仕事、家庭、勉強、自身の趣味や死生観などを日記のように綴っています。
タイトルの通り。K先生T先生が退職、別の領域からきたo先生は、私よりも5つ以上、年うえ。が、子どもっぽい。発言がネガティブ過ぎて驚く。私自身も物事を悪く受け取る事が多いが、O先生は上をいく。学生と度々口論をしてみたり。毎日の仕事内容(学生とのミスコミュニケーション)を逐一報告してくるのに、最近は私の助言に口答えもしてくる。思わずイラッとしてしまうが、それでも彼女に助けられた事を忘れてはいけない。居てくれなければ、仕事は倍以上の忙しさであっただろう。彼女は昨年迄いた領域の上司と上手くいかずに、私の領域に異動してきた。前任校では半年間メンタル休職して退職(新設看護大学教員あるある)したそうだ。O先生との関わりを通して、自分自身について振り返る機会が増えた。「人の振り見て我が振りなおせ」と。
T先生が居なくなった後も、私はアパートに住み続けている。彼女の事だから、とっとと転居して、次の職場を見つけて働いているだろう。粘着気質な私のほうは未練があって、頭の中では、事あるごとに、彼女が思い出される。職場では困らされる事ばかりだったけれどプライベートでは助けられていたからだ。昨日、ふっと気がついた。小6の時の親友のこと。彼女と一緒に居ると、傷ついた心が癒やされた。ともに家族の悩みを抱えていて共鳴したのだと思う。2人で居ると元気になり変な勇気が出て、やんちゃもたくさんした。ある時、些細なきっかけで喧嘩をした。心の中で、「Iちゃんなんて学校に来なければいい」と思った。すると翌日から、Iちゃんは、本当に学校に来なくなった。翌日も、その翌日も、翌々日も。彼女の家族は、夜逃げしたのだ。私は彼女が居なくなり淋しくて仕方なかったが、今の今まで、会えて居ない。思い出せばあの後から、はっきりと鬱の症状を自覚した様にも思う。
今日、職場の新しい部下のミスのために菓子折りをもって謝りに行った。上司がアパートに迎えに来てくれたのだが、改めてわかった。T先生は、とっとと引っ越していた。相変わらず、誰にもきちんと挨拶をせずに。何故そんなT先生に、私は執着していたのか?トラブルメーカーで、火星大学でもミスばかりで、それでもフォローしていた。けれど、年度末のK先生のぶっちぎり退職とコロナ感染で、私の心の中で、タガが外れてしまい、相次ぐT先生のミスが許せなかった。私が辞めさせた。なのに、転居後のアパートを見て、悲しくなった•́‿,•̀。
今日は深夜に眠った。毎日授業と実習準備、担任の仕事に追われながら過ごしている。2月にコロナ感染して倒れる前に仕上げた論文がやっと採択になって安堵する。今の願いは研究できる環境の大学に移りたい。また職場を変えたら、母は悲しむだろうけど。GWに、学部の頃にお世話になった教授と想い出の街で昼飲みすることになった。あれから17年以上経ち、世の中が大きく変わった。あの頃の私は、社会人大学院の中のスパルタ教授ゼミに所属し、メンタルがボロボロになっていた。2ヶ月に一度先生と会い、食事をしながらお酒を飲んで、先生に抱きしめられて、一緒に過ごす事があの時の生き甲斐だった。あれほど人を好きになった事はなかった。私の修士論文提出前に、先生は海外挙式をした。私は先生が再婚するとわかっても、夫のもとに戻るつもりはなかった。私には、先生以外にも付き合っている人が居た。そんな自分自身にも嫌気がしていた。先生から別れを告げられた時、消えたいと思った。けれど、何を思ったか就職を選んだ。海を渡った。前の夫に対して申し訳ないと思った。彼を本気で好きでもないのに結婚し、家事もろくにせず仕事と勉強に明け暮れた。前の夫は、何もしなくても、私がただ居てくれればいいと言ってくれた。