小学校入学時 筆入れを持つ。鉛筆2本と消しゴムがあれば まず用は足せるはずだが、ここにも夢のある商品があった。 「象が踏んでも壊れない筆入れ」

主にサンスター製だったと思うが 蓋にマグネットが付いていて中は2段や3段に分かれる。鉛筆のみならずコンパスや分度器などしまいこめる。 hudeire 中には表裏とも開くことが出来るものもあった。買ってもらうと翌日の学校が楽しくなる。ひと時の優越感が味わえるものだった。


 時は流れ高学年になるとシャープペンシルが普及をはじめ 当初禁止されていたが解禁となる。それと同時に 大きな筆入れはコンパクトになり ビニール製でチャックの付いた袋に変った。誰もが日常生活では「筆入れは象に踏まれない」ことも自覚したようだ。 そして一般的に流行となった。 

hudeire2

 ところが・・・


 ちょうど筆入れを壊し、買ってもらおう喜んでいたら、祖母が僕の古着の生地を利用しチャックをつけて作ってしまったのだ。何ともみっともない筆入れだったが 渋々持っていくしかなかった。授業中は こっそり使っていたある日 図工の先生がその手作り筆入れに気づき これはすごい!ビニール製と違い 頑丈で世界に一個しかないぞ!と絶賛した。 それまで 恥ずかしく持っていた筆入れが脚光を浴びることになった。すると逆に はやりの筆入れを持っている奴まで 親に作るよう ねだることになってしまった。1人また1人増え クラスの過半数が親の手作り筆入れになってしまっていた。

 買ってくれは 「もったいない」 と返るが 作ってくれは 「よっしゃ!」であった。 母親にとっては ここぞとばかり 和裁、洋裁技術の発揮できる場面だった。子供より母親が真剣になるブームを作ってしまった。

 時期同じく その冬 男の子の間で「オジャミ」が流行した。ところが市販のお手玉だと軽すぎる、小豆の量など微妙な調整は これまた母親の得意ジャンルであった。筆入れの次はお手玉か・・・となげきつつも喜んで作ったことでしょう。

 当時 生地のこともわからないが おそらく森英恵柄や シャネル・ヴィトンなどブランド使用もあったのかもしれない。


 その筆入れもつい最近まで愛用していたが さすがにガタがひどく処分したが 5年5組に巻き起こしたブームは決して忘れない。


 「かあさんが夜なべをして 筆入れ 編んでくれた」 5年5組の連中は こう歌うべき!






思い出してみてください。初めて口にしたチョコレートは何でしょう?


僕の記憶の限りでは おそらくパラソルチョコレートだと思う。

パラソル


ネーミングも身近なアンブレラ(雨傘)にせず お上品なパラソル(日傘)を用いたのがよかったのだろう。

なんとなく おもちゃ感覚で 手に持たせておけばおとなしくなったことでしょう。先端がとんがっているが すぐに折れるので心配なし。しかしパッケージを剥くときにどんなに気をつけても、先が折れて残ってしまって悔しいものだった。 量も値段も手ごろで老若男女知らない者はいない。
いまも現存。昭和28年生まれの超ロングセラーである。


どちらかというと不二家のチョコレートは甘く 子供向けだ。しかし子供の時 嬉しかったこと 美味しかったものは忘れないものだ。バレンタインデイにもらう高価なチョコ。すごく美味しいのだろうが 僕にとってはルックチョコレートの方がありがたい。

look

これまた 昭和37年生まれのロングセラーで現存している1箱で4種類の味が楽しめる1粒チョコレートのLOOK。

おなじみだとは思うが バナナ、イチゴ、パイン、アーモンドクリームが中に入った4種3列計12個で構成されているが 誤って行食いをしてしまうと4種のハーモニーが崩れ、たいへんなことになる。

 このルックチョコレート現在はフルーツアラモードと呼ばれバナナ、メロン、パイン、イチゴで構成されている。 そして現在では「パフェアラモード」「ベリーアラモード」そして先月発売の「グレープアラモード」とラインナップも豊富である。

 私は自称LOOK評論家である・・・

寸評 

●ルック(パフェア・ラ・モード)

pfe


苺のパフェ、チョコレートパフェ、バナナパフェ、マロンパフェの4種の味をルックチョコレートに仕立ててある。「マロンパフェ味」が美味。ゆっくり口の中で溶かして味わって下さい。お勧め!!


