【まずはじめに】
グランド ステージ「翔〜 To the New World」の演目「ワイピオ パ エアエア」を楽し
むための前提として、歌の背景となるワイピオ渓谷の自然回復の状況を前項で簡単に
ご説明しました。ただ、そこで申し上げた通り、私自身の理解もごく表面的なもので
したので、改めてワイピオ渓谷の維持管理に関する計画書[1] を通読してみました。
その結果、背後には、ワイピオ渓谷の自然環境を守るばかりではなく、将来の人々の
持続可能な生活と生産活動の場として発展させるための根本的な取り組みがあること
が分かりました。
そこで、この計画書[1] の紹介を行うことにしました。「ワイピオ パ エアエア」を理
解するために有益であるばかりではなく、ハワイ島の自然についても教えられるとこ
ろが多いと思うからです。ただし、この計画書はワイピオ渓谷の将来に渡る維持管理
や自然保護に関する総合的で大部な著作物で、以下のような構成になっています。
「ワイピオ渓谷 河川管理計画」
2006年 2月 24日
第 1 章: はじめに
第 2 章: 背景
第 3 章: 市民参加
第 4 章: 管理計画の必要性
第 5 章: 代替案
第 6 章: 許可と承認
第 7 章: 実施戦略
第 8 章: 資金調達の機会
第 9 章: 参考文献
第 10 章: 付録
この中で、前提条件などを述べた「第2章 背景」が ワイピオ渓谷にどの様な問題が起
きていたのかを説明していますので、この第2章を「その1」、「その2」として詳
しく紹介し、その他の章については別項で簡単に説明していきたいと思います。
計画書に入る前に、「流域(watershed)」について説明します。ワイピオ渓谷に流
れ込む水の供給領域をワイピオ流域といいます。既に前項に述べたように、ワイロア
川には主要な支流として ヒイラウエ川があり、渓谷の海岸の近くで合流します。そう
すると、この合流点から上流には、2つの支流、ワイロア川と ヒイラウエ川がありま
すが、この2つの河川は性格において大きく異なります。グーグル マップをご覧下さ
い。
2つの支流の内、ワイロア川は コハラ山腹に水源を持ちます。コハラ山の東斜面は雨
【ハワイ島 コハラ火山と ワイピオ渓谷の位置】
が多く、それが目の粗い玄武岩からなる山腹の土地にしみ込んで、最終的に ワイロア
川に流れ込むことになります。そのため、2つの支流のうちで ワイロア川には常にふ
んだんな水が流れています。他方で、ヒイラウエ川の水源は マウナケアの広大な山裾
の高原にありますが、それ程雨量の大きなところではないので、干ばつの時には極端
に流量が少なくなるなど、ヒイラウエ川は常に低水量の問題を抱えています。
ヒイラウエ川の水量の問題が「ワイピオ パ エアエア」の主題でしたが、ワイピオ渓谷
にとっては、支流の ワイロア川をふんだんに流れる水が命であり、また主たる災のも
とでもあるのです。従って、両者を治めることが、ワイピオ渓谷の保存、維持、発展
のために重要なことなのです。
この計画書では、これら2つの支流、ワイロア川と ヒイラウエ川の流域を、各々、
ワイロア支流域、ヒイラウエ支流域とよんで区別します。
【ワイピオ渓谷に関連する2つの支流域】
この報告書は、ハワイ大学、ワイピオ コミュニティ サークル (WCC)、マウナ ケア土壌
水保全機関の協力を得て、米国農務省 自然資源保全局 (USDA NRCS) によって作成され
たものです。報告される計画の主な作成者は ダドリー クボ、カティナ ヘンダーソン、
ルチアーノ ミネルビ です。計画策定の過程で地域集会を組織し、意見提供を行ったの
は NRCS の マシュー ウォン、キャロリン ウォン、WCC のスーザン マドックス です。
それらの地域集会に時間を割いて ビショップ博物館、および郡、州、連邦政府のさま
ざまなレベルの機関も参加しています。また、この計画にはワイピオ渓谷の住民と農
家の協力と支援があったことが記されています。
ハワイの伝統を話題とする時に「ビショップ美術館」がよく出てきます。この計画書