レスであることを除けば、最高の夫だった。彼と別れた以上、必ず上になりたい、仕事で結果を出したいと思って頑張った。だが、躁鬱の波で感情をコントロールできなくなり上司に喧嘩をふっかけてしまったり、鬱の疲れで落ち込んで自己都合退職をしてしまう事を繰り返した。けれど心のどこかに、私を捨てた先生を見返したいと思い、体調の良い時は休み返上で仕事をした。20年近く経ち、先生はバツ2になっていた。私は分野は違うが先生と同じ職位になった。お会いしたら、どんな気持ちになるのだろう。がっかりされないように、最近また体重計に乗り始めた。
今回、T先生との関係が拗れている最大の理由は、マンボウの仕業だ。マンボウは私に仕返ししたいけど、それが出来ないからT先生を利用しているのだろう。一番上に立つ人が、善人とは限らない。昔の自分のブログに登場する嫌なBBA講師と仲良しだったらしい。色々な事が繋がった。私達の業界は、狭い。私も言動の注意をしないと。原因を作ったのは私だ。あ〜こんな時間💦寝ないとな~これ以上、病まないように。
具体的な行動をとった。職場の相談窓口に相談をした。一時的に気持ちが落ち着いた。仕事はオンシーズン。この2週間、平日は22時過ぎまで働いた。非常勤契約で様々な先生方が助けてくれたり、教え子が夜遅くまで私の為に授業や実習案を考えてくれた。なのに、心が晴れない。何故か?マンボウ学科長(風貌がよく似ている)が、いらない事を吹聴している事に何となく気づいていたが確信に変わる。T先生の態度がどんどん悪くなり領域は変わらない、しかしT先生は私の言うことは聞かないᕙ(⇀‸↼‶)ᕗ。学科長にだけ連絡をして無断欠席、学科長は、T先生が学生に誤った指導をして(就職先併願を指導していた→看護大卒は就職率100%なので、併願はNG)いても直接叱らず、そんな時だけ直属の上司の私に、学生を連れて目くじらを立て騒ぐ。いつもの私の病気、あ〜、辞めたい。
早朝覚醒が続いている。年度末にコロナに感染して復帰した後から今まで多忙で、旅行などのリフレッシュができずに新年度に入った。私は心の風邪をひいた。仕事では馬力があるK先生が突然退職してしまい残務処理に追われていた。私がよんだT先生と大変相性が悪くて、目も合わせない、口もきかない状態だった。自由奔放な芸術家のようなT先生は、地味な仕事を嫌い注意をすれば働くというタイプで監督することに疲れを感じた。T先生は、トラブルメーカーだったが、今の職場では1年契約という事もあり、学科長であるM先生にすり寄っていた。M先生は、K先生を嫌っていた。2人の上司である私を飛び越えK先生に圧力をかけていた。K先生の辞意も私を飛び越えT先生に伝えており、T先生が調子に乗り始めた。私は業務量が増えると完璧主義が災いして、自分自身がいっぱいいっぱいになってしまう。キャパが小さい。そこへ仕事の催促がくるとパニックになる。ここのところ感情のコントロールができない。だからT先生に辞めていいと言った。管理職であるM先生は、あろうことか、部下の悪口を言って歩く人で、いっさい責任はとりたくない人だ。何故このような人が上に立っているのか。今の職場は大学というよりも専門学校の待遇で、人の入れ替えが早いため、永く勤めている事、年功序列である事の2点で決まった。最近、誰も信用ができなくなってきた。不眠が酷くなる前に手を打とうと思っている。今は実家で愛猫と母に癒やされ少しだけ心の余裕が生まれた。
