豊平神社の創始 明治初頭頃の 「祠」の写真の発見 | dai4bunkuのブログ

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豊平神社の創始 

  明治初頭頃の「祠」の写真の発見

新発見の「祠」の写真

 豊平神社140年史の編纂作業の中で発一枚の写真を見した。阿部仁太郎(にたろう)が父丑太郎(うしたろう)の故郷、青森県の猿賀神社の祭神を分霊し、自分の土地(現豊平神社所在地)の一角に祠を建立したのが、豊平神社の前身であると伝承されている。

 

 この写真は、おそらく、祠の完成記念に関係者一同で撮影したものであろう。豊平神社の創建は明治17年に、この祠の横に社殿を建立、無願神社としてスタートしている。

 

 この祠の写真が、明治初期の何年頃に撮影されたものか、一部に「阿部甚太郎が現在の豊平神社地に屋敷を建て父を養生したのは明治13年である。」説もみられることから、編集委員会で議論になったが、豊平神社の物置の整理中に発見した「祠」の歴史を裏付ける写真である。

 「祠」の周囲は雑草が生茂っている。このことから、明治4年頃、現神社地の土地を所有し、「祠」を先に建立。機械場あたりに住まいし、札幌に商売や所用に便利な、神社地に明治13年に新しく屋敷を構えた。そして、祠の横に新たに神社を建立したとみるのが解と考えられる。

 

 写真技師 田本研造が明治政府が設置した開拓使より、1871年(明治4年)8月20日付けで札幌とその周辺の撮影を命じられ、彼は弟子の井田幸吉を伴って出張している。

 

 

 

 また、田本の一番弟子であった武林 盛一が明治4年ころ、函館から札幌に移住、1873年(明治5年)開拓使写真御用掛に任命され、北海道各地の記録撮影を行った記録があり、

 また、田本・武林らから写真撮影技術を習った者もいる。

 

 以下、開拓使御用写真師について参考まで記す。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5月8日) - 大正元年(1912年)10月21日)は、現在の三重県熊野市神川町出身の写真家。別名は音無榕山(おとなしようざん)。

1832年(天保3年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれた。のちに別名音無榕山(おとなしようざん)と名乗っているが、「音無」は彼の郷里を流れる音無川(熊野川)にちなむものという。

 

 医学を志して23歳の時に長崎に赴き、蘭方医吉雄圭斎(よしおけいさい)の門に入る。ここで医学や化学を学びつつ西洋科学の諸事情に触れ、1859年(安政6年)には長崎から箱館(函館)に移り住んだ。

 ところが、しばらくして右足に凍傷を負って脱疽となり、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめるものの右足切断の悲運に遇う。

 しかし、これが縁となって写真の道に進むことを決め、写真技術を習得すべく研究を始める。ゼレンスキーからも教えを受けたと思われ、1866年(慶応2年)頃から写真師として活動を始めている。

 翌年には、既に当地で営業していた写真師木津幸吉とともに松前(箱館)に赴いて、松前城(福山城)と藩士らを撮影している。中でも、城は明治時代にその大部分が取り壊されているため、それらを写した写真は、今日では貴重な記録となっている。

 

 1868年(明治元年)、箱館戦争の中にあって旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三撮影し、その後、建設が始まった札幌の町をはじめとする、北海道開拓事業の記録写真を残した。

 

 箱館戦争の際に撮られた洋装姿の土方歳三は、おそらく田本の撮影した写真の中で最も有名なものであり、幕末関係の様々なメディアに取り上げられている。戦後、明治政府が設置した開拓使より、1871年(明治4年)8月20日付けで札幌とその周辺の撮影を命じられ、彼は弟子の井田幸吉を伴って出張している。

 

 翌年、函館出張開拓使庁から東京に158枚の写真が送られ、政府に北海道開拓事業の進捗状況を伝えるとともに、展示にも用いられた。1873年に開催されたウィーン万国博覧会には、開拓使の写真が出品されている。

 その後、開拓使の写真は田本の門下から出た武林盛一らに引き継がれていく。田本は函館に採光用ガラス窓のついた本格的な写真館を構え、この北海道初の写真館は、なかなかに繁盛したと

いう。彼のもとからは多数の有名な写真師が輩出し、田本研造は函館のみならず、北海道における指導者的立場の写真師であり功労者であったといえよう。

 

 1912年(大正元年)10月21日、函館で81歳の生涯を閉じる。

 

 彼の撮影した写真の中でも、特に北海道開拓時代の記録写真は、日本写真史上において今日高く評価されている。脚が不自由なこともあってか、彼は一度も郷里の熊野へは帰ることがなかった。しかし、近況報告とともに北海道の写真を送っていたらしく、神川町内にはそうした写真が残っており、その何枚かが発見され話題となった。地元熊野市では、1981年(昭和56年)、鬼ヶ城に顕彰碑が建てられ、また、田本研造の名を冠した写真コンテストが開催されるなど、様々な方面から田本研造に光が当てられている。

 現在これらの写真は北海道大学付属図書館北方資料室や函館市立中央図書館に保存されている。

 

武林 盛一(たけばやし せいいち、1842年2月25日(天保13年1月16日) - 1908年(明治41年))は、明治時代の写真家。

 

1842年2月25日(天保13年1月16日)陸奥国弘前(現・青森県弘前市)に弘前藩士の子として生まれる。1858年(安政5年)に蝦夷地へ渡り、箱館奉行所の外国船検査掛となる。

 

ロシアなどの外国艦船に出入りして写真に興味をもつようになり、1868年(明治元年)箱舘府に仕えながら写真師田本研造に師事(一番弟子)し写真術を学んだ。

 

 1871年(明治3年)に退官、翌1872年(明治4年)函館で写真スタジオを開設し、後札幌に移る。

 1873年(明治5年)開拓使写真御用掛に任命され、北海道各地の記録撮影をおこなう。1885年(明治17年)、東京に写真スタジオを開業。

 

 この写真は、明治4年に阿部甚太郎が現在の豊平神社の地に小さな「祠」を建てたと伝承されている、豊平神社70年誌の伝承を裏付けるものと考えられる。

 

 

 

       明治初頭期の豊平川渡船の写真