物語一気読みはこちら

 

 



あとがき

 

僕がどんな思いでこの物語を書いたのかまとめておくことにする。

いわば、この物語の備忘録。どんな心理状態で書いていたのかを、あとで振り返ることができるように。

(又は、振り返ってもらえるように……)

物語を書いたきっかけ

 

きっかけは単純な理由だったが、思いのほか重い物語になった。
 

3年前、書店で村上春樹の新作『街とその不確かな壁』を見かけた。


以前は彼の作品はかなり読んだが、最近は読まなくなったなと思い、手に取ってみた。


「君がその街のことを僕に教えてくれた。」(正確にはちょっと表現が違うかも)


この書き出しを見て、村上春樹らしいな、と思うのと同時に、自分だったらこの後にどんなストーリーを展開するだろう。


そう思ったのが、この物語を書いたきっかけだった。


つまり、3年越しである(笑)。


といっても、もちろん三年間ずっと書いていたわけではない。


時々プロットを考えることはあったが、なかなか形にならなかった。


本格的に書き始めたのは、二か月くらい前からだったと思う。

この物語のテーマ

 

テーマは「死と忘却」。
 

僕も年齢を重ね、死が近づいてきたと感じることがある。


有名人の訃報も、自分より年下の人が増えてきた。


人は誰でも、一度くらいは考えたことがあると思う。

自分がいなくなったあと、家族や知人たちの記憶の中に、自分はどのくらい残っているのだろうと。


もちろん、誰かの記憶の中にずっと残っていたいと思う。


でも、その記憶も少しずつ薄れていき、やがては時々思い出してもらえるだけになるのだろう。


日本固有(?)の一周忌や三回忌という法事は、そう考えるとすばらしい仕組みなのかもしれない。


出席した人は、必ず故人に思いをはせる。


そして三回忌の後、七回忌、十三回忌、三十三回忌と少しずつ間隔があいていく。


それもまた、死と忘却を象徴しているような気がする。


ただ、それは家族や、ごく親しい友人だけだろう。


それ以外の人たちは、忘れ去られるのが早いような気がする

もし、自分に結ばれなかった人がいて、死を覚悟した時、その人の記憶の中に自分を残すにはどうすればいいのだろう。


これが、この物語のテーマです。

登場人物の設定

 

登場人物は「君」と「僕」。
 

物語は「僕」の一人称で語られる。


「君」と「僕」は大学時代の恋人同士。


卒業をきっかけに恋人関係は終わったが、その後も友人としての関係は続いている。
 

「君」が残したメッセージ

 

この物語には、

「もしわたしが、ある日突然いなくなったら、誰か、ちゃんと探しに来てくれるのかな」

という言葉が二度登場する。


同じ言葉ではあるが、一度目と二度目では意味が違っている。


雪の日の喫茶店で、この言葉を口にした時の「君」は、まだ「僕」に探しに来てほしいと思っていたわけではない。


駅の話も、遠い親戚から聞いた少し不思議な話を、久しぶりに再会した「僕」に話しただけだった。


その後、「君」を取り巻く環境は少しずつ変わっていく。


そして、自分にとって本当に大切だった人は誰だったのか。その答えが「僕」だったことに、「君」はようやく気づく。


でも、その頃には二人はもう長い間疎遠になっていた。


今さら会いたいとも言えない。


それでも、「僕」の記憶の中から消えたくはなかった。


どうすれば自分を忘れずにいてもらえるのか。


「君」は、人の記憶には何気ない日常よりも、心を大きく動かされた出来事の方が長く残るのではないかと考えるようになる。


そして、「君」の思いは、やがてあの日「僕」に話した駅へと向かっていく。


そんな人物として、「君」を描いた。

駅の意味

 

駅は、現実と幻想、生と死、その境界のような場所として位置づけている。
 

ラストシーンで、「君」の思いと現実の「僕」が、その場所で一瞬だけ交わる。
 

そんなイメージで、この場面を書いた。
 

この物語の終わり方

 

実は、最初に考えていたラストは、「僕」が駅で「君」の姿を見つけたところで終わるものだった。


その時点でも、自分では気に入っていた。


でも、何度か読み返しているうちに、もう一場面あった方が、この物語らしいような気がしてきた。


そこで最後に、友人からの電話を加えた。


駅での出来事だけなら、多くの方は「僕」が見た幻想だと受け取ると思う。


でも、それだけでは終わらせたくなかった。


最後に一本の電話を入れることで、その出来事が現実とどこかでつながっているような余韻を残したかった。
 

そんな終わり方を選んだ。


にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村

A市の不思議な物語(全文)