2週間ぶりの自宅。毎年この時期は、やっと生きている。T先生に怒ってしまった後、休職に入られた。バタバタと10単位分の授業や実習、非常勤の調整で鬱を忘れる勢いで仕事をしている。でも、金曜日に職場から自宅に移動するまで、電車を乗り過ごしたり、乗り換えを間違えたり、いつもの通り不調だ。金曜日の夕方、教え子が私の授業と実習を手伝ってくれるので打ち合わせで、都内の彼の職場の駅に向かったがなかなか辿り着かない。やっと教え子と会い、駅構内のお店で食事をした。彼が授業内容や演習の進め方を考えてくれたり、私をあれこれ心配してくれて、帰りの経路迄ラインに貼ってくれた。帰りには、少し元気になったので、つくづくメンタルの影響が大きい私だと思う。最近、実は、30代の頃、生まれて初めて本気で好きになった人と会う予定をしていたが疲労の為にキャンセルした。当時私は、最初の結婚をしていたが、社会人大学生となり卒業論文を執筆していた。その時の指導教授を好きになった。卒業論文を提出後に、初めて一緒にお酒を飲み記憶を無くした。卒業後は、都内の別の大学院に通い、2ヶ月に1度位の頻度で修士課程の2年間、先生と会っていた。私が修士論文を提出後、先生は2度目の結婚をした。私は夫との離婚をはたし、遠く離れた惑星大学に就職した。あれから20年近く経ち、最後にお会いしたのは7年前か?先生は、学者としてエースだったが、今思えば、ただのエロ教授だった。私を女性としてしか見ていなかった。先生と別れたから今の私がある。あの時、東京を離れて惑星に行く原動力になったのだから。最近の私は、やる事がてんこ盛り、眼の前の事を処理するのに精一杯。50代に入り恋愛欲が減少してしまった。性欲が無い分、食欲が勝り、また太ってきている。7年ぶりに、先生にこの小太りの状況を見せる勇気もなかった。
3週間以上ぶりくらいに(覚えていない)南関東の自宅に戻った。家人は相変わらずアルバイト、私の扶養にならないか尋ねたがやんわり断られた(理由は言わない)。相変わらずコミュニケーションがとれないと感じてしまう。家人は極端に内気で寡黙な人だ。常にニコニコしていて感情を表に出さない。コミュニケーション障害レベルだけれど、持ち前の頭の良さで日常生活を切り抜けている印象だ。私が一方的に話しているのを聞いて相槌をうつだけだ(さみしく感じる)。それでも久しぶりの自宅は気持ちがいいもんだ。日当たりがいい2階のベランダに洗濯物を干すのが好きだ。家人と久しぶりに会えて嬉しいというのは正直あまりないが(終わっているなぁ)、自分の部屋のベットはよく眠れる。この家を家人が買ったことを考えると感謝している。そういえばyさんから、ホワイトデーのお返しをいただいた。宅急便だったので実家に届けてもらった。ラインギフトだ。便利なもので私の住所は相手に知られないらしい。ひと月以上お会いしていないが、特段お会いしたいという気持ちにはならない。この時期になると出来過ぎ君のほうを思い出してしまう。次年度、何故か授業依頼を断ってきた。今の出来過ぎ君の上司はT先生を大嫌いで火星大学で彼女を辞めさせた人だった。一応仕事が多忙的なことが書いてあったが、彼は利口だからリスク回避かもしれないな~とネガティブな私だ。T先生は友達なら面白くて素敵なんだけれど仕事が一緒になるとフォローの連続だ。上司である私に、あれこれ仕事を選んだり手を抜いたりが目立った。いや彼女も何かの障害があるのかもしれないな(過去IQは高かったのかもしれないが今は助手レベルの仕事しかできない)。職場近くに同じアパート内の部屋を借りたことで、職場で怒ってしまってから気になりすぎて精神的に追い詰められていた。ここが私の病的なところだ。そして現在は、K先生の退職で前期10単位分の授業を調整しており頭の中がごちゃごちゃだ。この他、私の主担当の授業と実習とあってノイローゼに拍車がかかりそう。けれども不思議なもので、T先生を切り離しあちこち連絡していたら、昔の教え子が修士課程を修了し社会人になっていて、専門職の仲間たち、他大学の院生たちにあちこち連絡をしてくれて毎日のように大変助けてくれた。とても手のかかった学生だったがこのように助けてくれることは感慨深く有難い。最後に、半年前からのトライアルを得て、今月から私はマウスピース矯正を始めた。つけたりはずしたりが大変だけれど中高年でも少しでも歯並びをよく健康に生きたい。★最近薬を断薬しているせいか、あちこちとっ散らかった文章だ。
