【初めに】

 

本項は、とりとめのない、覚書です。

 

 

【昨日、6月 8日は】

 

亡き妻の命日でした。

 

でも、普段から、「グリーン ローズ」の事を考えていたり、最近では「Poi E」の歌詞を考えていたりすると、 命日のことを忘れていたりして、結局は、一周忌は数ヶ月遅らせることにしました。それで、あきれた妻の友人のご提案で、命日には、妻の教会であったカトリック関町教会のミサに出席することにしました。この日は、「ある無名な音楽家のこと、思うこと」でお話したように、人の才能を活かすことの難しさを、改めて、思わざるを得ない一日でした。

 

そのためでしょうか、思ったのです。かの方の才能、つまり、かの方の美しい踊りを愛するとは、度胸さえあれば誰にでも言えます。しかし、行うは実に難しい。愛するということは「とても大切に思う」ということです。その「とても」ということの意味は、全てを投げ出すということです。ですから、神への愛と言えば、神の下に全てを投げ出すという意味になります。でも、全てを投げ出すということは、とても難しい。それは、「何があっても」全てを投げ出すということなのですから。つまり、何の良いこともないのに、持てるものを全て投げだすのです。ほんの僅かでも自分のために残すなら、それは愛ではありません。そうなるのです。ですから、教会では、神への愛を全うした殉教者は神ほどまでの尊敬を受けるのです。

 

わが愛する舞踏家であられる、かの方は、海外のショウに挑戦しようとしていると、素人カメラマンは思い込んでいます。ですから、彼は、愛する、かの方の踊りが、更に開花すべく応援します。そして、啓示により、かの方の今後をじっと見守らせていただこうと決めました。この素人カメラマンは、それで終わったと思っていたのです。

 

さて、教会のミサです。
 

この素人カメラマンは信徒ではありませんので、お祈りや霊歌の斉唱の間、じっと黙想をしております。そうすると、お祈りの言葉や霊歌の言葉が頭の中を通り過ぎていき、起立しているのに寝ているような、不思議な感覚が寄せてまいりました。そのとき、貴方の愛は全うされるのかという言葉が、生まれたのです。どなたの言葉なのかは分かりません。しかし、思えば、かの方の海外への挑戦を見守らせていただくのは正しいのですが、その他にもやれることはあるのです。かの方の挑戦のご様子や、今後の予定など、ご本人の代わりに皆様にお伝えすることなどの手配の準備は、その一つです。しかし、実は、そこまで考えていませんでした。残りの二回のハワイアンズ訪問で、かの方のソロがなかったり、あるいは、出演そのものがなかったりしたら、そんな気も起きなくなるのではないかという気持ちがありました。そこまで考えておかなくてもよいのではないかと思っていたのです。ミサの時に聞こえた声はこういうのです、何が有ってもよいではないか、何も報われなくとよいではないか、貴方の愛を全うすることに比べられるものはないと。

 

急に気が楽になりました。実は、残りの二回のハワイアンズ訪問はとても怖かったのです。もう気にしません。そして、かの方の挑戦を見守り、できる方法で応援します。何が有っても構いません。かの方の踊りへの愛を全うすることによってしか、かの方の愛の踊りの開花を応援できないからです。愛には愛、気が付いてみれば当たり前です。そんな当たり前のことを気が付かさせられた、ある一日でした。

 

 

【おわりに】

 

次回のハワイアンズ訪問までには書いておきたいと思いましたので、文が乱れているとは思います。でも、ありがとうございました。この様な個人的文章を何故人前にさらさせていただくか。それは、かの方を応援すると公言している素人カメラマンの決心は、かの方の挑戦のためにも、明らかにされなければならないと思うからです。