独眼竜 伊達政宗の四男を家祖とする名門、 岩出山伊達家に拓かれた町。 | dai4bunkuのブログ

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独眼竜 伊達政宗の四男を家祖とする名門、

岩出山伊達家に拓かれた町。 当別町

 

 1868年に起こった戌辰戦争。維新政府軍と旧幕府側が戦った内戦で、政府軍は関西から関東、東北、北海道までの幕府勢力を討滅し、新しい国家誕生への道が開かれました。

 

 この後、処分を受けた藩の中に伊達家一族が統治する仙台藩もあり、大きな滅封を命じられたことから、北海道開拓に活路を見出そうとしたのが伊達家と北海道を結ぶ始まりです。

 

 当別町へ入植した岩出山伊達家の邦直公は、伊達政宗直系の子孫であり、四男・宗泰につながる十代目当主。

 

 北海道伊達市を開拓し、その功により男爵となった亘理伊達家の邦成の実兄に当たります。

 

 邦直公は736人の家臣団を養っていくためにと新天地をめざし、厳しい自然環境と戦いながら開拓を進め、当別町の礎を築いていきました。

 

 道内には士族が開拓した町村がいくつかありますが、当主が自ら移住してきたところは珍しく、没後に当別神社に神様として奉られたこともまた稀有なことだと言われています。

 

 また、岩出山伊達家一族では、学問を大切にするという精神が受け継がれ、優秀な者は仙台や江戸に学びに出ていたと言われており、邦直公もまた文武両道に優れた人物でした。

 

 家臣たちもその精神を継いでおり、開拓地当別にも早々に教育所が開かれ、多くの学生たちが、医学や農学などの高等教育を受けるために札幌や東京へと進学していきました。

 

 こうして当主自らが街を拓き、教育にも熱心に取り組んだという功績は内外で注目され、明治天皇が御巡視に訪れたほどでした。

 

 その後、邦直公には正五位が贈られ、1940年には北海道開拓神社に合祀されました。当別町の小学校には「郷土読本」があり、小学校3~4年生で町の開拓の歴史を習い、邦直公と家臣団の物語、そして精神は今も脈々と伝えられています。

 

当別町に現存する縁の場所

【 当別神社 】

   祭神:伊達邦直命

     

 

【伊達家別邸】

 

           

 

 伊達家縁の品々の展示、開拓当時の歴史資料が収集されている。別館は、殿様が開拓する町を視察するために訪れた公卿をはじめとする多くの賓客をもてなす場として建てられた。

               ☆ ☆

 爺さん:映画「大地の侍」は、この伊達岩出山藩の伊達邦直公以下の入植の歴史ストーリーを取り上げたものである。(1956年公開)

 

伊達邦直公の足跡 奈井江町

 

 仙台蕃岩出山支藩主 伊達邦直公は、明治維新戊辰の役(1868年)で朝敵として敗れ、新天地を求めるため蝦夷地開発を決心し、明治3年5月9日空知の土地踏查のため石狩川を舟でのぼり、現在の道々奈井江浦臼線の吾妻橋の南200m地点に上陸し、この地に境界標を立てました。


 5日間の調査の結果、土地柄としては肥沃の地ではあるが、石狩川河口より遠く水路を運輸するには困難であると判断し、この地の開拓をあきらめ当別に入植しました。
 

 この石碑は、奈井江川築堤工事にともない昭和49年5月に町開基85同年、開町30高年記念事業として現在地に建てられたものです。

 

 

      

 

説明パネルより引用

平成2年9月 開基100年記念事業の一環として、奈井江町・奈井江町教育委員会によって建てられた地碑です。

           ☆ ☆ ☆ ☆

 

爺さん:岩内郡共和町も加賀前田藩の武士集団の入植地である。5月5日のブログを再掲載します。

 

2024-05-05 08:11:34

 

北の開拓者たち


 能登半島地震で、大災害をもたらした記憶は、新しいものがあり、いまだに避難所生活の方もいるとのこと。

 加賀藩からは、北海道の開拓期に多くの士族等が入植しました。豊平区にも「加賀開墾」入植の記録があり、豊平神社140年史等にも記録されています。

 

 これらの縁もあり。豊平地区町内会連合会と所属単位町内会で50万円の災害義援金を贈ったところでもあります。

 