の前提となる生物環境の調査は ビショップ美術館が請け負っており、ワイピオ渓谷の
耕作地の多くがこの美術館の所有地でもあります。この美術館は ニューヨーク生まれ
の実業家/慈善家であった チャールズ リード ビショップ(Charles Reed Bishop)が
創設しました。彼は 24歳で ハワイに渡り、ハワイ王朝の数代の国王に仕え、王国の
王女 バーニス パウアヒ ビショップ(Princess Bernice Pauahi Bishop)の夫でもあり
ました。彼は 第一ハワイ銀行、及び カメハメハ学校(the Kamehameha schools)の
共同設立者の一人でもあり、ビショップ美術館は彼の妻であった王女の死去を悼んで
設立したものです。
以降は計画書執筆者の文体で書きます。私の個人的意見を述べる時には、 区別でき
る形で書きます。以下、計画書[1] と計画書の執筆者の一人が別に作成したパワーポイ
ント資料[2] にある図や写真は、出典を明らかにした上で、承諾なしに使用することに
しました。この項と後に続く項は計画書の紹介であり、計画書自体が公的なものであ
るので許されるものと考えたからです。
「ワイピオ渓谷 河川管理計画」
2006年 2月 24日
【計画書第1章:はじめに】
「ワイピオ には特別なマナ(霊的な力)があります。遠い昔からのマナ、そして
今もそこにあり、生きているマナ。
ワイピオ渓谷は、そのマナの中に多くのものを包んでいます。そこには、谷底
を流れる川の水、または空から落ちて来て、全てのものに触れ、そして触れる
ことで大地と共に多くのものを養っている水(ワイ)があります。カロ(タロ
イモ)や豊富に生えている他の多くの作物もそうです。人々(カ ポ-エ)も
ワイピオ の マナ に抱かれ、幾世代もへて来た結果、渓谷の精神の血族となり
ました。この意識から愛(アロハ)が生まれ、郷土愛(マラマ アイナ)の感覚
が生まれました。この感覚は、ワイピオ渓谷の力、水を運び、生き物を繁栄さ
せ、未来の多くの命に触れ続ける力、を継続させることで、その一体性を守り
ます。 これがワイピオ渓谷の精神です」(ワイピオ タロ農家協会とビショッ
プ博物館の共同作業 [1993年] より)
これは、ワイピオ渓谷の耕作地の主要な所有者の一つである ビショップ博物館と ワイ
ピオ渓谷 タロ農家協会の農家との間に交わされた賃貸契約書からの抜粋です。ここに
は、ワイピオ渓谷の精神とワイピオ渓谷の河川管理計画策定の動機の 1 つが記されて
います。ワイピオ渓谷の人々と水とのつながりは深く、複雑な灌漑水路システムは、
何百年もの間、食料の供給と文化の保存のために管理されてきました。近年、タロイ
モ耕作農家の減少、外来植物種の増加、種々の規制の強化により、ワイピオ渓谷の河
川管理は極めて困難になっています。ワイピオの渓谷農家と住民は、洪水対策、水質
の改善と維持、在来種の保護のために、伝統的な管理手法と現代的な管理手法のバラ
ンスを取る必要があります。
【タロイモ水田から渓谷の奥を望む】
ワイピオ渓谷河川管理計画の目的は、ワイピオの タロ農家と住民が ワイピオの河川
を維持していくのを補助し、しかも、現在の法律と社会の制約の範囲内で、それを伝
統的な方法でうまく運営するよう支援することです。この計画書は、河川に対する
作業と、ワイピオ渓谷の住民の財産と生活を守るための河川の維持管理業務に必要な
許可と承認について取り上げています。さらに、この計画は、在来水生生物の生息地
を維持し、渓谷の文化遺産を保護することにも努めています。管理計画は、河川から
用水路への流入口である取水口を管理するリーダーが主導する伝統的な タロ栽培の水
管理システムを含み、伝統的で慣習的な慣行を保護するという考え方の下で総合的に
策定されました。
天然資源保護局 (NRCS) は、低所ハマクア灌漑水路流域プロジェクトの計画中にワイピ
オ渓谷の農民が河川維持管理の問題にへの支援の必要性を表明したことを受け、ワイ
ピオ渓谷の河川管理計画の策定を支援することに同意しました。この計画書は以下の