 

第一回

君がその街のことを僕に教えてくれた。
 

いや、この言葉は正確ではない。
何故ならば、その街はとても有名で、僕自身も存在自体は小学生の頃から知っていたし、むしろ知らない人間を探す方が難しいからだ。
もちろん、この国で生まれ育ったという前提がつくが。


だから、「君がその街にまつわる不思議なできごとについて教えてくれた」というのが正しい。


物語は、時代に忘れ去られたような雰囲気を醸し出している小さな喫茶店から始まる。

登場人物は、もちろん君と僕だ。

外では、まるで二人を閉じ込めるように雪が降っていた。


「ねぇ、A市って知ってる?」

僕はカップを持つ手を止めた。唐突すぎる質問だったし、何より、君の声のトーンが、それまでの雑談とは明らかに違っていた。

低く、静かで、まるで誰かに聞かれることを恐れているような声だった。

「知ってるも何も」と僕は言った。「B県の県庁所在地でしょう。確か、梨が有名だったはずだ」


我ながら、教科書のページをそのまま読み上げたような答えだと思った。事実、それ以上のことを僕はA市について何も知らなかった。行ったことすらない。テレビの天気予報で、地図の上に浮かぶ小さな点として、何百回となく目にしてきただけの街だ。


君は少しの間、何も言わなかった。隣の椅子に置いた、何年も使い込んでいるせいで、ところどころ茶色っぽく色あせてしまった黒いトートバッグの持ち手を、指先でそっと撫でながら、カップから立ちのぼる湯気を見つめていた。

それから、ふっと笑った。

でもその笑い方は、僕の答えを面白がって笑ったのとは違う種類の笑いだった。
もっと、諦めに近い何か。

「みんな、同じことを言うのよね」

君はそう言って、視線を落とした。


「梨と、県庁所在地。だいたい、みんなそれくらいしか出てこないの」

「そりゃそうだろう」と僕は言った。「住んだことも、行ったこともないんだから」

「うん。でも――」


君はそこで言葉を切り、窓の外に目をやった。雪は音もなく降り続けていた。喫茶店の中は暖かかったはずなのに、僕はなぜか、背筋にひやりとしたものを感じた。


「ひとつだけ、誰も知らない話があるの。A市について」

「不思議な話、ってやつ?」

「そう」


君は頷いた。それから、まるで長い間ずっとその言葉を口にする機会を待っていたかのように、静かに語り始めた。


「わたしの遠い親戚に、A市に住んでた人がいてね。もうずいぶん前に亡くなったんだけど、小さい頃、その人からよく聞かされた話があるの。
その人が、実際に体験したことなんだけど」


「どんな話?」


「A市を通る、普通の電車があるんだけど……その人が言うには、何が理由なのか自分でもさっぱり分からないんだけど、たまに、本当ならただ通り過ぎるはずの、名前もない駅に停まることがあったんだって」


「臨時停車ってこと?」


「その人も、最初はそう思ったみたい。でも、気になって乗務員に聞いたら、『そんな駅はありません』って言われたんだって。後になって、その区間をもう一度地図で確認しても、それらしい場所が見つからなかった、って、ずっと言ってたの」


「それで、その駅が何かあるの?」


「その人が乗ったときは、たまたま誰も降りなかったから、何も起きなかったみたい。
ただ、その路線を使ってた人の中に、同じホームを見たことがある、っていう人が他にも何人かいて……その人たちの間で、ずっと語り継がれてきた話らしいの。

たまに、降りちゃう人がいるんだって。何かに誘われるみたいに、ふらっと」


窓の外で、雪が少しだけ強くなった気がした。喫茶店の古い柱時計が、こつん、と控えめな音を立てて秒を刻む。その音がやけに大きく聞こえた。


「降りたら?」


「扉はすぐに閉まって、電車はそのまま行っちゃう。それで、降りた人は」


「戻ってこない」


「うん。誰も、二度と」


「その話、信じてるの?」


君は少しの間、僕の目をまっすぐに見た。何かを確かめるような、試すような視線だった。それから、視線を逸らして、小さく笑った。
俯きがちに、少しだけ視線を落として。何かをごまかすときの、君の癖だった。