この、加賀藩からの入植の歴史の一部を紹介しよう。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 

 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中(現在の石川県・富山県)の3国の大半を領地とした藩。藩祖・前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。

概要

 加賀国石川郡にある金沢城(金沢市)に居城。明治2年(1869年)の版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。

 藩主の前田家は外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩として松平姓と葵紋が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍の偏諱を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領した。

 極官も従三位参議と他の大名とは別格で公卿となったのは徳川一門以外では前田のみ、また伺候席も徳川御三家や越前松平家などの御家門が詰める大廊下である(他の外様の国持大名は大広間)など御三家に準ずる待遇であった他、一国一城令が布告された後に小松城の再築が許されて「一国二城」となる、将軍家にとっては陪臣である加賀八家(後述)にも武家官位が与えられるなど、他の外様大名とは別格の扱いであった。

 

藩史

前史(桃山以前)

 織田信長によって能登1国を与えられていた前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子・利長に越中のうち射水・砺波・婦負三郡32万石を与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された。文禄4年(1595年)には越中の残る新川郡をも加増、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る。

 慶長4年(1599年)利家の死後、利長に前田家の家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。 前田家は加賀北部と越中を領する利長と、能登に21万石を領するその弟・利政に分割されたが、総石高は合計83万石に達し、利長は五大老に準ずる役割を果たす(正式に利家の後任で大老になったとの異説もあり。

 

 利長と関ヶ原

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ(異説あり)、戦後に利政は所領を没収された。かわりに利長が利政の旧領と加賀南部の西軍大名の旧領(丹羽長重の小松12万石と山口宗永の大聖寺6万3,000石)を授けられ、加能越3か国に及ぶ所領(加賀に能美郡白山麓の幕府直轄領あり)を獲得した。利長は領内の再検地を行ない実高の高直しを実施した。

 寛永8年(1631年)、将軍・徳川家光は2代・利常(利長の弟)の行動を疑い「前田征伐」を計画するが、横山康玄に陳述させ、利常も自ら長子・光高と共に江戸に出て供従の意思を示すことで収めた(寛永の危機)。寛永11年(1634年)8月には、家光から利常に発給された領知朱印状により、加賀・越中・能登の三国内での表高119万2760石が確定する。

加賀百万石の確定

 寛永16年(1639年)に利常が隠居するとき、次男・利次、三男・利治を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。支藩(別家)として他に前田利孝(利長の弟・利常の兄)を祖とする上野七日市藩1万石がある。

 宝暦9年(1759年)には火事で金沢城の本丸を始め1万5千軒余りが炎上、幕府より5万両を借用して復興にあたる。

 寛政4年(1792年)藩校・明倫堂、経武館が完成する。

 利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫・綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は綱紀の時代に造営された。

 

 幕末の大政奉還時は将軍・徳川慶喜を支持したが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。

 

 明治4年(1871年)廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。

 明治17年(1884年)の華族令により旧藩主前田家は侯爵家となった。

  なお利常以降、松平の称号(名字)を与えられ名乗った。諸大名の中で、当主は「加州殿」ではなく加州侯と、公卿の格式を表す侯を付した。

 

北海道開拓と加賀藩からの入植

 

 明治政府は藩籍奉還後に廃藩置県を行い、武士たちは家禄を失うこととなりました。武士という身分も士族となり、徴兵制の施行により常職を失うことになったのです。

 士族には家禄に応じて金禄公債証書が渡されたものの、すぐには換金できず多くは生活の基盤を失い没落する士族が多発しました。


 士族の生活基盤を安定させることが社会不安を防ぐために必要であったので、明治政府は士族授産事業として北海道屯田兵制度で士族募集を行ったのです。
 

 屯田兵制度は北海道開拓となっていますが、実際は当時のロシアが江戸末期より日本をたびたび脅かしていたことで国防を兼ねるための処置でもありました。

 

 そのため当初は海岸寄りに屯田兵村を配置しましたが、徐々に内陸部にも作られるようになりました。石川県は全国でも最多の492人が入植したと記録に残っています。
  

  金沢では明治12年に士族による士族授産事業を企て、旧金沢藩主前田家からその事業資金を拠出してもらうべき事業計画を立案し提案したのです。
  

 明治16年には起業社が前田本家から供与される10万円に士族などから株式募集する15万円を合わせて資金として、北海道後志国岩内郡犂野舞納村(りゃむないむら)に移住開墾すると共に、択捉島などにサケ、マスの漁場を開拓する計画でした。
 