母が帰って、yさんとお別れしてから、なんだか人間関係がうまくいかない。自分の部下との人間関係、年上部下の馬力あるK先生の突然の退職、、、私が呼んだT先生と大変相性が悪かった。T先生も子供だから(私より5つ上だが)、悪いのだけれど、学科長が甘やかして、T先生の我儘増強、私は引継ぎやら調整するにも、KはTと関わりたくないというし、春から入るこれまた年上部下のOさんも、やれ母親の介護やら、自分も体調優れないやらで4月から仕事するとか、、、私は切れてしまった。一番我儘で仲良かったTさんに、「辞めていい、学科長に言いに行きなさい」。結構なパワハラ口調で。Tさんはあれから私と口をきかず無視している。学科長にメソメソ私の下が辛いと訴えた。私とはもう仕事しないそうだ。無視している。小学生か。今の職場も前の職場もその前も大学の就職を私がTに斡旋した。以前一緒の先生たちに話すと「わ~信じられない、子どもだね、恩を仇で返すタイプだね」だの言語化してくれた。私は数年前に母にお前の評価が落ちると言われて、不快になったことを思い出した。親は自分を思ってくれているなぁと実感。私も偉そうなこといったり、パワハラっぽいこと言ったりしてしまった。だって、Tさん本当に仕事しないから。言わないとやらないんだもん。2,3日うまく眠れていない。ノイローゼだけれど、担任の仕事がなんだかんだと忙しかった。卒業式前は寝付けなくて明け方変な夢を見て寝くじった。これほど感動しない卒業式は初めてであった。今日はさすがにマイスリー半錠飲んだ。さあ、寝るかぁ。
仕事が思い通りにいかない。年上部下2人がいつもいがみ合っていた。1人の退職が決まった。残されている膨大な仕事!残された部下は、仕事を20ヶ所以上変わっているT先生。私が連れてきた先生。T先生はプライドが高い。基本的な仕事ができない。報連相ができない。学生には、教育ではなくて、保育。私は、完璧主義で怒りっぽい。仕事のストレスですぐにいっぱいいっぱいになってしまう。思い通りに仕事をするのは難しい。思い通りに人を動かすなんて、出来ないが、自分が全部やるのは無理。だからかな。年末年始yさんに急接近した。yさんは、別居の寂しさを紛らわす為に朝晩私に欠かさず連絡をくれた。私を好きだと言ってくれていたが、具体的にどこを好きなのか伝わってこない。私がyさんを好きではなくて、自分の愚痴を聞いてくれる人として利用していたのかもしれない。私も、自分のイライラを紛らわしたくて、yさんに毎日返信をしていたのだ😅。一瞬、yさんにメールをしようかと思ったが、やめておこう。母と猫🐱が帰ってしまい、なんて淋しいのでしょう。実家に住むのは厳しいが、母と猫に会いたい。
母が2月4日から3月2日まで滞在していた。車で北関東の自宅に連れて帰る。今、アパートに戻ってきた。母の携帯電話には、妹や母のお気に入りの従妹、仲良くしている80代の友人から何件も着信や留守電が入っていた。皆が気にかけていることを思えば母は幸せだと思う。しかし、若い頃大変な苦労をした母の夜の叫び声やら独語を聞くと色々考えてしまい(夜間覚醒が辛い)、コロナにかかってしまった後の1週間は一番辛かった。母も発熱や咳嗽がひどかったから機嫌が悪くて、本当に性格の悪い人だと思って、早く帰らせたいと思った日も2日間くらいあった。