ように構成されます。
第2章: 背景
ワイピオ渓谷の現在の、そして歴史的な状況の概説
第3章: 市民参加
ワイピオ渓谷における河川管理の必要性と諸活動を明らかにするプロセスの
中での、地域社会の関わりについての概論
第4章: 管理計画の必要性
第5章: 代替案
ワイピオ渓谷における河川回廊の維持管理のための幾つかの代替案
第6章: 許可と承認
河川管理活動を行うために必要な許可を得る手順の説明
第7章: 実施戦略
計画を実施するために提案されている幾つかの戦略
第8章: 資金調達の機会
河川管理活動のために必要な資金調達に付いての幾つかの可能性
ワイピオ河川管理計画は、この地域の現在および将来の住民や農家、ならびに政府の
規制機関のためのものです。ワイピオ渓谷は将来のために保存されるべき神聖な場所
であり、同時に農家と住民が生活を楽しむ場所でもあるという理解のもとに策定され
ました。この計画は、人々と野生生物に配慮し、農家と住民が水の必要性、洪水への
懸念、自然の価値のバランスを取って行くのを支援することを目的としています。
この計画書は、地域社会が協力して取り組むのに役立つ情報を提供するでしょうし、
ワイピオ渓谷のすべての農家と住民が計画を理解し、計画の基本点に同意できるよう
に書かれています。ワイピオ渓谷の地域社会サークルは、計画の策定に一般の人々が
参加できるように支援してくれましたし、これからの計画の実施を支援してくれるで
しょう。河川管理計画の策定の指針となる原則は、そのプロセスに地域社会全体を含
めることは重要です。
【計画書第2章:背景】
歴史
ワイピオ渓谷は歴史に富んでいます。かつ てワイピオ渓谷は何千人もの人々の生活を
支え、彼らは渓谷の肥沃な土壌を利用して大量の タロイモを栽培していました。西洋
人との接触後、 ワイピオ渓谷の人口とタロイモの生産量は減少しました。ハワイ先住
民の時代以来、ワイピオのタロ農業は、米の生産量の増加と 1946年の壊滅的な津波、
或いは カロ文化に注目が集まったハワイの復興などの影響により、衰退と復興を繰り
返してきました。現在、ワイピオ渓谷では商業農業活動が増えつつあり、新しい水田
(lo'i)が開設されるか古いものが修復され、教育とのタロイモ栽培実践に基づいた
世代間の文化伝承が復活しつつあります。
訳注:カロ文化 = タロ(イモ)文化
訳注:ろい(lo'i)〜湿潤なタロイモ畑、以降は単に水田とします
渓谷の特徴
ワイピオ渓谷は ハワイの歴史と文化において最も重要な場所です。この渓谷はかつて
人口と農業の中心地でした。この渓谷で栽培されていた主な作物はタロイモでした。
この 渓谷はハワイ島の王室と宗教の中心地であり、権力の座でもありました。古代の
考古学的遺跡には、古代の道、礼拝所(heiau)、養魚池、水田、灌漑水路、畑地、
家屋敷、王家の住居と敷地、墓地などがあります。
ワイピオ渓谷の伝統は、タロイモの栽培と、ハワイの文化や土地との家族的つながり
の継承を通じて、今日も続いています。ワイピオ渓谷の人々は、ここを「ワヒ パナ
(wahi pana)」、祝福された場所、さらには「ワヒ カプ(wahi kapu)」、神聖な
場所、と呼んでいます。ワイピオ渓谷をこのように特徴づけることは、住民と農民が
この渓谷を尊重し、大切にし、渓谷の管理と利用について異なる見解がある場合でも
団結するのに役立ちます。
ワイピオ渓谷は古代に重要な人口基盤を擁し、支えていました。この渓谷はハワイで
最初の開拓地の 1つであった可能性さえあります。(紀元後 0 ~ 600年頃)いくつか
の口承伝承では、タロイモ栽培で支えられた渓谷内外の人口は合計で数千人に達した
とされています。この渓谷の持続的な高い生産性とハワイ諸島全体におけるその重要
性は、口承史で裏付けられています。13世紀初頭、ワイピオ渓谷はハワイの深刻な干
ばつの間、主要な食糧源でした。その理由は、ワイピオの耕作地に水が確実に流れて
いたことにあります。
フォルナンダ[3] は以下のように書いています。
「 ...ハワイからカウアイ島まで全土で大飢饉が起こった大干ばつの間、全て
