さて、はじまりは9年前になります。
私は、「高橋宗太郎と雨の殺人事件(以下、「雨」と表記します)」を公開してから、不安と無力感に苛まれていました。シアターシエマでの公開こそ、たくさんの方に来場していただいたものの、その後に出品したコンペでは軒並み落選していたからです。
前作にあたる「高橋宗太郎と地獄の古本屋(以下、「古本屋」と表記)」は、メジャーコンぺでこそ白星はありませんでしたが、地方主催のビデオコンテストや小規模なアニメーションのコンぺでは最低でも入選、入賞や優勝もありました。その数倍のクオリティで制作し、自信を持って公開した「雨」が黒星の連続で、私は自分の制作ノウハウを根本から見つめ直す必要に迫られていたのです。
何度か編集を繰り返し、切ったり貼ったりしたけれど、少々クオリティが上がったくらいで、作品が良くなったという感じはしませんでした。非常につらいことだけれど、「雨」は根本的に間違っていて、それは編集や手直しでどうにかなるものではないと認めざるを得ませんでした。
では、根本的な間違いとは何だったのか?
最初に思いついたのは「脚本」でした。いくつかの「脚本作りのテキスト」を読み漁り、「雨」の脚本を場面ごとに分解して検討しましたが、その時は正直に言って、そんなに悪い脚本だとは思えませんでした。
悩んでいる中で、何人かの信頼できる人に相談すると、いつも「そんなに悩まずに、思うままに、のびのび作ればいいじゃない」という答えでした。思うままに、のびのび作った作品がダメかもしれないと悩んで、相談しているのに・・・。
まぁ、たしかに悩んでいても仕方ないし、脚本作りのテキストも読んで、それなりに新しいノウハウも得たつもりでした。
『よくわかんないけど、とにかく「雨」は脚本が悪かったんだ。気晴らしに短編演劇でもやってみよう!』
私は、数本の短編演劇を作・演出し、自信を取り戻しつつ、次回アニメーションの構想を練り始めました。思いつくままに複数のプロットを書き上げ、見込みのありそうなプロットは数ページのマンガに書き起こしてみました。
そうやって、アイディアが取捨選択され、良いものだけが残って、組み合わさり、それなりのプロットと場面のイメージが固まって行きました。ますます自信を深めつつ、脚本に仕上げようとした時、困ったことが起こりました。
「あれ?ぜんぜん面白くならないぞ」
プロットの時点で良かったはずのものが、脚本にしようとすると、途端に輝きを失ってしまいます。
仕方がないので、一旦プロットに戻って、登場人物を整理し、シーンを組み直して、ふたたび脚本にしようとするのですが、やはり面白くなりません。これを数年間、幾度となく繰り返しました。
その間も、短編演劇を作ったり、短編アニメーションを作ったりはしていました。特に、短編アニメーションは1年に1作のペースで作り続け、作品ごとにノウハウを蓄積していたつもりです。
しかし、ある程度の長さがあり、物語性のあるアニメーションを作りたい、という思いは募って行きます。思いは募るのだけれど、脚本になりません。
そんな日々を過ごしつつ、それとはまったく別の疑問が私にはありました。
「なんで本公演って、面白くないのだろう?」
演劇の話です。
(つづく)