 犂野舞納村とは現在の岩内郡共和町前田です。

 明治16年犂野舞納に開墾地を決め、宿舎を建設し、翌17年から士族が入植しました。
 

 士族が北海道へ開拓移住し、刀剣類を鍬に持ち替えて開墾する姿は農士そのものであった。

 

前田神社由来 

 明治19年、新開地には住民の土着が第一の条件ということで、大谷地から木材を搬出、小校舎を建て移民の子弟に教育を授けると共に、移住者の土着心を喚起する目的で神社を建立したことに始まる。

 明治20年5月、西田三郎外3名が出願し、6月11日に創立許可を得たため、金沢市尾山神社の御分霊(前田利家卿)を受けて祀った。

 明治24年村社に列格した。同34年字起業社に3000坪の払下を出願し翌35年許可された。

 明治36年9月前田利為侯が前田村を訪れたが、その後、明治40年4月5日暴風のため社殿が破壊し、前田侯より200円の寄附を得て10月10日社殿が再建竣工した。大正9年9月神饌幣帛料供進神社に指定され、同年10月天照大神を増祀した。昭和57年3月開基百年祭を斎行した。

                前田神社

        祭神 前田利家命・天照大神

       

 

奈井江町白山地区

 

我らの郷土白山(白山開拓 100 周年記念 誌巻頭言より抜粋)

 

       

 

奈井江町白山地区

 

我らの郷土白山(白山開拓 100 周年記念 誌巻頭言より抜粋)

天下の三大霊峰の一つ白山連峰は、四時不滅の白山を頂き乍ら、加賀越前飛騨の三ヵ国の 国境に聳えて、その美麗なる白峰を望かせている。

  奈井江町の白山部落の開拓先駆者の故郷は、石川県白山山麓の村々が立地する此の山村 なのであります。

 伝承では 1250 年の永きに亘る歴史を経ると云われているものである。村 民は此の雄大さにして美しく、そして厳しい自然に培われ乍ら、山村民特有の辛抱強さと独立心とが培われ条件の良くない、山地田畑の耕作出作りによる焼畑経営、養蚕林業、炭焼き 等を基として、その不屈の精神と信仰心の力強さの伝承が、白山村民の基幹を成していたのである。

 

 先駆者達が住み慣れた故郷を去らねばならなかった理由があったのである。

 

 文献による と、雪崩による焼畑地流失の変化と水害による土砂崩落、土地の流失による荒廃、特に明治 19 年頃より国有林の伐採が始まったため、19 年には岩尾俣谷、東俣谷で土砂崩れを起 こし、降雨ごとに出水を見るようになり、同 24 年 8 月の大水害同 26 年 5 月の大水害、同 28 年には赤岩部落の大火と大水害、同 29 年 には白峰全村に亘って大水害に見舞われた のである。

  

 即ちこれが直接の原因となって離村するものが相次ぎ、特に河内谷方面では著 しい人口戸数の減少をみたのである。 かくて離村する者達は相たずさえて、未開拓地北海道へと目指し移住して来たのであるが、そこを第 2 の故郷として根を下ろし、 再び白山村へは帰らずに、生涯を終えたので ある。

 

 * *

 

  奈井江町の位置と区域 私達の白山部落(連合区)は、北海道の中央、石狩川流域にある奈井江北部に位置し、奈井江町の位置と区域 私達の白山部落(連合区)は、北海道の中央、石狩川流域にある奈井江北部に位置し、奈井江第 11(1 区)、12 区(2 区)、13(3 区)部落は今は三井奈井江坑区域と交錯している 山間地帯第 14(4 区)、15(5 区)部落とを合わせた区域である。

 この 5 つの部落が連合部落(現連合区)を作り、この地区開拓の昔から、100 年を迎える今日まで、部落民が一致団結して、部落開拓村作りの大業にあたってきた。 

 奈井江市街地より 3 ㎞、奈井江駅より 2.7 ㎞北によって、東西に通る道々赤平奈井江線(9 号線)道路を中心に展開している戸数 117 戸(現在 45 戸)、人口 565 人(現在 174 人)、面積 530ha、殆んど水田を中核とした恵まれた農村地帯である。