「さあ。ただ、なんでか、他人事に思えないときがあるの。子どもの頃に聞いた話なのに、今でもふとした瞬間に思い出すの。理由はうまく言えないけど」


「ずいぶん真剣なんだね」


「うん。でも、ずっと考えてるの。その駅で降りちゃった人たちのこと。
今もそのホームで、ずっと、誰かを待ってるのかもしれない、って」


君はそこで言葉を切り、少しの間黙り込んだ。それから、独り言のように、ぽつりと呟いた。


「ねえ。もしわたしが、ある日突然いなくなったら、誰か、ちゃんと探しに来てくれるのかな」


僕は、何と答えていいかわからなかった。何か言おうとしたけれど、うまく言葉にならないうちに、君は小さく笑って、話を切り上げてしまった。


「なんてね。忘れて」


僕は何も言えなかった。信じたわけではない。ただ、君の声の震えが、ただの世間話をしている人間のそれではないことだけは、なんとなくわかった。


結局、その話はそれ以上先には進まなかった。
君は何かを言いかけて、やめた。僕も、それ以上尋ねなかった。
喫茶店を出るころには雪はやんでいて、僕たちは駅の反対方向へ、それぞれ帰っていった。


それが、君と交わした最後のまとまった会話になるとは、そのときの僕は思ってもいなかった。

(つづく)

第2回
 

それから三年ほど経った、ある年の暮れのことだった。

大学時代のゼミ仲間で集まる、恒例の忘年会が開かれた。

ゼミの違う君はここにはいないが、参加者の中に、君と親しかった友人の顔があった。
 

会が進み、近況報告や思い出話でテーブルが盛り上がる中、ふと気になって、その友人に、君のことを尋ねてみた。
 

「そういえば、XX、最近どうしてるか知ってる?」
 

友人は、一瞬、箸を持つ手を止めた。それから、少し困ったような顔で言った。


「……知らなかったの? 消息不明になってること」


「知らない。いつごろから?」


「半年くらい前かな。XXのお母さんから、うちに連絡が来て」


そのとき、会場の前方でマイクを通した声が響いた。

「えー、それではここで、ゼミの恩師である先生から、一言ご挨拶をいただきたいと思います」

拍手が起こり、参加者たちの視線が一斉にステージの方へ向いた。友人も、慌てたように居住まいを正し、話はそこで中断してしまった。


拍手をしながらも、頭の中では、今聞いたばかりの言葉だけが繰り返し鳴っていた。半年前。君のお母さんから連絡。
それ以上のことは、まだ何もわからないままだった。


恩師の挨拶は、思いのほか長かった。近況報告、後輩たちへのエール、昔の思い出話。誰もが笑ったり相槌を打ったりしている中で、僕だけが、その場から少しだけ切り離されているような感覚を覚えていた。


その後も宴は続いたが、話の内容はほとんど頭に入ってこなかった。一次会がお開きになり、何人かが二次会へ流れていく中、僕は友人を呼び止めた。


「まだ聞きたいことがあるんだけど、少し時間もらえないか」


友人は頷いて、二次会には加わらず、近くの喫茶店に付き合ってくれた。


「なんか、最初は、勤め先から実家に連絡があったんだって。何日も無断欠勤が続いてて、電話しても出ないから、って。それでお母さんが心配になって、部屋まで様子を見に行ったら……誰もいなくて、部屋の中は、拍子抜けするくらいきれいに片付いてたらしいの」

友人は話し始めた

「何か、手がかりはなかったの」
 

「はっきりしたことは、何も。ただ、部屋のテーブルに、C地方のガイドブックが置いてあったんだって。B県のところに、いくつか付箋が貼ってあったみたいで。警察が、その付箋のあった観光地を確認してみたらしいんだけど、これといった手がかりは出てこなかったって」


友人はそう言って、コーヒーカップに視線を落とした。


「付箋は、B県だけだったの?」


「うん、付箋があったのは、B県のところだけだったみたい。他のページには、特に何も」


「そっか」


短くそう答えることしかできなかった


「XXと最後に連絡取ったのは、いつ?」


そう聞かれて、僕はすぐには答えられなかった。


ちゃんと話したのは、あの喫茶店が最後だ。三年前になる。
それから何度か、メッセージのやり取りはあったと思う。
でも、最後がいつだったかは、正直、よく覚えていない。
内容のある話は、あれ以来、何もしていなかったからだ。