の湿地は干上がり、干ばつのせいで作物は枯れ、山にも何も残っていません
でした。ワイピオは水が干上がらなかった唯一の土地であり、食料が豊富に
あった唯一の土地でした。ハワイ全土、そして遠くはマウイ島から人々が食
料を求めてこの地にやって来ました。」
古代には、下流の渓谷でおそらく 800エーカーのタロイモが栽培されていました。
渓谷の上流と斜面を含めると、少なくとも 2 平方マイル (1,280 エーカー) の土地で
タロイモが栽培されていました。タロイモ水田が渓谷の底全体を覆っていました。
訳注: 1エーカー 〜 4840平方ヤード 〜 約4047平方メートル
〜 約1,200坪 〜 約0.4ヘクタール
訳注: 1マイル 〜 約 1.6キロメートル
1778年に西洋人と接触した時点で、ワイピオには約 2,600人の住民がいたと考えられ
ます。1823年、ウィリアム エリス牧師は、渓谷で 265軒の家、8つの礼拝所、大きな
池を見たと記録しており、約 1,325人の住民を養っていると推定しています。エリス
牧師は次のように書いています。[4, p.199]
「谷底は、タロイモ、バナナ、サトウキビ、その他島の産物が豊かに育つ、
ひと続きの庭園でした。また、いくつかの大きな池がさまざまな方向に見え、
良質の魚が豊富にいました。山の麓に沿って、両側に不均等な間隔で、それぞ
れ 20から 50軒の家がある小さな村がいくつかあり、突き出た崖が視界を遮る
まで谷の上まで広がっていました。」
エリスは ナポポ村で 43 軒の家屋を数えた。タロイモの栽培面積は、接触後の時代に
減少し、1800年代後半には、谷に残っていた本来のハワイ人は僅か 200人でした。病
気と移住によって人口が減少したのです。
訳注:ナポポ 村については ナポオポ だったり、声門閉鎖音「 ' 」の位置がおか
しかったりとで、何が正しいのか、或いは同じ村なのか、良く分かりま
せん。当時は ハワイ語表記が確定していなかったようです。
ワイピオ渓谷の人口推計と国勢調査によると、接触後の人口は減少しています。
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年 人口 参照
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1778 2,609 Cordy 1994
1831-32 1,200 Cordy 1994
1842 921 Cordy 1994
1845 824 Lyon 1842 in Cordy 1994
1849 736 Lyon 1842 in Cordy 1994
1850-60 700-800 Culter 1931
1854 260 Bates 1854
1867 670 Bond in Damon 1927
1873 200 Bird 1974 {1890}
1878 396 Hawaiian Kingdom Census
1890 439 Hawaiian Kingdom Census
1910 399 U.S. Census
---------------------------------------------------------------------------------
教区民のみを数える宣教師の数え上げは実際より過少です。
1940年には、この渓谷には約 200 人が住んでいました。1974 年には 30 ~ 40 の農家が
渓谷でタロイモを栽培していました。2005年現在の渓谷には約 30 ~ 40人が住んでいま
すが、農家の大半は渓谷の外に住んでいます。
19世紀後半には、中国人移民によって米が渓谷にもたらされました。1880年までに、
この渓谷でタロイモと米の両方が栽培されていたのはわずか 580エーカーでした。ワ
イピオ渓谷でタロイモの栽培が完全になくなることはありませんでしたが、一時期、
米がタロイモを凌駕したようで、中国人の栽培農民の数がハワイ先住民の数を上回る
こともありました。
