しかし授業の合間に苦痛がおとずれる。

それは、わずか十分の休み時間である。

なぜなら話す相手がいない中で、時として突然に話題が少年へ振られるからである。

昨日のテレビ番組の一コマが、クラスメイトの中で話題になる。

その誰もが知る話題を少年は黙って聞いている。

話のオチが自分に近づいていることを感じる。

まるで彼らのセリフが少年の神経を逆撫でるようである。

その時、少年は立ち上がり、迷わず彼らの顔を見る。


「あじゃまんべえ!」



少年は声を張り上げて、TVでお決まりのポーズを取る。

どうにかしたいが、どうにもできない。

そのような葛藤が胸のうごめく時、話に参加できない芸人が、最後に取るポーズである。

分かる者の中だけで、まずは静かな笑いが起きる。

その笑いが波打ちながら、徐々に教室へ広がっていく。

そこではクラスメイトの半分近くが笑っている。

このようなことが繰り返される。


彼らの話題に参加できないことはない。

しかし、その輪に入りたいと思うほど興味も湧かない。

だから入るタイミングが分からない。

話の矛先が、こちらに向かないのなら、そのまま通り過ぎてほしいくらいである。

しかし話のオチは、必ず少年に近づいてくる。

少年の神経を逆撫でるかのようにやってくる。


そのような辛い日々が少年繰り返された。

その繰り返しは、授業を受けることと同様に、少年が学校で過ごすための必要な儀式になりつつあった。


そんな少年は季節の移ろいを公園に吹き抜ける暖かな風で感じていた。

通学途中では、小川に流れる水の音が、心地よく少年の耳に入る。

その川のせせらぎは、少年の心を穏やかなものへと変えていく。

少年の心は、街を彩る自然の音色で、幾分か救われていたのかもしれない。

そこで彼は、飼い主に連れられた犬を見る。

もしくはリードにつながれていない猫を見る。

どちらが自分に近いのだろうかと考えながら、彼は今日も学校へ行く。

どのように考えても、そこは彼にとって楽しい場所ではない。

授業が分からない訳ではないから、席について先生の話を聞くのは苦にならない。

むしろ彼は学校の授業が好きである。

彼は知らないことを知る機会が、貴重であることを知っている。

そのような時間を、彼は楽しんでいる。

そして既に知っていることを、あらためて聞き直すのも嫌いではない。

例えば知っていることも、知らぬふりをして聞き続ける。

そうすると、いつしか次の発見につながることがある。

それほど難しいことを少年は考えていない。

しかし学校を嫌いにならない理由は、あいまいな感覚が彼の中で、静かにうごめいているからだと言える。

もしかすると、この少年の中では、その感覚が綺麗に整い始めているのかもしれない。


そんな彼の家で、両親が温かく迎えてくれるなら、学校での出来事を知ることができたはずである。


少年は学校でイジメにあっている。

いや、むしろ彼らは少年を過剰にイジる。

それは、イジメとは違うものと言える。

そのことを親に伝える術を、すでに少年が心得ていれば、わだかまるものを心に残すことはなかったのかもしれない。


しかし少年は、そのような手段を修得していない。

そのように伝える表現を十歳に満たない少年に求める方が、おかしな話だと考えられる。

少年の父と母は共に働いているので、子供の話に耳を傾けなかった。

いや、ある程度の会話は親子の間で交わされていたが、少年が親に気づかって、大切なことを伝えずに胸の奥へしまい込んでいた。

このようなことは問題が膨らむ前に、少年が親へ話すべきなのか、それとも親が子供の危機を察知すべきなのか、どちらが正しいのか今はまだ分からない。


ただし話を聞くことで勘違いを引き起こすことがある。

大きな問題が発生するよりは、誰かが多少の辛抱をする方が良いのだろう。


少年は、それぐらいの気持ちで過ごしている。

笑顔をつくろっているとは言わないが、一枚の仮面をかぶっているようである。