でも今は、ひと月も母と猫と過ごせたことがなんて幸せだったのかと思った。生まれて初めての経験だからだ。私は覚悟を決めた。自営業の両親は社会保障の基盤である年金の未払い期間があったので(ほんの数年?)、結論からいうと年金をもらうことができない。母は私と同様に発達障害がある。診断を受けてはいないがADHDの私とそっくりだからおそらくそうだろう。社会保障最後セーフティネット生活保護の申請をこばみ仕事を継続していた。私と一緒にアパートに住むのは今回無理だと理解した。住み慣れた土地、友人と離れて暮らすのは精神の崩壊を促進させてしまう。私は若いころ病院勤務をしていて、見るからに豊かな生活をしているであろう家族の高齢のお母さまやお父様が保護を利用しているのをみているし、母の知人でも昔自営業をしていて、昔の制度で年金受給できないため制度を利用している。しかし発達障害があろうがなかろうが私も母もプライドの高さが生きづらくしている。プライドというよりスティグマだろう。でも、考えた。母の夜驚症の原因はわからないが、毎日毎日、誰かを呼び、鳴き声をあげたり、怒りながら叫び声をあげたり、はたまた、落語のように喋りだしたり、仕事を辞めた後、悩んで悩んで生活ストレスが多くて症状が悪化しているのだろう。間違いなく、母は早くに両親を亡くし、夫も二人亡くし、兄も亡くし、心身の負荷を抱えたままずっと貧乏なのだ。それでも母の実家は代々、農家と公務員の家系で、母いわく名家?だったが、婿養子に財産を乗っ取られ、今もあばら家に住んで末っ子の母は何ももらえず、遺産をめぐる甥っ子たちの骨肉の争いをただただ傍観している。私が最後まで養おう。関わりを避ける家人とのことを解消するほどの勇気はまだないが、働いているうちは母を助けられる。
朝、yさんからきた長文ライン。連絡を控えたいと送ってから1週間ちょい全く連絡がなくなり安心した。母が実家に帰る時期を伝えていたので、そろそろ連絡がくる頃だと感じていた💦。モヤモヤしたが無視するのも辛い。朝食後、ネットカフェに来たが仕事に集中できず、yさんへの文面を考えてお昼に返信した。丁寧に、ご一緒した年末年始への感謝をまず述べた。年末年始は私にとって1番辛い時期である事も書いた。次に最近の私の体調不良と不覚にも母に感染させてしまった後悔と反省の必要性、今後益々忙しくなる為、自分の体調管理の見直しをしたい。→キャパシティが小さいので(心身の揺らぎを最小限にして過ごしたい)、最後に、お互い身近な人達を大切にして過ごしていきましょう、自分自身も大切に、今までお付き合いいただき感謝申し上げますといった謝辞でしめた。送信後、1時間位して返信がきた。「気持ちの整理がつかない、もう一度だけ会いたい」と書かれていた。うんざりを通り越してぞっとした。即、体調不良を理由にお断りした。本当の事は書けなかった。あなたが、自分の想いばかりを朝晩一方的に綴って送りつけるのが負担である😆。私の好きな作家や興味のある講演会の内容について話しても全く反応がなくてがっかりした(全くスルーした)。今朝の長文ラインの内容は、私を好きだからたくさんコミュニケーションをとりたかった。負担にさせてごめんなさい。尊敬している、応援している。私と会えるのを期待していいかとか、また会えるのを楽しみに過ごせば自分は寂しくないとか書かれていた。読んだあと気持ちが重くなる😅。昔リアルではモテていたyさんが事業で失敗し転落、アプリでも苦戦している(私が初めて繋がった相手)。何人かの方にブロックされてショックだったと話していたので配慮(同情かな?)し、彼をブロックしていない。私と一緒でバカ正直なyさんは、私と同じ、心の隙間を恋愛で埋めるタイプの人だった。今回、母のことがなければ、yさんとのお付き合いを続けていただろう😅。母がひと月泊まりに来てくれたおかげで🙏、大切な人間関係の優先順位を自覚したのかもしれない。