ライトが 1914年に作成したワイピオ渓谷の地図から以下のように要約されます。
米の栽培
・谷の海側の部分に限られ、合計 134 エーカー 34区画。各区画は
0.25 ~ 24.2 エーカー。4 エーカー以上は 4 区画。
タロイモ栽培は 57.47 エーカー。
・海側: 合計 37.01 エーカー 23区画。各区画は 0.20 ~ 5.75 エーカー。
4 エーカー以上は 3 区画。
・中間: 合計 19.31エーカー 14区画。各区画は 0.10 ~ 5.9 エーカー。
4 エーカー以上は 2 区画。
・山側: 合計 1.15 エーカー 2 区画。全て 1エーカー未満。
20世紀の間、ワイピオ渓谷では人口減少が続きました。20世紀初頭には、渓谷には住
民に加えて、幾つかの教会 (カトリック、会衆派、モルモン、中国寺院)、店舗、さら
には学校もありました。しかし、20世紀半ば迄に、これらの施設はなくなりました。
学校は 1945年に閉校し、その後まもなく他の学校も閉校しました。ワイピオ渓谷の最
後の米作は 1927年。これは、比較的安価なカリフォルニア産米と競合できなかったた
めです。1946年 4月 1日、アラスカ地震による津波が渓谷の下流を襲いました。NOAA
の調査によれば、推定波高はほぼ 40 フィートでした。津波により多くの家屋や建物が
破壊され、タロイモ水田のほとんどが浸水しました。
訳注:NOAA(National Oceanic and Atmospheric Administration)
アメリカ海洋大気庁
レノックス[5] は、1954年にタロイモ栽培に利用された土地は合計で約 300エーカー
だったが、一度に耕作されていたのは 150 エーカーのみで、残りは休耕地だったと報
告しています。当時の住民人口は 30 ~ 40 人だったと報告されています。
レノックス[5] はさらに、渓谷の農業開発の可能性を評価し、さまざまな栽培作物の組
み合わせ (タロイモ、ハス、ショウガ、フルーツ、マカダミア ナッツ、茶) では、住民
の農場人口は 52 ~ 65 世帯になると計算しました。
1960年に完成した土地調査局の報告書では、およそ 100 エーカーのタロイモが栽培さ
れている他、11 エーカーのマカデミア ナッツの木、5 エーカーのレンコン、コーヒー
果樹園が広がっていると推定されています。渓谷の定住人口は事実上存在しませんで
した。農民は通常、渓谷の外に居住し、タロイモ畑で働くために渓谷まで通勤してい
ました。古代の行政地区としてのワイピオには、渓谷自体とそのいくつかの支流(ワ
イマ、コイアウェ、アラカヒ、カワイヌイ)だけでなく、コハラ側のムリワイの高地
と ララケアの高地も含まれており、そのため、首長や借地人に必要な山側と海側の資
源が提供されていました。 1830 ~ 40年代の教会の記録によると、渓谷の入口から奥ま
での地域には、ケオネ、ナアラパ、ナポオポポ、コアウカの集落があり、全て学校が
ありました。
訳注:古代の行政地区=アフプアア(Ahupua'a)
訳注:ムリワイ高地〜渓谷の西側高地、ララケア高地〜渓谷の東側高地
土地所有権(「マヘレについて」参照)
渓谷の所有者は、1896年にビショップ博物館に譲渡されるまで、周期的に変わりまし
た。1848 年のマヘレの後、チャールズ カナイナ(Charles Kana'ina)がワイピオ渓谷
の約 5,800 エーカーの所有権を取得しました。サム パーカー(Sam Parker)大佐は
1881年にこの土地をオークションで購入しました。パーカーは次にこの土地をチャー
ルズ リード ビショップに売却し、ワイピオ渓谷の文化的、歴史的重要性を認識してい
たビショップは 1896年にこの土地をビショップ博物館に譲渡しました。
マヘレ時代にワイピオ渓谷で合計 114 件の LCA(Land Commision Award) が申請さ
れました。このうち 82 件は承認され、26 件は承認されず、6 件はワイピオ渓谷の外に