●ルック(ベリーア・ラ・モード ミルクin)
ベリー

ストロベリークリーム、ブルーベリークリーム、ラズベリークリーム、カシスクリームにそれぞれミルクをトッピング。ネーミング 「ミルクイン」が何ともユニーク 味も「こんなもんなんですよ」



●ルック(グレープ・ア・ラモード)

gure-pu

5月発売のグレープ味 カベルネ、シャルドネ、巨峰、マスカットに、それぞれヨーグルトソースをトピングしました。4種のグレープがヨーグルトとともに味わえる、よくばりなチョコレートなのだが 酸味が強く美味しくない。方言で言えば「なーんりくつんないわ!」


まあ お試しあれ!


昔「不二家」は今のプレーゴのあたりにあった。前は洋菓子屋で後ろに喫茶部があった。親や祖父に連れられホットケーキをよく食べた。クリスマスケーキもよく買った。ニッセイパルの1Fだったのかな?

(このビルもよく遊びに来た。4FはC&Cというレコード屋さん。土曜になるとMROラジオが ここのサテライトスタジオから中継していた。すごく未来的な空間だった。) 


 またチョコレートといえば 大和デパートの地階の 量り売りベルトコンベアも うれしかった。今でもあるのかな・・・

 地下でお菓子を買って、屋上のモノレールに乗る。そしてレストラン大和で 「お子様ランチ」を食べる。

 帰りは いとはんで パンツを買って ほてい屋の地下で食品を買って お家に帰ろう

 

この昭和の光景がわかる人は皆おっさんです。


 不二家はなぜか私の印象に残るお店であった。

ちなみに うちのペット 3羽のオカメインコの名 ペコ、ポコ、ポゲ





 1979 ジョントラボルタ主演映画「サタディナイトフィーバー」が上陸した。


 このヒットで ダンスクラブ、ホールは 「DISCO」と呼ばれ それまで どちらかというと不良のたまり場だったディスコは 洗練化され 全国的 一大ブームを巻き起こす。繁華街には ディスコが次々にオープン また「フィーバー」も流行語となり ディスコはファションや音楽の流行の発信地となった。

ミラーボール

 今までの洋楽は大衆的にロックのみが受け入れられていたが ディスコの存在で よりファンキーなブラック&ソウル またチークタイム用の AORなど多彩なジャンルが身近になっていった。

 シック

ちょうど私は大学生で大阪に住み 親友は東京で離れ離れになったものの この大都市間の交通網は帰省先の金沢より 安価で簡単に行き来できた。したがってディスコ好きの2人の交友はより深まっていった。 帰省する夏休みと正月は金沢場所、 主に秋は東京場所、 春は大阪場所 2人のディスコフリークは黄金時代を迎えた。


☆ディスコの利点


ほとんどは 前料金であり、割引券を手に入れればさらに安価。(当時1000~2000円)

フリードリンク、フリーフーズで味を気にしなければ 満腹になれる。

ストレス発散の場 (現在流行っているリズミック ボクシングのようだ。

軟派もフリーだ。 前料金のため 無駄な出費がない上、好みも選べる。

当然流行の先端 ファッションや曲をいち早く入手 シティボーイになれる。流行語「ナウイ」が生まれる。


軟派テクの向上=セールストークがうまくなる。決してその行為を肯定するわけではないが もちろん見ず知らずの人へのアタックだから新規開拓。ヒット率2割程度だったがめげずにアタックしたものだ。その行為こそが商売の基本で前向きなセールスだと 信じて疑わない。



