いつか、沖縄を取り戻す | 第一経営グループ代表 吉村浩平のブログ

第一経営グループ代表 吉村浩平のブログ

第一経営グループ代表 吉村浩平のブログです

久しぶりに時間のタイミングがあったので、埼玉映画文化協会の上映会に行ってきました。今回の上映作品は、昨年6月公開の「返還交渉人~いつか、沖縄を取り戻す~」という映画です。ちょうど沖縄の辺野古では、県民投票の結果を無視してサンゴ礁の海に土砂を投入する安倍政権の暴挙が、日々ニュースで取り上げられているさ中の上映になりました。

 

残念ながら客席を見渡せばパラパラという状況です。エンタテイメント的に派手さがなく、ちょっと地味な映画であるだけに仕方がないのかと思いながらも、少しもったいないなと思うくらい、私は勇気をもらえた映画でした。

 

かつて沖縄は、焦土と化した沖縄戦が終結(19456月)した後、日本から切り離されてアメリカの占領下にありました。そして敗戦から27年が経ち、ようやく1972年に日本に「返還」されました。この映画は、当時、外務省アメリカ局北米課長であった千葉一夫さんが、沖縄返還交渉の最前線で必死に取り組んだ実話をもとにしたものです。

 

美しい海に囲まれた島、その地には人々の家、畑や田んぼ、そして生命の源となる水源があり、更に先祖からのお墓がありました。占領下、それらすべてがアメリア軍によって一方的に取り上げられて広大な基地に変えられ、そしてベトナム戦争の出撃基地になっていたのが沖縄です。

 

外交官である千葉の任務は、核抜き、本土並み、米軍の基地自由使用を制限する返還をめざしての交渉でした。上司でもある駐米大使が「アメリカの機嫌を損ねるようなことをするな」と圧力をかけてくる中にあっても、自分たちは沖縄を「返してもらうのではない、取り戻すのだ」と繰り返しいう言葉通りの気迫をもって、アメリカとの厳しい交渉にあたっていく姿、必死になって正義を貫こうとする姿に感動を覚えます。

 

アメリカと日本政府上層部の分厚い壁に阻まれてイラつき、やり場のない怒りから、やけ酒に溺れる人間臭さも描かれています。でも、こうした骨のある外交官が許される時代だったのだろうかと素朴な疑問を抱いていたところ、やっぱりというか、19721月の人事で千葉にモスクワ大使館の事務職への辞令が下りることになります。

 

その左遷人事から数か月のち、沖縄は日本に「返って」きました。でも果たして日本は沖縄を「取り戻す」ことは出来たのだろうか。映画の最後の方でデータが表示されるのですが、当時、日本の中で米軍基地が占める割合は、本土と沖縄が半々くらいでした。ところが返還される頃から、戦闘機の配備など基地の機能は次々と本土から沖縄に移されて行き、今では在日米軍基地の7割超が沖縄に置かれる状況になっています。

 

沖縄返還条約に「密約はない」というのが現在までの政府公式見解ですが、それも果たしてどうなんでしょう。米軍による戦闘機の飛行ルールはないも同然、どれだけ事故が起きても、どれだけ凶悪な事件が繰り返されても日本の主権が及ばない、遺憾の意しか伝えられないことが多々ある状況を見ていると、「公然の秘密」と言われている「密約」以外に、沖縄県の当事者すら知らされていない、何かがあるのではと勘繰ってしまいます。

 

そういえば返還当時の佐藤栄作首相は、安倍首相の叔父にあたりますが、ノーベル平和賞を受賞しています。核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と沖縄返還という「功績」の裏にいったい何があったのか、当時のニクソン大統領とどんな「取り引き」をされたのか・・・

 

そして今、安倍晋三首相の下で辺野古の基地建設です。県民投票で基地建設に反対という明確な意思表示がされているにもかかわらず、更には海底に軟弱地盤があることが分かり、その地盤改良が必要で、技術的に未知の工事が求められる状況にもかかわらずです。

 

県民に寄り添うリップサービスはしても、それ以上のことをしない日本政府、アベ政治のやり方に、返還から50年近くたってもアメリカのご機嫌を伺い、沖縄を利用だけして「捨て石」にしようというのかと、あまりの不条理に、やり場のない怒りが込み上げてきます。

 

千葉元北米課長は2004年に79歳で亡くなっているということですが、今の沖縄を遠い空からどんな思いで見ているのだろう。「いつか・・・」まだ取り戻せていない沖縄の現実に、忸怩たる思いでいるのだろうかと、そんなことを思いながら劇場を後にしました。