前夜お星様が綺麗に見えていたので、今朝は冷え込むかなと思っていたが、植木鉢の一部は面倒だからとネグラの入り口に置いた。
今朝のトップニュースは、パリでの火災。
昔、学会で行った時は、2回とも工事中だか何かで中には入れなかった。
セーヌ川沿いには古本市や何やらがゴチャゴチャ並び、ただ散策するだけでも見ごたえのある一角だ。
今回の火事で気になるのは、先月の火災。
何か類似性があるかも、、、、、フシン火?普請火?、
さて、昔の記憶が蘇る;
ルネ・クレマン監督の映画「パリは燃えているか」
内容など、ボケているから覚えておらず、調べたら1966年10月末から11月らしい。
奇しくも、この年1966年、昭和41年、私が高校1年のとき。
その11月に「パリを守った」とされる独軍の将軍が71歳で亡くなっている。
名前は、コルティッツ、ドイツ東部のシレジア出身。この地方は石炭が採れることから、
スラブ、ゲルマン系、ドイツ、ポーランド、チェコなど各国の争奪の場となっていたと、昔の歴史の授業を思い出す。まーいわば、現在のアフリカ、スーダンの対立みたいなものだろう。
このコルティッツ、なぜかは知らないが、ヒトラーの眼鏡に適(かな)い、占領下パリの総督府トップとなる。 そしてD-デイからパリの陥落に至る過程で、補給路を絶たれたパリは風前の灯火(ともしび)。ヒトラーは退却と焼き払いの命令を出した。
苦悩のコルティッツは、レジスタンス側と交渉を重ね、紆余曲折を経てパリは開放された。
ヒトラーの執拗な電話の声、「パリは燃えているか、、、」が空しく響く。
とまあ、こんな歴史を映画化したものだったと思ふけど、中学の頃から映画監督に憧れていた私は、有名なルネクレマン、ただそれだけでウキウキと映画館に入った。
戦争の狂気は、空爆などによる都市の破壊である。
歴史とは、勝者によってのみ描かれる。
ヒトラーや○○などは、極悪人の象徴とされ、当時のメディアも、保身のため手のひらを返してホードーした。
歳月はもう半世紀以上経過している。
マスコミや時代の作った異様な流れで、世の中は動いていく。痛ましく、悲しいことが記録さfレ鄭いくが、私どもは残された膨大な資料の中から冷静に評価認識しなければいけない。
相も変わらず、どこそこの国が繰り返すおちょっかいがあるし、ご親切にそれを誘導するような人もいる。フランス人が4人いると、5つの政党ができるといわれるくらい、自己を主張する国民らしいが、対極の日本は、周囲を気にして、なんとなく同調する不思議な人種に映るらしい。
国内、国外に無数の報道組織あるも、公明正大な報道など皆無と思ったほうがいいだろう。
戦争を知らない世代で、団塊最後の世代の私にとって、昭和16年から20年にかけての時代は、謎に満ちている。私の父親は、その時代のことを一切口にすることなく他界し、お喋り好きの母親も、殆ど話すことはなかった。
多くの歴史記録から明らかなのは、第一次大戦で敗戦国となったドイツへの過酷な制裁と、その結果もたらされたナチスの台頭だ。
パリ講和会議で、対ドイツ憎悪に凝り固まったフランスは、天文学的な賠償金を課した。革命で国王夫妻をギロチンにかける国民、それがフランス。
相互の憎しみは、狂気を生み出す。
あっといふ間にパリを陥落させたナチスは、ドーバー超えにロンドン空爆を繰り返した。
そして、しぶる米国を欧州戦線に引き込んだ英国は、仕返しにとドレスデンなどを破壊した。
さらに某国が暗躍して、米国市民を煽動し、米国の対日参戦。そして日本各地への米軍機の空爆が繰り返された。
これらは、すべて、憎しみによる負の連鎖にほかならない。
特にフランス系の某将軍は悪魔そのものだった。
昭和20年3月10日の東京大空襲は、江東墨田の住宅密集地へ夜間東西南北に先ず焼夷弾を落とし、中心部の住民の退路を塞ぐといった作戦が採られた。この火災は、本郷3丁目付近にも波及し、当時住んでいた伯母の家は消失し、居候だった叔父も焼夷弾から逃げ惑ったといふ。
その叔父は88歳。
ヨガと太極拳で鍛えた身体も、すでに色あせて、銀行通帳やカードの紛失騒動などで
連日オロオロしている。
その叔父より20歳若い私は、将来の自分をみるような複雑な気持ちで、今朝、信州からバスに乗った。
今、これから本郷に向かっている。