リーかあさま記念館のブログ -61ページ目

湯之沢から楽泉園へ入所者最初の一歩は誰?

昭和7年12月16日長島愛生園につぐ第二の国立療養所栗生楽泉園が開園した。
写真は2011年秋です、ここが楽泉園発祥の地でこの後何年にも渡り土地を買収拡張をして現在の形になっていくのです。
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開園と同時に聖バルナバ病院の医師鶴田一郎を通じて職員たちは、まづは湯之沢からの来診を待った。
 
そして幾人かの来診者の中にいたGという男が入所を希望してきた。
 
Gさんは湯之沢の富山館に投宿していたが病状は進行しており目も見えず手足が不自由であり一人歩きさえ出来なかった。
 
同年の正月もすぐそこにやってきている12月28日午前11時頃、富山館の番頭のWに行李ごと背負われGさんはここへやってきた、ここにGという男が楽泉園入所第一号として誕生したのである。
 
職員は玄関前に杉枝でアーチを作ってGを出迎えたのである。
住んだ家は鈴蘭園(服部けさと三上千代が設立した有料のハンセン病者コロニー)から移築した住宅であった、後に”利根舎”と呼ばれる家屋であった(どうやら住んだ家には諸説あるようですが)
 
楽泉園では番頭のWにここに残ってGの介助を依頼したが湯之沢に戻らなければならづ湯之沢に踵を返したのです。
 
写真は2011年の紅葉が始まる前当たりです、この坂の上あたりに?Gさんが住んでいたと思われる、通称自由地区の”川が丘”があったと思う。この坂右側に後に湯之沢から引っ越してきた番頭のWさんが住んでいた家があった、かつてここでの勤務があった私ことうっP-はWさん宅によく訪ね色々なお話をしたものです、○○県ナマリの大柄でやさしいお方でした。・・・・タイトルにある最初の一歩ってWさんでもいいのかな?って時々勝手に解釈している私です(Gさんは歩けなかったので)
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※風雪の紋には両名フルネーム(仮名?)で紹介されておりますがこのブログではイニシャルで紹介いたしました。
 
全国的に天気が大きく崩れています、草津温泉も本日小雨まじりで寒いです寒さ対策のうえお越しください。
 
 
こんな寒い中ペルーから草津温泉にやってきてリーかあさま記念館のすぐ近くに長く住んでいた女性のかたが昨日国に帰りました、彼女はリーかあさま記念館にも来て頂いたかたでした、ペルーのハンセン病について教えていただきました。 どうかお元気で!!
 
 
間もなくリーかあさま記念館はOPENです
   皆様のお越しお待ち申し上げます。
 
 
             (担) バルナバ★うっP- でした
 

リーかあさま(コンウォール・リー女史)の晩年

湯之沢での救済活動を始めた時コンウォール・リー女史(以下:リー女史)は59歳世の中では”隠居生活”に入る者が多かった時代であった。
 
リー女史は湯之沢を”喜びの谷”に変えることができたのでしょうか? また国立療養所栗生楽泉園が開園し湯之沢から同園への移転が始まった頃です。
 
昭和8年5月 リー女史は喜寿のお祝いを受けた頃より体力が落ちてきた。
 
同年12月 静養と財産処理のためネテルトンを同行し横浜から英国へ四回     目の帰途についた
 
ハイリーの自宅にたたずむリー女史の姿です何か淋しそうにも見えます
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     マクロレンズでリー女史をアップしてみます 表情わかりませんでした こちらの写真はリーかあさま記念館に展示しております。
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その後、ネテルトンを一足先に帰草(草津用語:草津へ帰ること)させ自分は一年間英国で生活した
 
昭和10年4月 リー女史はミス・エドモンドと二人で帰草した
 
 この年秋頃よりリー女史の老衰の傾向が見えてきた、79歳であった
 
 
          関係者が考慮の結果
 
昭和11年1月 草津温泉よりはるかに温暖な兵庫県明石市のミス・シメ       オンのもとで静養に入る
       ※この日聖マーガレット館が火災により全焼する。
 