ありました。 最低でも 1529 件の水田があり、 そのうち 155 件は承認されませんでし
た。ナポオポポ村には少なくとも 410 件のロイがあり、コアウカ地域には118 件、ラ
ラケアには少なくとも 191 件の水田がありました。最低でも 27 件の畑区画がありま
した。他の申請では 8 つの養魚池 と 2 つの ハラ区画について言及されています。
今日でも、山側から海側までの渓谷の約 60% は、ビショップ博物館が所有していま
す。博物館は、その土地のほとんどを農家に貸し出し、タロイモ栽培を行っていま
す。カメハメハ スクールズ ビショップ不動産は、ララケア養魚池を含む、渓谷のハ
マクア側の海岸沿いに大きな区画を所有しています。ハワイ州も 3 つの大きな区画を
所有しており、1 つはムリワイ養魚池を含む渓谷のコハラ側、1 つはナポオポポ村、
もう 1 つは渓谷の上部のハマクア側にあります。残りの土地は小規模な個人地主が所
有しており、その多くは農家でもあり、中にはクレアナの土地の所有者の子孫もいま
す。彼らの名前は、1881 年に J. S. エマーソンが作成したワイピオ渓谷の地図に記載
されています。
訳注:ハマクア側 〜 東側、コハラ側 〜 西側
訳注:養魚池については次の図【ワイピオ の考古学的遺跡】参照
王室と宗教の中心地
ワイピオとは「曲がった川」を意味します。ハワイの人々は、水は生命の水の生殖者
であるカネ神、カネ イ カ ワイ オラのものであると信じています。カネは、植物に命
を与える男性の生殖エネルギー(淡水、地表または地下の泉、小川、川、降る雨、そ
して太陽の光)の具現化です。雨水は、水、天、雲、嵐の父である ロノ ワイ マクア
神から来ます。彼は雨の供給者です。
ワイピオについて ハワイ文化の従事者と議論すると、必ず生命の水を守るという概念
が話題になります。流域と川の管理では、この先住民の宇宙観と、ワイピオ渓谷が文
化的なキプカ(kīpuka)、つまりハワイ文化が保存され、伝えられるオアシスの様な
場所であることを認識する必要があります。
古代、ワイピオ渓谷は王室と宗教の中心地として極めて重要でした。渓谷はピリ家の
9人の統治者の居住地でした。最も有名なのは、ハワイ島を 1 つの首長国に統一した
リロアとその息子の ウミ ア リロアです。ウミは、兄のハカウとは異なり、親切で慈悲
深い統治者として知られていました。ウミは ハワイ島を統一した後、王室の居住地と
権力の中心を コナに移しました。権力の中心が ワイピオ渓谷から移されたにも関わら
ず、渓谷は カメハメハの時代まで、ハワイ島王室の居住地の 1 つとして重要であり続
けました。
ワイピオ渓谷に対する二度の残忍な攻撃は、その重要性を物語っています。カウ王国
の統治者 ケオウア クアフウラは、ケアウェマウヒリと カメハメハに対する先制攻撃と
して、ワイピオ渓谷に戦争を仕掛けました。2 度目の攻撃は、1790 年頃に、マウイ島
の カヘキリと カウアイ島の カエオによって行われました。2人の酋長は力を合わせ、
モロカイ島と マウイ島を制圧し、ワイピオ渓谷への攻撃を開始しました。カエオクラ
ニは ワイピオ渓谷を残忍に攻撃しました。これに反応して、カメハメハは1791年に
「大砲を装備した ダブル カヌーと スループ船 フェア アメリカンを含む、十分な人員
を擁する大規模な艦隊」を編成し、ワイピオ渓谷の西隣の ワイマヌ湾沖で侵略軍と交
戦しました。
考古学
ワイピオ渓谷の王家の遺跡の考古学的特徴の多くは、ウミ の時代またはそれ以前のも
のにあります。渓谷の正面、砂丘の背後には、ホヌアウラとモアウラを含む幾つかの
重要なヘイアウ(礼拝所、寺)がありました。どちらも大寺院です。ホヌアウラの建
設は、リロアによるものとされています。パカアラナは、別の大寺院で、そこにある
pu'uhonua (避難所)は、 島で最も重要で神聖な礼拝所の 1 つと考えられていまし
た。パカアラナは、1200 ~ 1300 年代に建設されたと考えられており、その後数世紀
にわたって何度か改修が行われました。1780年、カラニオプウは モアウラを修復して