夕べアップした夜驚症、録音を試みると母はいつもほど騒がない。しかし2時代と5時代には決まって叫び声をあげるから覚醒してしまう。ここのところずっと、感染前後から憂鬱気分で仕方ない。→yさんを冷たく突き放した自分、マッチングして対面して、この人なら至近距離になっても大丈夫だと思えた。外見の良さや清潔感、話しも楽しかった、なのに何故、急に冷めたのは、20代の部下の話。娘みたいに思っている部下がいて、彼女の結婚後の住まいが遠いので役員に掛け合って通勤を減らし在宅リモート勤務を認めさせた。そこまでは良かった。美談だと思った。ところが、彼女の自宅近くに事業所が開設される事になり彼女は異動が決まった。それを受けてyさんは(それだけが理由ではないが)別の会社の面接を受けた。条件が悪かったので転職せずに残留した話しまでは許せた。しかし、今回のコロナの事で、yさんなりに私を一生懸命励ましてくれていた。例えば先日の職場のご招待食事会にギリギリ濃厚接触者だった20代女子をラスト半日(待機期間)くらい大丈夫と言って呼んだことや、私が母にうつしてしまって落ち込んでいる事に対して、2年近く前にyさんがコロナになり20代部下に移しちゃったと楽しそうに話すのを聞き幻滅。yさんは、明るくて、お顔が整っていて、お坊ちゃん育ちなのにやんちゃで若い頃遊んでいたのが見た目からもわかる。だけど、コロナなんか誰でもなるからとか、数日で良くなるとか、お母様にゆっくり休んでもらって治してねとか、良くなったらまたラインしようねとか、長文ラインを毎日朝晩送りつけてくる。正直、身体が良くなるまでは放っておいて欲しいと思った。咳き込んで大変でリラックスなんかできるはずもない。この狭いアパートで2人で療養するのはとてもストレスに感じる。今回急激に冷めたのは、格好よくても、人の気持ちを察する事に欠けているおバカな発言は駄目なんだと痛感したからだとわかった。yさんと出逢って3ヶ月で無理になった。
母が深夜に叫び声をあげる。驚いて覚醒する。私のアパートでは、隣の若いカップルも話し声が聞こえる時があるが比較にならない大声だ。12月で母は仕事を辞めた。金銭面だけではない心配があった。役割喪失。退職の日、家のこたつの前で母は泣いていた。スタッフから頂いた様々なプレゼント。ひと月後、私は母に尋ねた。仕事辞めてどう?「うーん」、少し時間をおいてまた尋ねた、「ぽっかり穴が空いた感じだな」母は答えた。母の心配は私だという。フワフワして見えるらしい。
母と口喧嘩。発端は、私がテレビを購入したこと。今月中、母が私のアパートに滞在している。私は通常テレビを見ないのて、ポータブルサイズのものしかない。母は常時、ポータブルテレビを見ているので、少しだけ大きいテレビをネットで購入した。それを伝えたところ、お金の無駄遣いだと注意された。後先を考えていない。私の将来が心配だと頭ごなしに言われ、私は傷ついて言い返した。お母さんのほうが心配であると。それだけではない、過去の事を持ち出して言い合いになってしまう。ここまで相性の悪い親子って。似たもの同士ということか。口喧嘩の後、お互いにどっぷり落ち込む。話は変わって、yさんには少しの間、連絡取り合うのをやめたいことを伝えた。今までありがとうとも入れた。→僕が迷惑をかけてしまったのならごめんなさい。落ち着いてからまた会えたら嬉しい。これで終わりは悲しいと書いてあった。