 

  砂川市豊沼とは 8 号線道路を挟んで相接し、南は 10 号線道路を以て当町厳島連合区に、西 は函館本線を挟んで大和連合区と連接している。東は二又沢境界沢を越えて夕張山脈系の上砂川芦別へと連なっている。 昭和 63 年には、北海道縦貫自動車道が開通し、白山地区には砂川インターチェンジが設置されている。昭和 47 年 11 月にオープンした「ないえ温泉」は、旧三井炭坑用地から沸 く冷泉であるが、新しい時代に応え町営の施設として衣替え、平成 2 年から「ないえ温泉ホ テル」として新しく発足した白山部落は農業と観光、そして、保養地のある静かな里として新しい出発をしようとしている。 

 地整地下資源を豊富に埋蔵した東部の夕張山脈は、ゆるく丘陵地帯をつくり、東には標高 622 mの御料山に源を発する奈井江川が西に流れている。

 標高 271mの爾波山と、261mの豊平 山とを南北に分けて谷間を作り、その平地に出外れるところに肥沃な白山部落を縫って、石狩川に注いでいる。北海道の大動脈である石狩川を挟んで遠く浦臼町の西高くそびえる地 勢根尻山(ピンネシリ山)は 1,100mの雄姿であり、金色の夕焼けの雲間から静かに我が白山部落を見下ろしてくれている。

 

  先史時代と開拓前 今日このように拓けつくしたこの付近も、先史時代は熊の横行する鬱蒼たる密林で僅か にアイヌ民族が住み、石狩川に注ぐ奈江川は、南 15 号線を流れる奈井江川、更に南にある 茶志内川と共に、石狩川からそれぞれ 3 ㎞遡った東部丘陵地帯に、彼らの石器を残し、奈江川の名もアイヌ語のナイ(川の意)からつけられたものである。

 

  徳川末期には松浦武四郎が、石狩川をさかのぼって探検したが、明治 3 年仙台藩の伊達邦直が、従者 7 人をつれ、石狩川から奈井江に上陸し、土地の肥沃さを認めたが、河口から 120 ㎞上流のこの地の不便を思い、石狩当別に藩士 61 名と共に入地した。

 

 明治 5 年高橋利宜が上川探検の途中、石狩川と空知川二又のところに相当数のアイヌが住んでいたのを認め、同 19 年高橋利宜の言が入れられて、市来知から音江町に達する国道が、囚人たちによ って初めて開通された。

 そしてこの国道通行人のため、翌 20 年山形県人の三浦米蔵氏が初めて途守を兼ね、旅人宿を開業して南空知に居住した。

 この頃の行政区画は、現在の空知、雨竜の両郡にわたり空知太と称されたが、明治 23 年 1 月滝川村が出来、同年 8 月滝川村から奈江村(上砂川、歌志内、奈井江を含む砂川町の前名)が分離独立した。 

 明治 19 年開通した国道も道路僅か 1.8mしかなかったので、20 年、21 年には、又、月形 や市来知の監獄の囚人達により、岩見沢~滝川間の本道路工事が行われ、これにより路面も修理され道幅も 5.4mに拡張された。

 明治 22 年には滝川村に屯田兵が入地したしたので、 この国道も次第に人馬の往来が煩雑になってきた。

 明治 20 年にはこの奈井江市街にも駅逓 がおかれ、横山某がこれをあずかり、又近間常松、野村正という人も市来知から来住して、奈井江の草分けとなった。この頃砂川に 50 人程住んでいたと言われる。 

 開拓・移住期 明治 22 年 12 月屯田兵の一部 92 戸が滝川に、23 年 1 月 には滝川村戸長役場が設置された。

 この年滝川屯田兵 348 戸 の集団入地を見たが、奈井江にも金子金太郎、矢野昇、渡辺 靖三、本野大蔵の 4 戸の移住を見た。

 尚その年、歌志内炭鉱 が開発され、北海道炭鉱鉄道株式会社によって、岩見沢、歌志内間の鉄道工事が始まり、24 年 7 月開通し、砂川駅、奈井江駅が設立された。

 

 この頃、奈井量がな され、24 年 11 月清水崇徳、和田幾次郎の 2 人が 250ha の 土地を奈井江で払下げ、多数の小作人をいれて農耕を始め た。

 