再聖 別し、クカイリモクに捧げました。 1780年、カラニオプウはここでワイピオの首
長会議を招集し、息子の キワロが王国の跡継ぎとなり、カメハメハ I が ケアウェ家の
軍神である クカイリモクの守護者となることを厳粛に発表した。守護者には、この神
に捧げられた寺院を管理する責任が伴う。3つの寺院はすべて、ウミが権力を握ったと
き(1600 ~ 20年) にはまだ使用されており、1819年にカプ制度が廃止されるまで使用さ
れ続けた。パカアラナ 寺院内には、リロアの死後ハカウが建てた王家の霊廟、ハレ オ
リロアがあった。ハレ オ リロアには数人の統治者の遺骨が埋葬されていたと言われて
います。
訳注 : heiau ↔ 礼拝所、 luakini heiau ↔(大)寺院 とします。
【ワイピオ の考古学的遺跡(Figure 3: Sites of Waipi‘o を基に作図)】
その他の礼拝所や考古学的遺構は、渓谷の至る所にあります。ホクウェロウェロは、
渓谷の東側高台の崖沿いに位置していました。2番目の礼拝所であるクアハイロは、渓
谷の反対側の壁沿い、約 1.3 マイル内陸、ネネウェ滝の近くにありました。さらに別
の礼拝所であるパラカは、渓谷の入り口に近い、モアウラ 礼拝所とワイモア滝の近く
にありました。この地域のその他の考古学的遺構には、モカプ、ムリワイ、ララケア
の養魚池、カヒキマイアエア (王家のタロイモ畑)、レスリング場などがあります。ワ
イピオ渓谷全体が考古学地域として認められ、州番号 7168 が与えられています。
チャールズ リード ビショップが、渓谷の土地をビショップ博物館に譲渡した翌年の
1897年に書いた手紙の中で、次のように書いていることを強調しておきます。
「見失ってはならない問題があります。つまり、コハラのモオキニ、カワイ
ハエのプウコホラ、ワイピオのパカアラナなどの寺院と避難所の取得と管理、
‥ ‥ その他、興味深く保存する価値のあるもの ‥ ‥ 博物館の管理下に入っ
たら、それらは永久に保護されるべきです」
訳注 : Mo'okini luakini heiau in Kohala(モオキニ寺院)
訳注 : Pu'ukoholā luakini heiau in Kawaihae(プウコホラ寺院)
神話と伝説
ワイピオ渓谷には、神々、半神、著名な酋長や人物との重要なつながりが数多くあり、
次のような多くの理由から、この渓谷は最も重要な伝説の地となっています。
1) 系譜上のつながり、
2) タヒチ への航海上のつながり、
3) 神話における冒険、
4) 霊界や冥界とのつながり、
5) 超自然的な出来事、
6) 歴史的事実、
7) 聖地、
8) 来世、
9) 詩的な物語と伝説、
10) フラとチャント、
11) ハワイの儀式と習慣の導入、
12) ハワイを統治した重要な首長
カネ神とカナロア神は、他の下級の神々とともに ワイピオの アラカヒに住んでいたと
信じられていました。ハワイの人々の祖先とされる ワケアは、ワイピオに隠棲したと
言われています。ロノの妻 カイキラニは、ヒイラウェ滝のそばで彼の兄弟によって発
見されたと言われています。
ヒイラウェ滝の創造物語としてよく知られている伝説があります。伝説によると、ヒ
イラウェ という名の若く美しい女性が ワイピオ渓谷に住んでいました。ある夜、カカ
ラオアという名の若い男が彼女に恋をして ヒイラウェにやってきました。一緒に散策
し、愛の言葉を交わした一夜を過ごした後、2人は不吉な前兆である エレパイオ鳥に
出合います。若いふたりは絶対に離れないと誓い、ヒイラウェは滝に姿を変え、カカ
ラオアの体は滝のふもとの大きな岩になりました。
もう一つの有名な伝説は、リロアの息子 ウミの物語です。リロアは パウウイロへの旅
の途中で、美しい女性 アカヒに出会います。二人は一夜を共にし、子供を身ごもりま
す。リロアは アカヒに、もし息子ができたら ウミと名付けるように言います。出発す
る前に、彼は生まれてくる子供へのしるしとして、マロ、クジラの歯のネックレス、