☆なつかしのディスコ


東京編

やはり東京はメッカ 六本木スクエアビルはテナント大半がディスコだった。 軟派ヒット率を上げるため すぐには入らずエレベータで女の子の団体が降りる階を見計らった上で ディスコへ入る。 「フーフー」「ネペンタ」nepennta

歌舞伎町は 「B&B」「ニューヨークニューヨーク」「カンタベリーハウス」へ  

新宿「ラジオシティ」はスーツ着用で 入場を断られた。

渋谷「スターウッズ」



大阪編

梅田 

「ボトムライン」 ライブ演奏も可能な広いスペース。

「フォーカルポイント」

心斎橋

「ジュビレーション」 郷ひろみが経営するディスコ 早くからレーザー光線を取り入れ光のショータイムがあった。


金沢編

地方都市ながらミーハーの多い金沢は 人口比率からすると多く存在したように思う。

「バナナビーチ」 アルバイトの帰りはまずここに寄った。ここではなぜかバイオレットフィズを飲む。帰省する夏休みや正月期間だけだったが 期間常連だったような気がする。

「マンハッタン21」 バナナビーチより若干年齢層が高い。フロアも広く 僕のお気に入り。

その他「メンフィス」「クリスタル ナイト」「ZOO」

あとは名前を忘れたが オーロラビルにもあったし大和外科地下にもあったように思う。


☆サーファー&ディスコ

主に東京のディスコ文化はサーファーによって作られた。彼らがステップを生み出し そろえて踊る。曲が変れば踊りも変る。

我ら黄金タッグはいち早くそのステップを覚え シティサーファー気取りになり ディスコへ繰り出す。いち早くステップをおぼえると軟派も容易になる。携帯やインターネット通信のない当時 その親友は手紙(便箋)に ステップの順を絵で示し教えてくれたものだ。


☆ディスコステップのいろいろ


ロックフリークダンス1978~1979

SEPTEMBER/EW&F, GOT TO BE REAL/CHERYL LYNN, LE FREAK/CHIC


ウォークダンス 1979~1980

STOMP/BROTHERS JOHNSON, SHAKE/GAP BAND, GET UP/VERNON BURCH, CHASE ME/CON FUNK SHUN ストンプ


ドラフトモンキーダンス 1980~1981

PARTY NOW/RAY PERKER Jr&RAYDIO, UP SIDE DOWN/DIANA ROSS


サーフモンキーダンス1981

LETS GROOVE/EW&F, SUPER FREAK/RICK JAMES, STILL IN THE GROOVE/RAY PERKER Jr&RAYDIO,  DO YOU LOVE ME/PATTI AUSTIN, おしゃべり魔女/TOMTOM CLUB


ジゴロダンス 1981~1982

SHINE ON/GEORGE DUKE, KICKIN BACK/LTD,MAMA USED TO SAY/JUNIOR, ONE FOR ME/D-TRAIN, TRY JAH LOVE/THIRD WORLD


カウボーイダンス ウェイブダンス

CELEBRATION/KOOL&THE GANG, LONG TRAIN RUNNIN/DOOBIE BROS73'


☆サーファーファッションは ディックブリュワー AIPA  ボートハウスのトレーナ Gパンは サスーン、ハーフ など(ディナージーンズと呼んでいた) が流行した。本来はビーチサンダルだがさすがにディスコでは禁止。 コンバースをはだしで履く・・・


私の学生時代の話。若かったあの頃何も怖くなかった青春の一頁を ディスコは描いてくれた。このブログを書いているだけで 体が上下に揺れるのはなぜだろう・・・・

6月3日 全国で封切されました映画「佐賀のがばいばあちゃん」(金沢はまだ)です。

洋七

「ひょうきんぞく」 「笑ってる場合ですよ」で一世風靡した漫才師 B&Bの 太い方 島田洋七の自伝である。  原爆で父を失い 祖母に預けられ 一生懸命生きる。ばあちゃんと2人で 貧しくも 笑顔の生活。 

