セスナ機がモスクワの赤の広場に強行着陸(5月28日) | dai4bunkuのブログ

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セスナ機がモスクワの赤の広場に強行着陸

1987年の5月28日、19歳の西ドイツ人 マチアス・ルストが操縦するセスナ機が、ソ連国境警備隊の警戒網をくぐりぬけ、モスクワの赤の広場に強行着陸しました。ルストは飛行目的を「東西の対立を解消し平和をもたらすため」としています。その後、ルストは不法入国の罪で432日間の懲役生活を送り、恩赦を受けて国外退去処分で西ドイツに戻りました。

 

事件

1987年5月13日、当時19歳のルストはハンブルクでセスナ172B型機をチャーターし、フェロー諸島を訪れ、アイスランドで1週間過ごし、ノルウェーのベルゲンを経由し、5月25日にフィンランドに着陸した。

5月28日、フィンランドのヘルシンキ・マルミ空港で燃料を給油し、ストックホルムへ向かうことを管制官に告げ12時21分に離陸した。

 しかしルストは機首を東に向け、まもなくフィンランドの管制空域から機影が消えた。ルストはバルト海沿岸に沿って飛んだのち、モスクワへと向かった。フィンランド国境警備隊はルストの機体が消えたシポー付近で、ただちに捜索を開始し、海底をさらってまで捜索をしており、後にルストはそれに要した費用として10万ドルを請求されている。

 

 この日は偶然ソビエト連邦の国境警備隊の休日であり、警備が緩んでいた隙をついて機体はモスクワまで妨害を受けずに飛行した。また、戦闘機が追尾していたが、速度差が大きく度々見失った上に、1983年に起きた大韓航空機撃墜事件後のことであり、あからさまに民間機である彼の機体への攻撃がためらわれ、交戦許可が下りなかったこともある。

 5時間にわたるソ連上空飛行の後、ルストは機体をソ連の中枢であるクレムリンに隣接する赤の広場に着陸させた(正確には人だかりを避け上空を旋回後100mほど離れたボリショイ・モスクヴォレツキー橋に着陸し、機体を赤の広場の観光バス用駐車場まで移動させた)。偶然居合わせたイギリス人医師が、着陸の様子をビデオで撮影していた。着陸後のルストは直ちに逮捕された。

 

高官の解任

 ソ連国境警備隊はセスナ172B型機の侵入を把握していたが、適切な決定が下されなかった。当時ソ連の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長はこの事件を好機ととらえ、グラスノスチやペレストロイカに反対していたセルゲイ・ソコロフ国防相及びアレクサンドル・コルドゥノフ防空軍総司令官を解任した。そのため、ソビエト指導部がわざと見逃したという陰謀論までささやかれた。

 また、この事件を契機に党に対する軍の優位が揺らいだことから、この事件が冷戦終結につながったとする論調も見られる

 

裁判

裁判は9月2日にモスクワで始められた。ルストは飛行の目的を「東西の対立を解消し平和をもたらす為である」と述べた。ルストは暴力行為、航空法違反、不法入国の罪で4年間の懲役を命じられた。432日間の懲役生活のあとアンドレイ・グロムイコ最高会議幹部会議長の恩赦を受けてルストは国外退去処分となり、1988年8月3日に西ドイツに戻った。

 

その後

 帰国後、ルストは良心的兵役忌避のためハンブルクの病院で奉仕活動に従事したが、その最中の1989年に交際を断わられた看護婦をナイフで刺し、2年半の懲役刑となった。釈放後はヒンドゥー教に改宗し、ソビエト崩壊後のロシアへ渡るなどしていたが、その後の人生もトラブルが続き、2001年にも万引きで罰金刑を受けている。現在は結婚してベルリンに居住し、ポーカープレーヤーや金融アナリストとして生計を立てている模様である。その後もたびたび放送局などのインタビューに応じている。

 

エピソード

 事件の時に操縦したセスナ172B型機は、ロシア当局からミュンヘンの化粧品企業が購入したが、のちに日本在住の外国人実業家に購入され、東京にあるその私有地で展示されていたという。その後、栃木県宇都宮市のスポーツセンターが買い取り展示していたが、区画整理のため、倉庫内に長期保存されていた。

 2008年9月18日にドイツ・ベルリンのドイツ技術博物館に買い取られ、川崎港を出発した。博物館への売却額は、スポーツセンターが本機を購入した額の4分の1ほどだといわれている。そしてルストの飛行から22年にあたる2009年5月28日から、同博物館で公開されている。

ドイツ技術博物館に展示されているセスナ機(実機)

 

爺さん:運がよかったというか。通常であれば、撃墜されていただろう。突飛なことをしでかした割には、踏んだり。蹴ったり、決して幸福な人生ではなかった。