戦棍を残していきます。ウミが生まれ、青年になると、アカヒは ウミの本当の家系を
伝え、ワイピオ渓谷にいる父親のところへ行くように言います。アカヒは リロアが残
した贈り物を ウミに渡し、父親に会ったら父親の膝の上に座って自分が誰であるかを
告げるようにと指示します。ウミは寵愛を受ける息子となり、リロアのもう一人の息
子 ハカウは嫉妬で激怒します。リロアの死後、ハカウが土地を相続し、神々と寺院の
管理は ウミに任されました。ハカウは ウミをひどく扱ったので、ウミは ワイピオ渓谷
を去ることになりました。ところが、ハカウは ワイピオの人々にもこの虐待を加え、
これを聞いた ウミは戻って ハカウを襲撃し、ハカウを殺害しました。そして、ウミは
ハカウの首長の地位に就いたのでした。
ワイピオ渓谷を有名な場所にしている他の重要な伝説には、次のような様々な人物や
神、半神、 事物、そして動物などが登場します。(訳注:以下に挙げてあるのは、
「ハワイの神話」[6]に書かれているものです。該当ページを付記します。)
・美しい乙女 カイキラニ、神 ロノ、マカヒキの儀式の確立 (p.36)
・風と嵐の神 ラアマオマオ (p.86)
・半神 マウイ (p.86)
・神 カーネと カナロア、下級神 マリウ、カエカエ、オウヒ (p.122)
・冥界の支配者としてのワケアとミル (p.155)
・黄色い犬の プアプアレナレナと有名な巻貝の キハプ (p.349)
・洪水でワイピオから追い出され、カヒキに渡ったオロパナ酋長とその妻ルウキア
(p.353)
・キラに航海の技術を教え、カヒキに渡って酋長たちの労働日を定めたモイケハ
(pp.355-358)
・偶像崇拝、ココナッツ繊維ロープ、カエケ太鼓、フラを導入した ラアマイカヒキ
(p.359)
・樹皮布のスカート、水ひょうたんの網カバー、アウトリガー カヌーの神聖な縛り
方を導入したルウキア (p.361)
・ウミの伝説 (p. 391)
・太鼓とカプの儀式をもたらした ハイナコロ (p.510)
・鳥、花、鳴き貝とともに育った美しい少女 ラウカイエイエ と ヒイラウェ (p.523)
[1] Waipi'o Valley Stream Management Plan. The Natural Resources Conservation
Service (NRCS) Report, Feb. 24, 2006.
[2] Dudley Kubo, "Waipi'o Valley Stream Management Plan - DOTS," USDA NRCS,
May 22, 2008.
[3] Abraham Fornander and Thomas George Thrum (ed.), Fornander Collection
of Hawaiian Antiquities and Folk-Lore. Vol. 4. Bernice P. Bishop Museum
Press, 1916.
[4] William Ellis, A Journal of a Tour around Hawaii, the Largest of the Sandwich
Islands . J. P. Haven, 1825.
[5] Lennox, C. G., A report to the Trustees of the Bishop Museum on the
resources of Waipio Valley, Island of Hawaii, their past and present uses
and an analysis of the problems facing their fuller use in the future.
unpublished report, Bishop Museum, Honolulu, 1954.
[6] Martha Beckwith, Hawaiian Mythology. University of Hawaiÿi Press, 1940.