 今の時代忘れかけていた事。「愛」と「明るさ」があれば幸福になれる。当ブログが望む 古き良き時代 昭和!を描いた作品です。


2年前 NGK(なんばグランド花月)を観にいった時 玄関でこの本の宣伝訴求で サイン会をしていた。内容はさておき まあいいか サインしてくれるならっと、記念に買った。当初 漫才師の著書だから よっぽど暇な時に読もうと放置してあった。 ある日息子がその本を読んだら 号泣! あわてて 私も読書した。涙!涙!・・・ 

本の帯に映画化決定と小さく書いてあった。この日が待ち遠しかった。


おそらく 文部科学省推奨映画になるはずです。 特に教職の方は是非視聴し 昭和の先生を見習ってください。

 また 皆様は家族で観にいくことをお奨めします。


まずは視聴あれ!

 




  


プロレスなくして昭和を語ることなかれ!


プロボクシングはスポーツなのに、レスリングもスポーツなのに、なぜプロレスはスポーツでないのか?

ジャイアント馬場さんが 世界最高権威のタイトルNWAをジャック・ブリスコから奪取したのに なぜスポーツニュースに報道されないのだろう?巨人が優勝するより凄いことなのに・・・子供の時不思議かつ遺憾にさえおもえた。


 プロレスはショーだ!八百長だからくだらない!真向から否定する両親。対照的に必死にTV観戦する祖父母。これまた不思議だった。

でも プロレスを理解できるようになったとき知れば知るほど その謎が解けた。


この先はプロレスを否定する方は読まないでください。


 戦争で日本が負けた。大日本帝国が敗戦。戦前の人たちの悔しさは底知れないものだったろう。アメリカの言いなりで復興は遂げたものの そのコンプレックスは残っていた(祖父母世代)。当時子供でどうでもいいことだった(両親世代)。 そのアメリカ人に 武器を持たずに正々堂々と裸で戦う。最初は不利でも 大和魂で 逆転しつつ勝利する!なんと素晴らしいドラマではないか。筋書きのあるドラマこそプロレスだ。これは戦争なくして存在しない興行だ。

  やすりで歯を磨き 噛み付く、栓抜きを隠し持ちたたく。 公正に判断する審判もこれまた役者。見逃さねばならない。


反則 スポーツで反則は やってはいけないことを意味するが 5秒以内なら立派な技である。

この矛盾こそプロレスルールでありファジーな人間味のあるところだ。


 不思議と日常頻繁にみられる交通違反: 信号無視するが事故も起こさず警察も見ていなければ 違反にならない。まさにプロレスのレフェリー見逃しの術。


 また長いものを車に積もうとしたら少しはみでた。

これまた よっぽどのことがなければ見て見ぬふりをしてくれる。これを俗に (ブッチャー)凶器シューズ違反と呼ぶ。いずれもセーフ。


 それではプロレスに全くルールがないのか?

とんでもない ロープに振られたら 自分の意志に関係なくリバウンドし自分がどんなに不利になろうとも戻っていかねばならない。そこに足の裏があれば 激突しなければならない。16文の定理。


技をかけられたら いたくなくても痛い顔をする。また自発的にその技にかからなければならない。


大胆にみえる技にかけられたら ダメージがなくとも倒れなければならない。


相手に怪我をさせる技はかけてはいけない。


ファイトマネーを貰って戦う以上,それなりの演技が必要で 一方的強いは駄目、やられてやられ返して持ち時間を戦う。TV放映試合は 8時50分に勝負を決める。

凶器を持っても致命的な箇所での攻撃はしない。かつてサーベルを持ったレスラーがいたが殴るときは先ではなく柄だった。これぞまさにプロレスラー 


北米から来日しても インド人に似ていれば インドの虎と言われ。試合の前には インド国歌がなる。

日本人でも モンゴル風に見えれば戦うモンゴリアン。

ロシア系なら 名前にスキーがつく、ドイツ系なら カール、南米系なら ロベルト と名乗る。

日本人が味方で 外人が敵だから 彼らは観客に嫌われること 憎まれることに徹していた。

本当に強いのは誰?なんてどうでもよいことだった。誰が人気、集客力があるかで 王者が決まる。そして最後は日本人が勝つ。これぞ 昭和のプロレスである。


 そのプロレスが盛んだった 昭和っ子のけんかは プロレス技が多くみられた。まともにかけられたら痛いから かけても加減をする。 

 今のような残虐な事件が少なかったのもプロレスのおかげだと思う。


 少年時の喧嘩で相手が鼻血を出した。 

先生に怒られた 「ブレンバスターをかけるときは砂場でしなさい!」  


これが昭和だ!  