理由は、自分でもうまく説明がつかない。喧嘩をしたわけでも、気まずいことがあったわけでもない。そもそも、あの喫茶店での再会自体、たまたま出張先が重なって、何年かぶりに顔を合わせただけのことだった。

あの日話したきり、また元の通り、特に連絡を取り合うこともなく、時間だけが過ぎていった。

僕自身、仕事が忙しくなっていた時期だった。それだけのことだ。
特別な理由なんて、何もなかった。


あの日、雪の降る喫茶店で聞いた話のことは、ずっと頭の片隅に残っていた。
忘れたわけではない。ただ、それが連絡を取り直す理由には、ならなかった。
それだけだった。


「三年くらい、かな」

そう答えると、友人は、少し驚いたように僕を見た。


「わたしは、月イチくらいでLINEはしてたかな。他愛もない話ばっかりだったけど。消息不明になる三ヶ月くらい前から、既読はつくのに、返信がスタンプ一個だけとか、そういうのが増えてて。
さすがに心配になって、直接会おうって誘ったの」


「それで、会ってみたら?」


「なんて言えばいいのかな……転職したばかりで、新しい職場にまだ馴染めてない感じだったの。
会ったとき、笑いながら、こんなことも言ってて。
『わたしが、ある日突然いなくなったら、誰か、ちゃんと探しに来てくれるのかな』って。
笑ってたのに、目は全然笑ってなかった」


「それで?」


「それからしばらくはやり取りが続いてたんだけど、そのうち、既読すらつかない日が続くようになって」


僕は、何も答えられなかった。


三年前、あの喫茶店でも、君は同じことを僕に言っていた。
「もしわたしが、ある日突然いなくなったら、誰か、ちゃんと探しに来てくれるのかな」。

あのときは、うまく答えられないまま、君自身が「なんてね、忘れて」と笑って話を切り上げてしまい、それきりになっていた。

まさか、本当にいなくなるなんて、思ってもいなかった。

友人が今しがた口にした言葉は、三年前に聞いたあの言葉と、寸分違わず重なっていた。

友人は、僕がその言葉を、別の場所でもう一度聞いていたなんて、知らないはずだった。


「何か、心当たりある?」


友人にそう聞かれて、僕は何と答えていいかわからなかった。

話したところで、誰が信じるというのか。

それに、それを口にすることは、まるで本当にあの話の通りになってしまったのだと、認めることのようにも思えた。


「いや」とだけ、僕は答えた。


二次会は、まだ続いているはずだった。だが、二人とも、そちらに合流する気にはなれなかった。


結局、僕は何も言えないまま、友人と別れた。


(つづく)
 

A市の不思議な物語(第三回・最終回)


二年が過ぎた。


「君」の行方はまだわかっていない。


そんな時、担当エリアの変更でA市郊外の工場を受け持つことになった。


「君」がガイドブックに残した付箋のB県の県庁所在地だ。

そして、「君」が喫茶店で話した、一度降りたら二度と戻ってこれない駅がある市だ。


はじめての出張、新幹線からローカル線を乗り継ぎ工場に向かった。


このローカル線にあの「駅」はあるのだろうか。

そんなことを思いながらローカル線に乗ったが、当然のごとく何も起こらなかった。


工場に着いて、先方の担当者と名刺交換をして、生産ラインを見学して、打ち合わせは簡単に終わった


帰りのローカル線に乗る。

僕はずっと車窓を眺めていた。


電車は淡々と、田畑の間を走っていく。外はもう薄暗くなっていた。
車内はまばらで、僕以外に数人の乗客がいるだけだった。


やはり、「駅」なんてあるわけないよな、そう思った時だった。


電車が、不意に速度を落とした。そして停まった。


窓の外を見ると、そこにはホームがあった。

だが、駅名を示す看板がどこにもない。
蛍光灯ではなく、裸電球が一つだけ、頼りなく灯っていた。
ホームの隅には古い柱時計があって、目を凝らしても、その針が動いているようには見えなかった。
ベンチの端には、誰かが忘れていったらしい畳んだ傘が一本、埃をかぶって立てかけられていた。