 25 年には中野佐吉、岩手県人の伊藤広幾、佐藤庄五郎の 3 人が、10 数万坪の土地の払下げをうけて大和に入地した。 

 又、当時易学の大家で、北海道炭鉱汽船会社社長であった実業家の高島嘉右衛門は、高島に 250 万坪の貸下げをうけて、 石川県、岩手県、神奈川県から移民を集めて入地させた。

 奈井江も開拓の初光を見、駅の付近も幾らか市街地の形態を成し、25 年香川県人折目初次郎は南 15 号線西 2 線の私宅に於いて家業のかたわら児童に読書、算数を教授し、引続き 28 年 2 月に元の奈井江町役場の箇所で、竹内武丸が折目初次郎 に代って教授し童蒙倶楽部と称し、児童 22 名を教育した。 

 

 白山部落の開拓初期 明治 25 年入地の佐藤庄五郎氏等の農場関係者数名が、この付近に散在したらしいが、こ のように 9 号線周辺も、いくらか村の形態を成して来たとは言うもの、ようやく測量を終 わって間もなく明治 28 年奈江川流域はつる草、熊笹、葦、蕗等が地を掩い、千古斧鉞を入 れない森林が鬱蒼として天日を遮り、熊が横行する有様で、その間に僅かに笹を分けて形ば かりの区画道路がつけられた状態であった。

 この未開の地へ初めて笹を分けて入地したの が河村米八、石川県人の加藤武衛門、北三松、その直後、笹木由佐衛門、林小助であった。 河村氏は国道より東に入り(今の林博六氏の地に入植)、北氏は 8 号線、9 号線の中間(現 北準一氏)付近に、又、笹木氏は 9 号線沿いの現(伊藤重雄氏)道筋の基礎となった。

 尚笹 木氏と一緒に入地した林小助氏は 9 号線より 360m北寄りで国道に近い地点に、又加藤氏 は 9 号線 1 線(現宮本良一氏)に居を構えた。

 翌 29 年にはこの先駆者たちの郷里、石川県 の霊峰白山(2,707m)の麓で手取川上流にある白峰村では大洪水があり、多くの田畑、人家が流失したので、災害に会った 25 戸が、これら先駆者を慕って集団移住して来た。

 

 更に 翌 30 年には福井県、石川県からも 42 戸の移住があり、白山及びこの周辺に入地し、部落の形態も整って来たので、故郷の石川、福井県より眺望された白山の名を取って白山部落と した。

 部落の開拓と道路 

 9 号線道路も目に見えて道幅が広くなってきた。又この頃、国道付近の土地より山地及び奈井江川流域沖積土地帯の方が肥沃のため、道路開拓は奥地へ急速に進展する必要があるために3線橋架橋を見るに至 って9号線道路は白山部落の幹線となった

 

 30 年、31 年と続々と移住、人口の増加と共に 生産力を加わってきたので、道路の重要性も増大した。31 年には 9 号線道路の幅を 3.6m として本格的工事に着手し、その年馬車が初めて通った(その時の馬車は車輪に幅約4㎝の 鉄輪をはめた木車であった)しかし、国道より東 2 線までは湿地の為馬車の通行に適しな かったので、道の両側に生えていたヤチダモ、ハンノキ、シラカバ等を伐って、割板としこれを路面一面に敷きつめて、一応馬車が通れるようにした。

 東 2 線より以東、現在の白山神社付近までは土質が良かったので、それ程の苦労はなかった。尚この国道と 2 線間の9号線道路には、その後も3回にわたって割板の入替えが行われた。

 明治 32 年に至り東 1 線道路が、9 号線以北 8 号線までと東 2 線 9 号線以南 14 号線迄開通して、馬車鉄道が出来上がった。42 年頃から毎年 1 週間にわたる部落民総出動で、砂利敷き作業を実施して以来、次第に道路の形を整えていった。 この頃東 3 線道路が出来たが、44 年になって、奈井江川上流電柱沢より多数の電柱用材が伐出されることになり、この搬出の為 9 号線奥の難所に白山橋が架橋され、その翌年の 45 年には白山橋以東電柱沢間の各橋が全部架橋された。

