もう既に辺りは暗いが、少年の後ろを流れる川には鴨の親子の存在を感じる。

それまでの風景を眺めているかのような親子が、小川に浮かんでこちらを見つめている。

少年はパンの残りを手に持ちながら、鴨の親子に視線を移す。

まるで親鴨が少年の優しさを見届けるように浮かんでいる。

残りのパンを千切りながら、少年は鴨に向けて投げ入れる。

それを追う子鴨を、親鴨は優しく見守っている。

すべてを出し尽くした少年は、少しだけ首をかしげて親鴨を見つめる。

少年の胸のうちを受けとめたかのように、親鴨は軽く首を振り、緩やかな流れを昇っていく。


子鴨は親鴨を追いながら上流に向けて泳いで行く。

七羽いる子鴨のうち、二羽が羽根をバタつかせる。

そこではピシャピシャと水しぶきが立つ。

親鴨の群れから二羽が引き離されようとしている。

その姿を少年は気になり、二羽の子鴨を見つめている。

親鴨もそれに気づき、泳ぎを止めて子鴨を見る。

それに気づいたのか、子鴨は羽根を休めて、親鴨の方へ急いで向かう。

何ごともなかったかのように、鴨の親子は上流へ泳いで行く。

鴨の親子を見つめながら、少年は静かな感慨にふける。


(きっとボクも見守られている。まだボクには感じることができない大きな存在に守られている…)


なんの根拠もない言葉が頭に浮かび上がってくる。

そんな言葉を繰り返しながら、学校での出来事を思い返す。

楽しくもないが、嫌いでもない。

そんな日々が過ぎていく。

ありがちな日々を繰り返しながら、少年は成長していることを感じ始めた。


ボクは大きな存在に守られている。
そのことに感謝できれば救われる。


そのように考えがまとまることで、少年の不安な気持ちは、わずかな安らぎを手に入れた。


猫と鴨の親子では、幸せのとらえ方が全く違う。

もしかすると幸せとは、別なものかもしれない。

しかしボクは、その幸せを少しだけ分かり始めた。

これから先は、その幸せが膨らむように行動すべきだ。


その幸せを知ることができた喜びを、少年は家に着いてからも胸にとどめていた。


その日の授業を終えて、少年は真っ直ぐ帰宅した。

ミルクを入れるプレートを手にして、猫と出会った場所へ急いだ。


当然のようだが、すぐには猫を見つけられない。

とりあえず少年は公園を歩きながら猫を探した。

なかなか猫が見つからず、少年は寄り道をした。


そこで小川のせせらぎが耳に入る。

そうすると自然と小川へ足が向かう。

静かに流れる川の水は透き通っている。

その川の底が綺麗に映る。

この季節の水は、まだ冷たい。

少年が川に沿って歩いていると、少し先に鳥の群れが目に入った。

その群れは鴨の親子だった。

親鴨が七羽の子鴨を連れて泳いでいた。

それを微笑ましく眺めていたら、少しだけ愛しさが込み上げてくる。

手にしたパンを鴨の親子に渡しても良いような気がする。

猫が見当たらないのだから、それも良いと思えた。

少年は考えを少し変えて、千切ったパンを鴨の群れに向けて投げた。

それは鴨の群れの少し手前に落ちた。

まずは親鴨が近づき、くちばしでつっつく。

親鴨を追い掛けて子鴨も近づく。

パンを投げ入れるごとに、少年は笑みを浮かべる。

そこでは親鴨が、口うつしをするかのように子鴨へ渡す。

少年は鴨の親子が寄って来るのを目にしながら、少し先の丘に猫がいるのを見つけた。

少年は喜び、猫に近づいた。

その時、猫はおびえて、少し離れた。

それに気づいた少年は、カバンからプレートを出してミルクを入れた。


(おびえなくて良いから、ミルクを飲みに追いで!)


少年は胸のうちでつぶやきながら、猫を遠めに眺めていた。

それでも猫は近づかなかった。

かなり警戒しているのかもしれない。

そのように感じた少年は、少しだけ下がった。


(怖がることはないから、ミルクを飲みに追いで!)


胸のうちでつぶやきながら、やさしく少年は猫を見つめた。

それは誰かにいたわってほしい、少年の気持ちに似かよっていた。

そうすると猫は少しだけ和らいだ。

ミルクに入ったプレートに近づきながら、少年のことも見つめていた。

まもなく警戒をほどいた猫は、プレートのミルクを舐め始めた。

猫は舌を出して、ミルクを舐めた。

ペロペロと美味しそうにミルクを舐めていた。

それを見つめる少年は満面の笑みを浮かべた。

鴨の親子に投げ入れたパンも、まだ僅かに残っていた。

そのパンをミルクにつけて猫へ近づけると、匂いを嗅ぐように鼻をすり寄せた。

とくに危険を感じることもないので、ミルクに浸したパン切れを猫は美味しそうに口にした。

ささやかな一時だが、少年は幸せを味わっていた。

学校では味わえない、幸せを存分に味わっていた。

猫はミルクを飲み終えると、お礼をするかのように首を下げて、その場を静かに去っていった。

向こうにあるのは児童会館。

その脇に猫の隠れ家があるのかもしれない。

少年は猫の姿が見えなくなるまで見送った。


そのような恥ずかしい思いをしながら、せめてもの救いは給食の時間に嫌がらせを受けないことである。

席順の通りにグループとなり、そこでは時として隣の人や向かいの人と話すことができる。

そこでの出来事は、お互いの好き嫌いを語り合うなど、たわいもないやり取りである。

その時、少年は猫のことを思い出す。

飼い主に連れられた犬よりも、何にもつながれていない猫が、少年の傷痕を癒してくれる。

通学途中で目にした猫が、少年の傷めた心を舐めてくれるような幻想を抱く。

そのような映像が、たくましい少年の想像力により、思いも掛けず給食の時間におとずれた。

そうすると少年は、温かい心が胸の奥から膨らむのを感じた。


(猫はお腹を空かしているかもしれない)


向かいの女の子は牛乳を飲まない。

となりの男の子はパンを食べない。

それは、いつものことである。

しかし少年は言い出せなかった。


「パンと牛乳を残すなら、もらっても良い?」


その一言が口にできなかった。

それでも少年は猫のことを思う。

リードにつながれていない猫のことを思う。

そう考えるとパンを食べる気にはなれなかった。

猫のことを思うと牛乳を飲む気にはなれなかった。

少年はパンとミルクをカバンに入れて、残りの給食をすべて食べた。

食べ終えた後に、猫の姿が頭に浮かんできた。

少年が渡すパンとミルクを美味しそうに口にする猫の姿が浮かんできた。


(このミルクを猫に飲ますには、皿に入れる方が良い)


少年は猫のことを思いながら、そんな考えにふけっていた。

そんなことを考えていると残りの授業は、あっと言う間に過ぎ去った。

いつしか少年は、朝に出会った猫と心がつながれているような気持ちになっていた。