車内アナウンスは何も流れなかった。

他の乗客たちは、誰も窓の外を見ようとせず、スマートフォンや、文庫本に目を落としたままだった。
まるで、これがいつものことだとでもいうように。


ドアが開いた。誰も降りようとしなかった。


僕は、席を立っていた。自分でも、なぜそうしたのか分からない。
ただ、体が勝手に、ドアの方へ向かっていた。


ドアの前に立ったとき、ホームの奥の暗がりに、人影が見えた気がした。

肩に掛けた、革の色がすっかり変わってしまった黒いトートバッグに、見覚えがあった。
俯きがちに、少しだけ視線を落として立っている、その仕草にも。

記憶の中の君と、寸分も変わっていないように見えた。


隣に立っていた乗客が、怪訝そうに僕の顔を見た。
何を見ているのか分からない、というふうに。
その視線に、僕は初めて気づいた。
もしかしたら、ホームも、あの人影も、この車両の中で、僕にしか見えていないのかもしれなかった。
 

一瞬だった。ドアが閉まる音がして、電車はまた動き出した。
振り返ったときには、ホームはもう窓の外から消えていた。


電話がかかってきたのは、それから二日後の夜だった。
画面に表示された名前は、あの忘年会で会った友人のものだった。
 

「……見つかったって、お母さんから連絡があったの。警察が、確認したって」


友人の声は、電話越しでもわかるくらい、震えていた。


僕は、何も言えなかった。ただ、受話器の向こうの沈黙だけが、やけに長く続いた。


あれから、A市という名前を耳にするたび、僕は決まって、君のことを思い出す。


(了)


にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村

 

 

 

第一回、第二回を読んでない方は最初からよんでもらえると嬉しいです
(第一回、第二回の内容を思い出したい方も)

 

 

 

 

A市の不思議な物語(第三回・最終回)


二年が過ぎた。


「君」の行方はまだわかっていない。


そんな時、担当エリアの変更でA市郊外の工場を受け持つことになった。


「君」がガイドブックに残した付箋のB県の県庁所在地だ。

そして、「君」が喫茶店で話した、一度降りたら二度と戻ってこれない駅がある市だ。


はじめての出張、新幹線からローカル線を乗り継ぎ工場に向かった。


このローカル線にあの「駅」はあるのだろうか。

そんなことを思いながらローカル線に乗ったが、当然のごとく何も起こらなかった。


工場に着いて、先方の担当者と名刺交換をして、生産ラインを見学して、打ち合わせは簡単に終わった


帰りのローカル線に乗る。

僕はずっと車窓を眺めていた。


電車は淡々と、田畑の間を走っていく。外はもう薄暗くなっていた。
車内はまばらで、僕以外に数人の乗客がいるだけだった。


やはり、「駅」なんてあるわけないよな、そう思った時だった。


電車が、不意に速度を落とした。そして停まった。


窓の外を見ると、そこにはホームがあった。

だが、駅名を示す看板がどこにもない。
蛍光灯ではなく、裸電球が一つだけ、頼りなく灯っていた。
ホームの隅には古い柱時計があって、目を凝らしても、その針が動いているようには見えなかった。
ベンチの端には、誰かが忘れていったらしい畳んだ傘が一本、埃をかぶって立てかけられていた。


車内アナウンスは何も流れなかった。

他の乗客たちは、誰も窓の外を見ようとせず、スマートフォンや、文庫本に目を落としたままだった。
まるで、これがいつものことだとでもいうように。


ドアが開いた。誰も降りようとしなかった。


僕は、席を立っていた。自分でも、なぜそうしたのか分からない。
ただ、体が勝手に、ドアの方へ向かっていた。


ドアの前に立ったとき、ホームの奥の暗がりに、人影が見えた気がした。

肩に掛けた、革の色がすっかり変わってしまった黒いトートバッグに、見覚えがあった。
俯きがちに、少しだけ視線を落として立っている、その仕草にも。

記憶の中の君と、寸分も変わっていないように見えた。


隣に立っていた乗客が、怪訝そうに僕の顔を見た。
何を見ているのか分からない、というふうに。
その視線に、僕は初めて気づいた。
もしかしたら、ホームも、あの人影も、この車両の中で、僕にしか見えていないのかもしれなかった。
 

一瞬だった。ドアが閉まる音がして、電車はまた動き出した。
振り返ったときには、ホームはもう窓の外から消えていた。


電話がかかってきたのは、それから二日後の夜だった。
画面に表示された名前は、あの忘年会で会った友人のものだった。
 

「……見つかったって、お母さんから連絡があったの。警察が、確認したって」


友人の声は、電話越しでもわかるくらい、震えていた。


僕は、何も言えなかった。ただ、受話器の向こうの沈黙だけが、やけに長く続いた。


あれから、A市という名前を耳にするたび、僕は決まって、君のことを思い出す。


(了)


にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村