およそ40年ぶりに天王様に詣でる:その2/3 | まほろばのdaimal

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特にテーマがあるわけでもなく、自己満足の日記であります。

 白鬚橋で隅田川を渡る。

スカイツリーの頭に雲がかかっていないので暫く雨は降らないだろうと、明治通りを三ノ輪 (みのわ) に向かいます。 ここら辺りは明治通りの南側が墨田区で北側が荒川区になっています。

 

 途中の泪橋をそのまま直進。

この交差点を右(北)に行けば南千住で、南に行くと浅草方面になります。

 

 三ノ輪を経て荒川区に入り三ノ輪橋に至る。

 

 この街は、我が青春の街。

大学の友人が住んでおり、学生時代は毎週2日は飲み明かして泊めてもらいました。 友人のニックネームは「ジョディ」。 もちろん生粋の江戸っ子。 大学2年でお父様を亡くし、家業を継ぐ為に中退。 彼の人柄が多くの友人を引きつけました。

 

 呑み方が半端ではありません。

我ら4名は、居酒屋で散々飲んで話してきた後で、ジョディの家に上がり込み、そこから焼酎を薄めずに飲み始めます。 普通の密集住宅街なのに散々カラオケを歌い、大声で笑うという超迷惑呑兵衛。 にもかかわらず近隣からクレームされないとは未だに不思議であります。 呑んで騒いで吐いてまた呑んでというクレージーな生活に、バイト代の大半を費やしましたが、当時は肝臓元気でいくらでも呑めました。 そして、まったく太りませんでした! 

 

 そう、いくらでも底なしに呑めました。 あの頃の肝力と髪の毛を少し今に残せていたら。。。

 

 お母様はちゃきちゃきの江戸っ子で 「女にしておくのが勿体ない」 (今では差別といわれそうですが) ほどに、ちゃぶ台をひっくり返そうが笑顔で我らの宴に付き合ってくれました。 日本橋辺りの品の良いボンボン系江戸っ子とは違い、本当の下町のおっかさんでありました。 ときとして、銘酒を、味もわからぬクソガキに惜しげも無く呑ませ、浅草の蕎麦屋に連れて行ってもらえば一番良い酒を呑ませてもらいました。 就職し家庭を持つなどで徐々に疎遠になってしまったことを悔やみます。

 

亡くなって10年以上。

地方出向・海外出向等々の忙しさを理由に、未だに線香の一本もあげさせて頂いておりません。

 

 写真左手に入ると都電荒川線起点の三ノ輪橋駅で、右側の日光街道に抜ける路地には立ち食い蕎麦屋があってよく利用しました。 超呑み会に備え、栄養分を採取すべく、天玉うどんを流し込んでから出発していました。

 

 右側の路地。

流石に立ち食い蕎麦屋はなくなっているようです。

また一つ、体の一部がなくなってしまったような気持ちに。

 

 左側に入ると都電荒川線の三ノ輪橋駅。

東京は「橋」が付く駅が沢山あります。 それだけ河川や運河が多かったんですね。

 写真に写っている左側が出発停留所で、右中央奥に小さく見えるのが到着専用停留所。

 到着停留所を出て5秒で入れる喫茶店・珈琲館。 今でもありました。 

ここでも色々ありました (ということでご理解頂きたく存じます)。 今日このまま入ったら、そのままあちらの世界に行って出てこられなうなるような気がして、止めておきました。

 

 アーケード名店の多いジョイフル三ノ輪商店街には入らず、北上します。 写真では右方向。

 

 

 たしか左のビル一階に、青春時代を酩酊と共にすごした居酒屋があったのですが。。 次の角だっただろうか?

 その昔「呑兵衛」という居酒屋があって、酎ハイを煽っては空いたグラスを呑みの遅い者のグライスに突っ込むという悪行三昧を繰り返し、おおよそ一人15杯くらい呑むので 「そろそろグラスを返して」 とママさんに叱られるのでありました。 でもマナーは良かったので (上記を読むと十分悪い) 店の常連さんやらマスターにも可愛がられておりました。 多分ね。

 よく見るとビルの側面に居酒屋。 多分ここじゃないだろうけど、何か縁のあるお店であろうか。

 

 友人宅を探す。

電話番号も無くしてしまったので事前連絡出来ず、当時の記憶をたどって路地をうろついたのですが、残念ながら判らずじまい。 お母様へ線香も上げられず。 秋になったらもう一度探査をチャレンジしてみようと心に誓います。(追記:暫く訪問は出来ませんね。。。)

 帰宅後に戻ってきた記憶とマップにより、どうやら路地を一本間違えていたようです。 せめて年明けに、皆が予防注射を打ち終わった頃を見計らって訪問しようと思っています。

 

 さらに北上し路地を千住大橋方面に向かう。

確かこの写真左の集合住宅から向こうは、東京球場の跡地だった気がします。 小学校低学年の頃、おじさんに連れられて一度ヤクルト戦を見に来た事があります。 京成千住大橋駅から徒歩で行った東京球場、今では痕跡もよくわかりません。

 

 その先には曰くのありげな煉瓦塀。

旧千住製絨所煉瓦塀であります。 軍用毛織物を生産する工場として広大な敷地を有していたようですが、今はこの煉瓦塀だけが残っているそうです。 

 

 ここは試験に出るので、よい子はよく蘊蓄を読んでおくように。

 

 因みに現隅田川は荒川であったことが記載されています (江戸時代は大川)。 Daimal調べでは実際の隅田川はもっと東にあったとされ、葛飾区堀切付近や足立区綾瀬付近並びに埼玉県に「古隅田川」として水路や暗渠が現存しています。 今の荒川は水害防止の為に作られた人工の放水路で、これにより中川が分断されるなど、治水によりかつての水の都お江戸はすっかり様変わりしました、とさ。

 

 次の交差点を右に折れて日光街道(国道4号線)方面に向かう。

見えてきたのは天王様こと素盞雄神社(すさのお神社)。 漸くブログタイトルの登場であります。

 ここの例大祭はとてつもなく賑やかで、独特の神輿も三社祭に負けていません。 かつて例大祭で神輿を担がせていただいて以来、およそ40年ぶりに詣でさせていただきました。

 

 というところで、次回に続きます。

 

8/21撮影@三ノ輪橋・南千住

 

 多くの書物に記録されていたって、人の所作はどんどん風化していくものですね。 電子媒体による膨大な記録だってあまりに大きくなりすぎて、風化や取捨選択並びに簡要化が自動で進み、もはや事の真実や機微は人の理解を超え、A I だけがほくそ笑む世紀が目の前ではないでしょうか。