北海道護国神社 | dai4bunkuのブログ

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北海道護国神社

軍都旭川に日露戦争の英雄を祀る

 

 永山武四郎が見た明治天皇の離宮を上川に設け、北海道開拓の起爆剤にしようという構想は実現しませんでしたが、明治35(1902)年に竣工した陸軍第七師団の大兵団が永山の夢を叶えました。

 第七師団は最強と謳われた北の師団は屯田兵が母体。日本を植民地化の危機から救った日露戦争の戦勝を決定づける軍功を上げます。このことが護国神社の創建につながっていくのです。

 

■上離宮に札幌が猛反対

 

上川郡の内において他日ー都府を建て、離宮を設けらるる
 
 この決定を受けた北海道は喜びに沸き、上川支庁はさっそく離宮用地の取得に動き、この年11月には現在の神楽岡付近一帯の官林原野11万500余町歩を世伝御料地として、離宮用地を確保しました。

 

 ところが、この決定を快く思わなかったのが道都札幌でした。明治25(1892)年、北垣国道が第4代北海道庁長官に就くと、札幌の声を代弁して上川離宮構想に反対の意思を示しました。
 
 上川に離宮設置されるときは、これまで苦辛経営の札幌はたちまち衰退し、ことに25年の大火以来委微振わざるにあたり、この際上川に離宮設置のことがあへば札幌はたちまち救いがたき惨状を呈する至るであろうと述べ、むしろ札幌の近郊の月寒・平岸・真駒内方面に設置せらるべきであるという意見書を草したのでの問題は結局うやむやにのうちに実現されず……

 

 鳥取藩の出身の北垣国道にとっては薩摩閥中心にすすめられた上川離宮構想は望ましいものではなかったのかもしれません。札幌の強い反対に遭い、上川に明治天皇の利休を置く構想は消え去りました。しかし、永山武四郎の上川開発に寄せる思いは、これで途絶える事はありませんでした。
 

■旭川第七師団、屯田兵を受け継ぐ

明治28(1895)年の日清戦争で日本は勝利し、遼東半島の領有権などを確保しましたが、それによって南下政策を取るロシアと直接対峙することになりました。日本は軍隊の近代化と増強、特に対ロシア最前線であった北海道の防衛力強化が課題となりました。
 
 ここで、屯田兵本部長であった永山武四郎ならびに軍は北海道に徴兵制を実施するとともに軍第七師団を設置し、屯田兵をここに編入することにしました。
 
 明治29(1896)年5月12日、第七師団が創設され、師団本部が暫定的に札幌に置かれました。この時、

屯田兵第1大隊(雨竜郡)、

同第2大隊(空知郡)、

同第3大隊(上川郡)、

同第4大隊(常呂郡・紋別郡)、

同騎兵隊(空知郡)、

同歩兵隊(空知郡)、

工兵隊(空知郡)などが、第七師団に編入されました。

 

 明治29(1896)年12月1日には屯田兵司令部を第七師団司令部と改称し、初代師団長には屯田兵本部長の永山武四郎が就きました。
 
 後に本州からの徴募、道内各地からの徴兵を加えましたが、精強を謳われた第七師団の主力は屯田兵であり、第七師団は屯田兵の後継組織であったのです。
 

■離宮の代わりに大師団を上川に

 

 第七師団の初代師団長に着いた永山武四郎は、上川離宮の構想の恨みを晴らすべく、札幌に仮置きされた第七師団を上川に移します。

  

陸軍第七師団

明治32(1899)年2月、第七師団を上川原野鷹栖村字近文に内定。極秘裏に調査を進め、同月26日には召集した74名の地主と用地の買収について合意の覚書を取り交わします。
 
 第七師団師団の用地は、総面積5411万2848坪(17888ha)。

内訳は兵営・官衙その他の敷地に571万5000坪(1889ha)、

練兵場631万6850坪(2088ha)、

射的場及び山沿空地351万1898坪(1160ha)、

丘陵(近文台)2831万9100坪(19361ha)

という広大なもので

「司令部のほかに2旅団及び騎・砲・エ・軸その他付属営舍・官衙等をーカ所に集合してもっていたと云うことは全国的に稀」でした。
 
建設工事は明治35(1902)年10月に竣工しましたが、この間に費やされた総工費は3291万9034円余。その他付帯工事を含めると400万円以上に達したといいます。現代の貨幣価値に換算すると1000億円もの巨費でした。
 
 この第七師団を契機として旭川は「軍都」として北海道第2の都市に成長していきます。明治天皇の離宮を上川に設置することでこの地方の飛躍的な発展を望んだ永山武四郎の夢は、こうしたかたちで実を結んだのです。
 