小学校の遠足のお供。

僕は、お弁当を作ってもらうより おにぎりを作ってもらって缶詰をもたしてくれる方がうれしかった。

通常の夕食にはでてこない 「主婦のチョンボ」でしかないと思われていたのか、防腐剤入りを敬遠したのか、 めったに口にできるものでなかった。もし食卓にでたとしても みんなで分け合って食べる。少ししか食べれないからなおさら旨かった。

 しかし 遠足は 全部一人で遠慮なく食べることができた。

 

 缶詰は 開封に 缶切というツールを使った。当ブログをごらんの皆様は当たり前でしょうが 現代っ子は知らないのかも・・・今売られている缶詰は缶コーヒーのように底蓋がパッカンとあく。しかしコンビーフはなぜか当時同様 ぜんまいを巻く鍵?(もしかしてこれも昭和かな)で側面切り込みだ。

コンビーフ

そういえば 缶ジュースにしてもくちばしのような缶きりが付属していて 物理的に穴を2個あけないと 飲めなかった。 確か「なると」とかいう缶ジュースがそれだった。スーパーで3本100円だったかな・・・


遠足には缶詰はバナナ同様おやつ代金に加算されない。水筒も持っていくが缶ジュースも持参する。

おかずの缶詰はできれば2つほしいものだった。1つは自分ですべて食べるが もう1つはトレード用である。


当時人気の缶詰の第1位

江戸っ子

江戸っ子煮: 現存する超ロングセラー 江戸っ子煮ってなんなんだろう?すき焼きをイメージして作られたのか? たけのこ、昆布巻、豆、しらたき、肉を甘辛く煮込まれている。 大きい缶と 小さい缶がうられているが 小さい缶がバランスよく入っていて美味しい。


第2位

ほてい ほていの焼き鳥 :発売直後から人気があった。気温が低いとタレが固まっているがそれがまた旨かった。 今では塩味、辛口まで 発売している ロングセラーだ。


第3位

焼肉

肉は マトンだ。僕はあまり好みでなかったが根強いファンがいた。


そしてじいちゃんが好きだったのは さんまの蒲焼缶。圧力釜で煮込まれているので骨も柔らかく砕ける。

さんま パッケージは今と若干違うが これまたロングセラーだ。


また おかず以外でも フルーツポンチやみかん、パイナップル、ももなど お中元などで貰うとうれしかった。特にパイナップルは 本物よりも缶詰が好きだ。みかんにしてもきれいに剥いてある。どうやってきれいに剥くのかいまだに不思議に思う。


僕にとって缶詰は なんとなく夢の詰まった食べ物だった。

森永のおもちゃの缶詰は手に入らなかったが これも子供の夢が詰まっていたのだろう。


どちらかというと今では非常食。防災グッズコーナーに水道水の缶詰までおかれている。

あってはならないが 大災害がおこれば 缶詰たちに助けてもらうのだろう。


缶詰=遠足=昭和  当ブログ=昭和の缶詰 ってのもいいじゃん!


  昭和生まれの国民的食べ物 インスタントラーメン。

 われわれの世代にとって 即席麺は 夜食のお供に、間食に また ちょっとしたトッピング(ねぎ、煮たまご、焼き豚)をくわえれば 夕食のおかずに 切っても切れない付き合いである。一時は 栄養がない、またチクロショックで体に悪い などといわれながらも かならず 食卓に潜んでいたものだ。

よく食べたインスタントラーメンは?