現在療養中。学生からうつされた(おそらく)。療養のためリモート勤務となり、時間的なゆとりが出来て退屈になった。母と一緒に暮らすようになった2月(母にうつしてしまい悲しい😢)、お陰さまで?yさんについて、久々の恋愛で暴走しそうになる自分にブレーキがかかり冷静になった。yさん、毎日欠かさず朝晩ラインをくれるのだけど、もう、飽きてきた。お顔の良さ、品の良さを好きになったけど。用もないのに朝晩ラインをいただいても、性格的に強迫傾向があり😅、必ず返信しないと気がすまない私にとって、もう負担💦。ヒミツのSNSサイトの延長の付き合いは、お互い別居していても、実生活の仲間や家族と交流することが難しい。お付き合いをして来月で3ヶ月、もう、いいかなって思い始めている。
若い頃から冬鬱に苦しんでいた😂。高校からの心の友も冬鬱で、洗顔もしたくないほどかったるい症状を抱えていて、お互い愚痴を言い合い気休めになっていた。友人は管理職になった。今は都内の芸大に通う娘の学費と生活費を稼がなきゃならないから、鬱なんて言ってられないと話していた。関西の親友に6年ぶりに会って猫カフェに行った時も、薬学部に通う娘の学費を稼がなきゃいけないと話していた。保健師学生の頃からきちんとしている人だったので、主婦、母親、パート勤務を必死にこなし生きているのが伝わってきた。私はとうとう親にはなれなかったが、息子のような家人には食費等を提供し、仕事を辞めた母を養っている。職場では中間管理職として時々問題を起こす年上部下達と学生達の担任業務に追われながら臨地実習にもかり出されヘロヘロになっている。教員という立場にありながら私自身も忘れ物が多く毎日慌てている。だから職場近くにアパートを借りた。時々鬱の落ち込みがやってきて何もかも嫌になる。ドプンと池に落ちたような気持ちになる。今、心の隙間を埋めてくれているのがyさんなんだと思う。彼は波乱万丈の人生を歩んできた。よく生きていてくれたなぁと思う。裕福な都心の家庭で小学校から電車通学をして育ったyさん。一方、貧乏な家庭で北関東の野山を駆けずり回って育った私とでは対照的な生育環境だが、一緒にいると心地よくて時間を忘れて話し込むのはお互い激動の昭和の時代を生きたからかな。生誕40周年のディズニーランドに行った。お互いの青春の想い出がつまっている。実に7〜8年ぶりだ。20年以上乗っていないジェットコースターに乗った。yさんが「大丈夫だよ」と言って私の頭をヨシヨシと撫でてくれて幸せ気分にひたった。何が冬鬱だと突っ込まれそうだけど、私の病気がジェットコースターみたいなもんだから仕方ない。
家人と結婚して10年目の年末年始、初めて自宅に戻らなかった。惑星や火星の大学に勤務していても、年末年始は必ず家人と過ごしていた。罪悪感と義務感で今年も過ごす予定でいた。思いきって、実家で過ごした。母といつまで一緒に居られるか分からないのだから。母と過ごしたいと思った。そして、yさんと19時半〜0時迄ラインしていた。4歳差なので、yさんとは話がとても合う。母の好きなテレビ東京の歌番組を一緒に見ながら、年越しをした。yさんは、よく喋る。お喋りな男は嫌いだったが、何故かyさんには嫌な気持ちがしない。yさんの生きてきた過程を聞いたり、私が自分の事を話したり、喋りだすととまらない。年末年始のあと、3連休の中日に会った。一緒に都会の水族館に行った。私が子どもの頃、家族で行った都心の水族館。混雑していてヘロヘロになった。私達は家に帰らずに、翌日のお昼迄一緒に過ごした。夜もあまり眠らずに喋っていた、育った家庭について、親や兄弟のこと、お互い初めて付き合った相手の事から、今の配偶者についても話した。寝不足だったので、昨日はアパートに帰宅して14時〜20時迄寝た。結果、満足。元、遊び人のyさんとの心の交流が私の子どもの心を満たしてくれている。