■第七師団、日露戦争の戦勝を決定づける

 第七師団は〝最強の師団〟の名をほしいままにしますが、これには日露戦争における功績が大きく貢献しました。
 
 明治37(1904)年、日露戦争において敵軍の拠点である旅順港を攻略するため背後にある203高地の攻略を目指しましたが、ロシア軍の猛攻にあい戦線は膠着しました。そこに援軍として投入されたのが第七師団でした。
 
 11月30日第3軍第1師団の諸部隊とし、旅順背面の要地203髙地及びその付近を攻撃、連日悪戦苦闘の末、幾千の犠牲者を出して、同年12月6日未明に全く同高地を占領し、旅順の死命を制して陥落の端緒を開く。
 
 ついで第七師団は203高地に視測所を設け、展盤溝及び姜家屯の28センチ榴弾砲を以て旅順港内の敵艦を砲撃し、レトウィザン号外2艦を破壊。その後、全軍の諸隊と共に諸要地を攻略し、遂に旅順の敵塞を陥落せしめる。
 
 翌38年2月27日、第3軍は急行迁冋敵の右側背を圧迫するため運動を開始し、第七師団は、奉天付近に転戦して偉勲を樹てる。

 この戦役で第七師団の諸隊が感状を受けたものは12通、将校以下下士卒で感状を受けたものは133人であった。
 

 敗れればロシアの植民地に陥ったかもしれない国運を掛けた決戦で、勝敗を決する戦功を第七師団が挙げることができたのは師団の主力が元の屯田兵だったからです。
 
 この戦争に参戦した屯田兵は現役ではなく、後備役の者たちでしたが、現役時代程ではないしろ、しばしば演習に招集されました。すなわち第七師団の元屯田兵は、屯田兵としての現役期間と後備役での訓練を積んだ練度の高い兵士だったのです。
 
 これに激しい開拓作業で鍛えられた強靱な肉体、日露戦争の舞台となった中国東北地方の厳しい寒さへの対応力、そして何よりも屯田兵応募時の強い目的意識が重なり、戦局を動かすほどの精強な軍隊となったのです。
 

■数万人を集めた日露戦争招魂祭

日露戦争の激戦で命を落とした第七師団の将卒は4500名余りになります。


 旧軍には幕末の長州藩から引き継いだ国難に殉じた者を人神として祀る招魂祭の伝統がありました。

 第七師団では上川に師団を移した翌年の明治35(1902)年5月5・6日、開拓に殉じた屯田兵を祀る第1回の招魂祭が行われました。
 
 日露戦争の英霊4500柱を迎える招魂祭は、明治39(1906)年4月10日11日に「第七師団臨時招魂祭」としてかつてない規模で行われました。

 戦後すぐに編さんされた明治39(1906)年の『第七師団日露戦役紀念史』はその模様を次のように伝えています。
 
 凱旋後の初祭りとて、盛大なる臨時祭典は明治39(1906)年4月10・11日両日をもって執行せられる。練兵場入り口には大縁門を設け、祭場練兵場の1隅に構えられ、大鳥居、大燈篭等、みな近日の新造に係る。
 
 儀式は祭主大迫師団長の祭文、神主の祭詞、 僧侶の読経、形の如く最も厳粛に行われ、乃木大将代理長岡少将、将卒遺族その他地方有志の拝等すこぶる多く、秩序整然、最も静粛に執行せられたり。
 
 余興には兵士の選抜に係る3座の芝居は絶えず演ぜられ、舞刀、銃剣術、角力、競馬等も皆各隊の選抜兵士にして、普通人民の飛び入りも許され、従前招魂祭と言えばほとんど毎年雨天勝なりしに、今年は珍しく快晴とて、近傍近住はもちろん、遠く来会せしもの数万人、広漠たる練兵場も人を持って充満し、旭川開闢以来の盛況を呈したり。
 
 この招魂祭に参加するために、人口も少なく道路や交通手段の未発達な明治39(1906)年の旭川に数万人の人々が詰めかけたというのです。これには二つの意味がありました。
 
 一つは、第七師団の元屯田兵たちがロシアによる植民地化の危機から日本を救ったという強い感謝の気持ちです。
  明治前半の日本がいかにロシアを恐れていたかは、明治24(1891)年に日本を表敬訪問したロシア皇太子ニコライを滋賀県大津町の警察官が切りつけた事件が象徴しています。

 明日にもロシアが侵略すると強い妄想を抱いていた津田三蔵が警備担当だったにもかかわらず、ニコライ皇太子を見るやいなや理性を失って切りつけたのでした。
 
 一つは、日露戦争において北海道民が救国的なはたらきを見せたことで、本州に対して引け目のあった道民が自信と誇りを得たことです。
 
日露戦争の戦勝は、北海道にとって関ヶ原の合戦並の出来事でした。
 

■招魂社から護国神社へ

 招魂祭は第七師団の慰霊祭でしたが、日露戦争の英霊を迎えるために、師団建設を請け負った大林組は招魂斎場として木造の小社を寄進し、これが後の北海道護国神社へと発展していきます。
 