「ワンタンメン」「サッポロ一番」「チャンポンメン」「出前一丁」「チャルメラ」「チキンラーメン」「日清やきそば」・・・・どれをとってもお馴染みのものです。


ちなみに40歳以上10人に聴きました。回答は

1位 ワンタンメン エースコック

2位 出前一丁  日清食品

3位 チャンポンメン イトメン


 インスタントラーメンはジャイアンツに長嶋茂雄氏が入団する昭和33年 

日清食品が「チキンラーメン」を発売し、この革新的な商品は発売後すぐに、大ブレークする。私の調べでは これが初の即席麺である。

チキン

 その後 大ヒット商品 「日清やきそば」 エースコック「ワンタンめん」がリリースされる。

♪「ぼっくは 卵、お姉ちゃんは野菜、パパお肉だよ。わーしゃーなんにもいれないよ・・・・エースコックのワンタンメン」 当時 財津一郎が司会をする「そっくりショー」のスポンサーだったエースコックのCM。

ワンタン

 またサンヨー食品は「サッポロ一番」を、明星が「チャルメラ」をイトメンが「ちゃんぽんめん」を発売し インスタントラーメン黄金時代を築き上げる。

ちゃんぽん

 その後1971年に 日清のドル箱「カップヌードル」が発売されると 即席麺はカップタイプが6割を占め、世界的ブームをおこす。 また袋麺は 乾燥技術の進歩で グルメ嗜好の変化にも対応し 高級即席麺まで登場し 現在に至る。

 カップ麺は 調理法も容易で 地上ならず宇宙へも 持っていくようになった。そもそも乾燥技術をようした宇宙食は 日本の即席麺技術を参考にされたようだ。


 今までの袋麺もカップに移行したものもあるが ほとんどの商品はロングセラーとし現存するが最近見なくなってしまった商品もある。


◎エースコックの「駅前ラーメン」  

汽車ぽっぽのパッケージが好きでよく食べた。醤油味で麺の量も若干 多かった。


駅前
◎明星ラーメン「ちび六」

 ハーフサイズの麺が立てに6個入っていた。せんだみつおのCMで「僕はちび一、お兄ちゃんはちび二、パパはちび三・・・」 量が選べる 経済的なものだった。学生時代 一度に6つ食べる奴がいた。それなら普通のチャルメラを買えばよいのにと思ったことがある。


この2つのラーメンは 味もよく 私のお気に入りだったが 最近 見なくなった。まことに遺憾である。


 学生時代 唯一自分でできる料理もインスタントラーメン。同年代の自炊経験者は インスタントラーメンをいかに美味しく味わうかさまざまな工夫をしたようだ。

1、ワンタンメン 野菜を塩胡椒のみでいため 出来上がりにのせる。

2、出前一丁は 最後に入れるゴマラー油がなぜか ほうれん草となじみうまくなる。

3、醤油系ラーメンには 煮卵を半分のみ 味付け海苔を一枚入れ ねぎは九条ねぎを使う。プレスハムを半分いれるとさらに良。(高級焼き豚はあえて使わない方がよい)

4、味噌系ラーメンには バターのトッピングが好ましい。

5、日清やきそばは へたにトッピングしない。そのまま付属の青のりのみかけて食べる方が旨いそうだが

トッピングするときは麺がゆであがったら 一旦水切りをし フライパンでいためなおす。


まあ人生いろいろ おのおのが 旨いと思えばどんな食べ方でもよいでしょう。


グルメ嗜好で 旨いラーメン屋さんが 繁盛する中、インスタントラーメン屋さんもあってもいいのでは と思うのは私だけでしょうか?もしかするとビジネスチャンスかも・・・








ある夏の日の思い出!