 この頃から二股沢に移住が始まり、 未開発の地の川沿いに爾波山と向山の間の沢を奥地に向かって入地し、第 15 部落の基を作 った。この奥地に入地した古館藤吉郎氏が、定住後毎年率先してこの道路改修に当り、遂に馬車鉄道にまで仕上げた。明治 45 年当時本流の一番奥春日橋より更に奥に向け 2 本の橋が必要となり、時の区長の小林氏は鈴木富蔵、加藤五郎吉、鈴木末松、鈴木仁太郎所有の分譲を受け道路にするため、部落民より 80 円の寄付金を集めてこれを購入し、山沿いに道路を作った。

 

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 加賀の霊峰白山と白山大神について(笹木清一氏:昭和 46 年 4 月 14 日没) 

 

 加賀の白山部落というのは石川県能美郡白峰村字市之瀬、字赤岩、字三ッ谷の三部落のこ とで、これを高地と呼んでいる。 

 この白山が開拓されたのは、今から 1500~1600 年前、平安時恒武天皇時代の弘法大師 (空海)、伝教大師(最澄)の頃と推察されている。

  時の開拓使であった泰澄大師のお供をしてきた源五郎という人が、白山登山口に掘立小 屋を建て、熊笹で屋根を葺き、そこに住みながら大勢の人夫を使役して登山道を創ったのが 始まりだと言う。

 

 この時泰澄大師が源五郎に対して、木を建て笹葺きの小屋に住んでいたの で姓を「笹木」と称えるのが良いと申されたので、以後笹木源五郎と名乗り、それから四十何代、その間養子一人ももらわず直属の子孫で、代々源五郎と名乗ってきた。 

 昔から“白山絶えたら源五郎絶え、源五郎絶えたら白山絶え”と歌われたということであるが、たまたま昭和 5~6 年頃の 7 月白山に源を発する手取川の大洪水で村は殆ど流され、古代から人間の造ったものは、田畑も家屋も何一つ残さず一切を押流し、そればかりか市之瀬に居た 60~70 人の者が僅か 10 人助かったのみで、他は全部死に、このときに源五郎一家も全滅し、千幾百年続いたこの一家の終りを告げた。

 

  盛んであった白山登山者も一時は殆ど姿を見せなかった。その後県の復旧方策により、ようやく復旧してきている。 

 この白山に昔、祀られた神仏は大小一千数百体と申されているが、その中でもお宝様とし て尊重された十幾体がある。

 現奈井江町白山に祀られている不動明王もその一体である。私 の父が僅かに覚えていると言うから明治 1~3 年頃かと思うが、高い山に仏体を祀ることはまかりならぬと言うので、県庁から役人が出張してこの白山に祀られた仏体を下山させることになったが、このとき源五郎を始め村人は大反対した。 

 役人は仏体の代わりに神様を祀るからと言うので、無理やり下山させ、石地蔵や小さいものは投げつけて破壊し、或は谷間に投げ落とし下山したと言う。

 

 このとき天候が大荒れとな り三日三晩暴風雨が続き、役人たちが帰国したとき、かれらの郷里は大洪水に見舞われてい たと言う。

 

 村人達はこれも白山神の神罰だと語り合った。この時、源五郎が役人の目に留まらぬように自分の倉の奥にかくまっておいたのが、現在の奈井江白山にある白山様と不動様と、それに石川県の林西寺にある十一面観音像である。この十一面観音様白山の頂上 9千尺の所、すなわち白山本社に十数体と一緒に祀られていた中の一体である。 不動様はこの本社と奥ノ院と言う社との中間にあった小さな社に祀られていたものと伝えられる。(後略)

 

 

* * *

 

白峰村(しらみねむら)は、石川県の南に位置し白山の登山口として知られた村であった。また、恐竜の化石が大量に産している桑島化石壁がある事から、化石の村としても有名。

 

 村域の東半分が白山国立公園(1962年指定)で、日本有数の豪雪地帯である。地理的・歴史的に他の加賀地域と隔絶されてきたために白峰弁(ジゲ弁)という特殊な方言が発達している。

2005年2月1日に、野々市町を除く石川郡を構成する町村及び、松任市と合併し、白山市になった。

 

 白山(はくさん)は、日本の北陸地方、白山国立公園内の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる標高2,702mの活火山。両白山地の北部に位置する加越山地(加賀山地)の最高峰である。富士山、立山とともに日本三霊山の一つである。日本百名山、新日本百名山、花の百名山および新・花の百名山