すからです。だから、神の意志は魂のための憩いであり、魂の中の神のための憩いなのです。私の意志の中で安らいでいる間、魂は常に私の口に密着したままで、神聖な生命を自分の中に吸い込み、それを魂の絶え間ない糧とします。神の意志は地上の魂の天国であり、神の意志を行なう魂は地上に神の天国を形成するようになります。神の意志は、神の秘密の宝を開く唯一の鍵であり、魂は神の家で慣れ親しみ、あたかも自分がその所有者であるように振る舞うようになります。」

 

この神聖な意志について、私は何を理解したかを誰が話すことができるでしょうか?ああ、神の御心よ、あなたはなんと立派で、愛らしく、魅力的で、美しい方なのでしょう!あなたの中にいると、自分のすべての惨さとすべての悪が溶け去り、すべての神聖な宝を完全に備えた新しい存在を手にすることができるでしょう。

 

 

 

 

1906年7月8日

魂はイエスの光に引き寄せられるが、従順はそれを望まない。

 

それはほとんどいつも同じように続いています。少しだけ力が増したように感じるだけです。神がいつも祝福されますように。主の愛の前では、すべてがちっぽけなものです。たとえ神を窮乏していても、天国から離れていても、ただ従うだけです。今従順が、私が今でも時々見ている光について何か書くことを望んでいます。時々、私の中に主がいらっしゃるように見えるし、主の人間性から光に包まれて出て来る別の姿が出てくるときもあります。キリストの人間性は、あたかもこの火をなぞるかのように、ますます火とキリストの光の姿に火をつけます。そしてこのなぞられた火から、キリストの光の姿に完全に似た光が生まれます。主は大喜びで、それを自分自身と一体化させるためにそれを待ち望んでおられ、そしてそれは再び彼の人間性に組み込まれます。またある時は、自分の外にいる自分に気付き、自分が燃えているのを見ることもあります。火から飛び出そうとしている光と、その光に息を吹き込んでおられる主の姿が見えます。光は上昇し、イエス・キリストの口に向かって進み始め、イエス・キリストの息でそれを跳ね返し、引き寄せ、さらに広げ、より輝かせます。そして哀れな光は、主の口に入りたいがために、身をよじり、あらゆる努力をします。もし私がそこに辿りつたら、私は息を引き取ることができるでしょう。それなのに、私は内心でこう言わざるを得ません。

「従順はそれを望んでいません。」

こんなことを言えば 私のいのちが失われるにもかかわらず。神よ。主はこの光で多くの冗談を言って喜んでおられるようでした。

 

また主がお出でになり、主ご自身が私に与えて下さったものをすべて見直したい—— つまり、すべてが整然としていて、埃がないか確認したいと望んでおられるように思えました。それから主は私の手を取り、私をご自分と婚約させたときにくださった指輪を外されました。そのうちの一つはそのままで、残りは息で埃を払い、それらを元に戻されました。そして主は私に服を着せ、私の近くに身を置き、こう言われました。

 

「そう、あなたは美しい。私のもとに来なさい、私はあなたなしではいられません。あなたが私のところに来るか、私があなたのところに行くかどちらかです。あなたは私の愛する者であり、私の喜びであり、私の満足なのです。」

 

イエスがそう言っている間、光りはもがき苦しみ、あらゆる努力をします。なぜなら光はイエスの中に入りたいからです。そしてそれが飛び始めると、聴罪司祭がそれを手で遮り、私の中に閉じ込めようとするのに、イエスは黙ってそれを許しているのが分かります。ああ、神よ、なんという苦痛でしょう!このようなことが起こるたびに、私は死んでしまいそうになりますが、忍耐することで、私は再び自分の道を進んでいることに気づきます。この光についてすべてを語ろうとしたらきりがありません。しかし、このことを書くのはとても辛く、これ以上書き続けることが出来ません。また表現できないことも多いので、黙ります。

 

 

 

1906年7月10日

イエスに完全に身を捧げる者は、イエスのすべてを受け取る。

 

私がいつもの状態でいると、主が少しの間お出でになり、こう言われました。

 

「娘よ、私に完全に身を捧げる者は、私が完全に身を与えるに値します。私はここにいます。なんでも好きなようにし、あなたが望むものは何でも取りなさい。」

 

私は何も求めず、彼にこう言いました。

「わが善よ、私は何も欲しくありません。私はあなただけが欲しいのです。すべてにおいてあなただけで十分です。なぜなら、あなたさえいれば、私はすべてを持っているのですから。」

 

そして彼は

「素晴らしい、よく言った。あなたは何も望まなかったのに、すべてを望みました。」

 

 

 

 

1906年7月12日

被造物にとって苦しみとなるものはすべて神に触れる。

 

祝福されたイエスを待ち望むあまり、私は疲れ果てていました。しばらくして通りすがりに主は私にこう言いました。

 

「娘よ、被造物にとっての苦しみや刺し傷となるものはすべて一方では被造物を刺し、他方では神に触れます。そして触れられたと感じた神は、触れられるたびに、被造物に常に神聖なものを与えます。」

 

そして主は姿を消しました。

 

 

 

 



だんごむし通信

 

天国の書「第7巻」始めました。

順次更新予定です。

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

 

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