 
  一時は海水浴も出来るほどまで回復したが温暖の地とはいえ冬の寒さに向かってリー女史の体は甚だしく衰えを見せてきた
 
昭和13年7月 明石で新居に移ったが健康は一進一退であった
この頃リー女史は「帰りたい、帰りたい」と口にだしていたようです、帰りたかった場所は”英国”ではなく ”湯之沢”であった、明石からしばしば湯之沢の人々に手紙を送り病者に寄り添い続けたのです。
 
湯之沢でリー女史は「ミンナワタシノコドモ」と言っていたのです
 
昭和16年12月18日 午前10時昇天 84歳七ヶ月の生涯であった、大東亜戦争に入って十日目であった。(戦争のこと関係者によると、このことをリー女史に知らせて心を痛めさすことがなかったことが幸いと語っていた) この年の5月にはその使命を終え湯之沢が解散した年でもあった。
 
同年12月21日 明石マリア・マグレナ教会で埋葬式、湯之沢からも      列席した
 
昭和17年5月25日 湯之沢にて納骨を迎える
 
     5月26日 納骨式
 
遺骨は遺言に従って患者墓地の納骨堂に患者の遺骨に囲まれて安置された。
 
明石の聖マリア・マクダレン教会にあるリー女史記念碑
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リー女史が病者とともに眠る 草津聖バルナバ教会納骨堂
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※ 現在この草津の納骨堂は工事中です。
 
 
リーかあさま記念館は本日
   10時 ~ 15時まで開館しております、
      もう一つの草津温泉史そしてリー女史のこと知っていただければと解説員一同お待ち申し上げます。
 
 
                 (担)バルナバ★うっP- でした
 
 

リーかあさま(コンウォール・リー女史)の日常生活は?

コンウォール・リー女史(以下:リー女史)の湯之沢での日常の生活スタイルってどうだったのだろうか?
 
リー女史はいつも尊敬している「ダミアン神父」の写真を額にして自分の居間に掲げていた
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         注:この写真を掲げたのではありません
ダミアン神父のように病者とともに一生を捧げたいと考えいたと察します
 
リー女史が思っていたハンセン病とは?
湯之沢でも接触して感染した例がないことから発病はしないと理解していたと思われます
 
               だから
 
ハンセン病者と自分自身とを区別することなく病者の患部を触ったりなでたりし又死者の湯灌も進んで丁寧に行われていたようです、勿論リー女史の心の中にある病者に寄り添って病者と共にがあったことがそうさせたかと思います
 
 
衣・食・住はきわめて質素であった(粗末だったとの話もあります)
  衣・・・普段は時代遅れの帽子をかぶっていた話もあります 
      冬季にはゴム長靴が欲しかったと聞きます。        しかし大宮御所へ出かける時や、催し事のときには英国貴婦人らし  い服装だったそうです、そうこの写真から伺うことができます
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  食・・・朝は牛乳のパンと紅茶、牛乳、卵くらい
      昼は日本食で野菜の煮付けが多かった、うどんは食べた
       そうです
      夕は缶詰の肉類にふかしいも、生野菜程度。
 
  食器は英国から持ってきた立派なものがあったが、ほとんど日本の粗末な皿も多くあり紅茶の茶碗は不揃いであった。
 
絵・・・水彩画それも風景をよく描いた、こちらリーかあさま記念館に
    展示しておりますご覧ください
 
音楽・・・堪能でした、病者にも奨励した
 
犬猫・・・どちらも好きでよく拾ってきて名前をつけて可愛がった
 
 
いかがですか日常のほんの一部を紹介しました
湯之沢へきたころは”草津の女神”とか”人類愛の使徒”等の紹介された人とは思えない生活でした。
 
そんな生活のなかでもリー女史は
       高潔な人格者   であったのです
 
 
本日火曜日はリーかあさま記念館は休館日となっております
          ご迷惑おかけいたします
 
 
             (担) バルナバ★うっP- でした