 明治43(1910)年6月、当時の師団長上原勇作は招魂斎場を基にして招魂社建設をすすめます。北海道長官河島醇は、招魂社設立のため募金を全道に募り、短い間に11万2777円(現代換算20億1387万円)もの浄財が集まりました。
 
 こうして明治43(1910)年9月4日、第七師団招魂社が建設が始まり、翌昭和44(1969)年6月4日落成式を迎えました。
 
 この第七師団招魂社が昭和10(1935)年4月に北海道招魂社となり、昭14(1939)年4月1日に北海道護国神社になりました。
 
 北海道護国神社は、日本を植民地化の危機から救った日露戦争の戦勝に決定的なはたらきをした元屯田兵、すなわち第七師団の将兵が祀られたことから、全道的な神社となったのでした。

 

 

 

 

 

参考

札幌護国神社 札幌市中央区にある神社。護国神社の一つである。

 

 明治10年の西南の役に戦病没した屯田兵の霊を祀る。

 

  有栖川熾仁親王により屯田兵招魂碑と題し、明治12年8月2日屯田兵司令部に於て祭祀を斎行する。

 明治40年2月中島公園に移転し、明治27・28年の日清戦争の戦病没者を合祀し、明治37・38年の日露戦争の戦病没者の合祀のため忠魂碑を建て、乃木将軍之を題す。

 昭和8年11月17日現在地に札幌招魂社を造営し官幣大社札幌神社に奉斎せる神霊を此処に奉還する。

 昭和11年昭和天皇北海道行幸の砌、祭粢料御下賜。昭和14年4月1日内務省指定の護国神社となる。

 終戦により昭和21年4月30日神社本庁に所属、同年12月12日札幌彰徳神社と改称する。その後。札幌護国神社。

 

彰徳苑

境内の一角には、戦没者慰霊碑を中心に数多くの碑が集められた「彰徳苑」がある。

 

屯田兵招魂碑

 1878年(明治11年)7月、西南戦争で没した屯田兵のために建てられた物で、札幌市内に現存する最古の碑と考えられる。

 当初は偕楽園にあった。1907年(明治40年)12月、日露戦争における札幌連隊区管内からの戦死者を合祀し、中島遊園地に移転。1933年(昭和8年)、招魂社境内に再移転した。

忠魂碑

 日露戦争の戦死者のために建てられた。題字の揮毫は乃木希典。

頌徳碑

 財団法人帝国在郷軍人会の創立者である松本謄四郎を顕彰した碑。当初は旭ヶ丘にあったが、1960年(昭和35年)3月、当社に移設された。

 松本を称える正面の碑文は、佐藤昌介の撰による。1967年(昭和42年)、右側面に在郷軍人会の遺族を慰霊する文が刻字された。

尼港殉難碑

尼港事件の犠牲者のための碑。1928年(昭和3年)10月、旭ヶ丘に建てられたが、1960年(昭和35年)3月5日、当社に移設された。

ノモンハン英魂之碑

ノモンハン事件の犠牲者のための碑。1967年(昭和42年)9月16日建立。1987年(昭和62年)にはアフリカ産黒御影石製の由来碑が添えられた。

アッツ島玉砕 雄魂之碑

アッツ島の戦いでの犠牲者のための碑。1968年(昭和43年)7月29日建立。幅7メートルの台座の上に、32トンの神居古潭石製の碑が載る。

メレヨン島戦没者慰霊碑

ウォレアイ環礁での犠牲者のための碑。1971年(昭和46年)10月建立。黒御影石製で、題字は堂垣内尚弘による。左後方には戦没者の氏名碑が立つ。

北千島慰霊碑

北千島での犠牲者のための碑。1975年(昭和50年)8月23日建立。日高産碑原石製で、題字は堂垣内尚弘による。

北海道全海軍 英魂の碑

北海道・千島・樺太にゆかりのあるすべての海軍関係者のための碑。1978年(昭和53年)8月20日建立。重巡洋艦で使われていた錨2基を配する。

「北鎮砲兵発祥の地」碑

1896年(明治29年)12月に結成された独立野戦砲大隊を記念する碑。1985年(昭和60年)6月23日建立。アフリカ産黒御影石製で、題字は板垣武四による。

旭川第七連隊砲兵哨舎

「北鎮砲兵発祥の地」碑建立の数年前に自衛隊が運んできたもの。

歩兵第26連隊軍旗奉焼の碑

歩兵第26連隊の解散に伴い、月寒神社で行われた軍旗奉焼を記念する碑。1986年(昭和61年)9月14日建立。白御影石製で、沿革碑が添えられている。