夏休みになると僕たち兄弟(兄と僕)は金沢市で床屋を営む祖父母にあずけられた。前ブログの金沢ヘルッセンターも同様 祖父との思い出の場所だが 夏休みは当然海へも連れてってくれた。


粟ヶ崎海岸駅 現在の内灘海岸より1kほど西に位置していた。現在も走る北陸鉄道 浅野川線(金沢駅⇔内灘)は 昭和40年前半まで 夏場のみの運行だが 現終点の内灘から1Kほど砂丘を越え海岸線ぎりぎりまで路線が延長されていた。粟ヶ崎海岸駅

終点駅の線路は まくら木が砂に埋もれ 2本のレールだけがみえていた。


祖母の作ってくれたお弁当、水筒、そして バケツ、しゃべる、浮き輪、を持ち 祖父に連れられ この電車に揺られ海水浴場に来る。海水浴場は 盛んだった。たくさんの浜茶屋が並び この電車が運んでくる海水浴客であふれていた。

 病弱な祖父だったが 炎天下 まだ泳げない幼い兄弟のために 波うち際に穴をほりトーチカを作って遊んでくれた。僕を抱っこし、浮き輪に必死につながる兄を 沖へ連れて行ってくれた。孫でもいい男の子が欲しかった祖父は僕たちをたいへん可愛がってくれた。 その後若くして祖父は他界するが それまでの短い期間にたくさんの思い出を残してくれた。アルペンルートがなかった頃に「立山室堂」へ行った。見えなかったけど「蜃気楼の魚津」へ、 山上遊園地のあった「山中町の水無山」 ここも今はないが大聖寺から銀色の電車が出ていた。 車もない当時 電車バスを乗り継ぎ よくぞ連れて行ってくれたものだ。


 この粟ヶ崎海岸もその想い出の場であったが 昭和45年に金沢港の工事がはじまると同時に粟ヶ崎海水浴場は閉鎖されこの駅も廃止された。その後の海水浴シーズンは現内灘駅⇔内灘海岸間をバスがピストン輸送していた。 粟ヶ崎海岸路線あとは住宅地となり現在では跡形もない。


 また数年前だが 北国新聞に「北陸の宝塚」 粟ヶ崎遊園 の記事が掲載されていた。大正時代に大劇場、大広間、大浴場、レストラン、動物園、野球場までもがそろった総合リゾート施設がこの地にあったそうだ。そのために鉄道を敷設 それが粟ヶ崎海岸線として残っていたらしい。

 さすがに戦前の話で全く知らないが 興味のある方はどうぞお調べください。 

   


 


昔 金沢市内を走っていた循環バスです。

これは 僕の昭和史にぜひとも残したい一幕です。

「時は戦国」ではない。 

太平洋戦争で戦火を逃れた金沢市は 昔ながらの町並が残り 伝統ある文化、風情が残る城下町である・・・

それゆえに道がせまく 市内は迷路のように入り組んだ道が多く残っている。


しかしその迷路のような町並みを華麗なるテクニックを披露し、軒先ぎりぎりをかいくぐって走る 住民の足「循環 常盤橋」が 存在した。下記ルートを走るが逆回りも存在し 「循環 桜橋」と呼んでいた。


現在 金沢市のフラットバス「菊川ルート」と「材木ルート」の路線に似ているが これは 小型のバスで一方通行で運転されている。同じルートを軽四で走ってみても 決して広いといえない道であり、極めつけの難所は鋭角に曲がる材木町の三差路があった。ほとんどのバスは 車掌さんが笛を吹きバックして切り替えしていたが 中に一回で回りきるつわもの運転手もいらっしゃった。まだ高度成長期で交通量も少ないとは言え バス同士の行き違いもかすかなスペースを利用して巧みにこなしていた。また融雪装置もない当時 雪の降る冬場はどうなっていたのかは 記憶にない。僕らにとってこの路線は必要性も薄かったが 乗車することが楽しいバスだった。運転手さんの横の席に座れたら ばんばんざい!!スーパーシートである。迫りくる軒先 ウワーと頭を下げたくなるが 冷静かつ大胆に 華麗なる運転さばきで回避するベテラン運転手。まさに技ありだ! 遊園地の絶叫マシーンにも勝るとも劣らないスリルを憶えたものだった。

僕の覚えているルート(昭和45年頃)

金沢駅→此花町→瓢箪町→彦三→武蔵→橋場町→天神橋→常盤橋→材木町→味噌蔵→兼六園下→本多町→新竪町→桜橋→犀川大橋→長町→富本町→長土塀→三社→六枚町→金沢駅


しかしながら ものいいが付いた!そんな道はなかった!

