葛飾八幡宮を散歩 | まほろばのdaimal

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特にテーマがあるわけでもなく、自己満足の日記であります。

 所用で千葉県の市川市を訪問した快晴の木曜日。

少々時間があったので京成電鉄「京成八幡」駅近くの葛飾八幡宮を参拝散歩させて頂きました。 ちょくちょく拝見させて頂いている三諸さんのブログでちょっと予習。 大きな銀杏の御神木に興味津々です。

 

 社殿は駅から近いのですが、少し回り込んで一の鳥居から参道を上ります。

 

 

 二ノ鳥居は京成電鉄本線踏切を挟んで参道の松に隠れています。

 

 踏切を越えて、一の鳥居を振り返れば京成電車がゴ~っと通過。

 

 二ノ鳥居をくぐり、秋風が抜ける参道を隋神門へとすすみます。

 

 

 創建は、鎌倉の鶴岡八幡宮 (1063年) よりも古く由緒のある葛飾八幡宮 (889~898年) 。 

 

 下写真の案内板によれば八幡宮は、神仏習合であった江戸時代に上野寛永寺の末寺・八幡山法漸寺の管理下にあり、隋神門も元々は寺の仁王門だったとのことです。 江戸時代までは仏主神従という思想があったようで神社仏閣を寺社といい、明治以降は皇室の力が復古し神仏分離とされ神社優先の考えから社寺と言い換えられたとか(ネット知識ですが)。

 

 神仏習合で連想したのが、平家物語で那須与一が宣う 「 南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。 これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。 いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな」 という一節 (嘘です、南無八幡大菩薩という部分だけ記憶にあり、それ以降はネットで調べました)。

 

 因みに、「南無」って「ナマステ」に繋がっているって知ってました。 長くなるのでWiki先生に聞いてみてください。

 

 「隋神門は寺院の仁王門にならった」とは興味深い記述です。 そういえば出羽三山神社にも羽黒山隋神門、羽黒山五重塔、更に鐘楼がありました。 今ではもう登れる体ではありませんが。。

 

太い柱の下部は挿げ足したように見えますが、修繕痕跡なのでしょうかね?

 

結構各所の柱に亀裂が目立ちます。

震災の影響?

 

亀裂がスパイラル状に走るのはなぜだろう。

 

原因は。。

散歩なのでそこまではちょっとわかりません。

近くで見てみても木目方向のようにも見えますが

ねじれた木目というのも考えがたい。

 

謎は秋の如く深まるばかり

 

 

 

-----閑話休題-----

 

 

 

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 隋神門を抜けると、ここも秋風が涼しげに通る参道が続き、、

 

 神門に至ります。

 

 さほど多くはないのですが、参拝者がほぼ途切れる事がありません。

神門前を横切るおじさまおばさまに子連れのお母さんも、ちゃんと立ち止まって一礼されておりました。 地元によく信仰されている神社のようです(下総国総鎮守ですが)。

 

社紋は菊花心に三つ巴

 

 武家の信仰厚き八幡様。 平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康等々の関東に名を馳せた武将が信仰寄進を寄せていたようです。

 

拝殿と、その右が御神木である千本公孫樹(せんぼんいちょう)

 

国指定天然記念物

 

 

確かに多数の幹が密集しているように見えます

 

 中央部はどうなっているのだろう。

年輪では樹齢を判別出来そうにありませんね。

 

 宇宙に向かって伸びている

 

 本殿裏手は、かつて巨木の杜があったのではないかと妄想させます。

 

 神社ですが鐘楼があります(寺院時代の名残でしょうね)。

鐘楼左手の案内板下には「駒どめの石」。 頼朝公が千葉に落ち延び、再起を図ったときの乗馬が前足の蹄を置いたとされる石で、よく見ると蹄跡のように見える窪みがあります 

右手の案内板下の石は、境内を担いで周回し力自慢を争った力石だそうです。

 

 

 拝殿の唐破風向拝に彫られているこの鳥は何なのだろうか。

カラスのように見えますが、八咫烏は熊野さんで三本足だし。 

また、謎が深まってしまった。

 

 今日の散歩はここまで。

黄葉の季節になったらまた訪問させて頂くかもしれません。

 

~追伸~

 

 隋神門西側では現在ビルが建設中。 公共施設や商業施設が入る建物は市が施主らしい。 折角の涼やかな風が通る参道が滞ってしまわないか心配であります。

 

 

 10/26撮影@千葉・葛飾八幡宮付近

 

 秋の夜長。

今更ながら源氏物語なんかを読み始めております(もちろん現代語訳版です。 カッコつけているだけですが)。