昭和10年生まれの大先輩方は 

かく語りき!

金沢駅→此花町→瓢箪町→彦三→小橋渡って→浅の川大橋→大橋渡って左折→天神橋→常盤橋を右折→横山町→備中町、左折→材木町→賢坂辻→右折→小将町車庫前→石浦神社→本多町→新竪町→桜橋→右折で犀川大橋→橋渡り→広小路→右折→白菊町→新橋→この先は昭和通を通って、六枚町→金沢駅  (推定 昭和25年頃)市電が健在だった頃。まさしく昭和。


その大先輩たちも利用していた このバスも 交通量の増加 及び バスのワンマン化で 廃止された。

ほんのごく一部の地方の話だが なぜか僕の記憶にしっかり焼きついている光景だ!



僕の故郷 石川県金沢市にも 昔 総合娯楽施設があった。 

「金沢へルスセンター」 

金ヘル

 金沢市を一望できる卯辰山の山頂にあり 崖面に沿った立体的な構造で 遊園地、動物園、宿泊施設、劇場、展望浴場(温泉だったかは さだかでない)プールまた隣接する水族館もあった。山頂にある水族館として全国でも類みないものであり、へルスセンターとの専用通路もあったが ロープウェイでも結ばれていた。遊園地としては極めて立地が悪いがメリーゴーランド、コーヒーカップ、観覧車、お化け屋敷など最小限の設備があり、 金沢唯一の動物園もあった。雪の降る北陸にありながら 老若男女楽しめる総合娯楽施設として繁栄していた。

 またこの卯辰山は ヘルスセンターに入場せずにしても 相撲場や 少年の家、公園など 少し古くは スキー場も存在したリゾートエリアであった。

 僕の少年時代は 前ブログのように地方を転々としていたが 夏、冬休みは帰省し、 祖父母に連られ ここにくることが楽しみだった。また毎朝ラジオ体操をまじめに出席すると ご褒美として子供会(町会)から連れて行ってもらえた。


 それでは当時のヘルスセンターを検証してみよう。


なぜか 卯辰山行きのバスは 登坂力を必要としたのか ボンネットバスが引退する間近まで走っていた。

 

映画館では「風のフジマル」が印象に残っている。


劇場では 「ハワイアンショー」をやっていたが どう見ても外人さんには見えず かつらをかぶった近所のお姉さんに見えたのは僕だけでしょうか?


ゲームセンター ここにはオリジナルの魚雷潜ゲームの大型ジオラマがあった。動く模型の戦艦を 潜望鏡を覗きながら手元スイッチで打つと電光が走り 命中すると爆音と電光石火!  すべて命中したって何が当たるわけでもないのに・・・がんばった。


遊園地には 「ビックリハウス?」なるものがあった。大きな対面式の20人ほど乗れるブランコがありそれを囲む部屋がある。ブランコが左右に揺れるだけのものだが同時にその部屋が回転するので天地が逆になり目が回る。これまた ここでしか味わえない乗り物だった。


水族館では ラッコやイルカショーやアシカショーもやっていた。


動物園では キリン、ゾウ、ライオン、カバ、ニシキヘビ、・・・ パンダやコアラは居ないが立派な動物園だった。彼らは 冬はどうしていたのだろう。


雪というハンディを背負いながらも がんばってきた県内唯一の娯楽施設であった「金沢へルスセンター」も

時代の流れには逆らえずレジャー嗜好の変化にともない閉鎖した。水族館は能登島へ、動物たちは辰口のいしかわ動物園に引越した。またここに昭和が消えていく!


「ヘルスセンター」 この言葉も 最近では使わない。昭和に残したものなのか・・・・・

僕は「健康ランド」より好きだ・・・・・。