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福まち 幸せに生きるために

「生きる意味」は、一流の文学者、心理学者、哲学者でもわからない (3)

 

出典:生きる意味109 長南瑞生 著 1万年堂出版

 

人間の心の専門家、心理学者の言葉

 今まで、一流の文学者を紹介しましたが、誰も「生きる意味は」分かりませんでした。では、心理学者ならどうでしょうか。人間の心のはたらきを解明し、心の不調を取り去ろうとする心理学者なら生きる意味も分かるのではないでしょうか。

 

ジークムント・フロイト

 心理学者といえばまず思い浮かぶ人がこの人、精神分析の創始者、フロイトです。

 では、さっそく人が生きる目的は何なのか聞いてみましょう。

 

   これまでに何度となく、人生の目的は何かとう問いが問われてきたが、

   まだ満足できる回答を示した人はいない。        (フロイト)

 

 フロイトも人生の目的に関心を持っていたようですが、残念ながら、やはりわからなかったようです。

 

アルフレッド・アドラー

 フロイトと並び称され、「アドラー心理学(個人心理学)」を創始した心理学者アルフレッド・アドラーは、「人生の意味の心理学」という本を著しました。

 ところが、その冒頭で

 

   絶対的な人生の意味を持っている者は誰もいない。    (アドラー)

 

と、早くも人生の意味を正面から明らかにすることを断念しています。

 

ヴィクトール・フランクル

 ところが、このフロイトとアドラーの二人に学び、人生に意味を見出す「ロゴセラピー」を創始したヴィクトール・フランクルは、「人生には無条件で意味がある」と唱えています。

 フランクルの提唱する意味は、「やり残した仕事」か、「あなたを待っている誰か」の二つです。

「えっ! じゃあ私の生きる意味は何ですか?」と聞くと、さしものフランクルもこう答えます。

   

   ロゴセラピストといえども患者に、その意味はいったい何であるのかを

   告げることはできない。        (ヴィクトール・フランクル)

 

ミハイ・チクセントミハイ 

 ハンガリー出身のアメリカの心理学者、チクセントミハイは、時間を忘れて物事に熱中する、フローの概念を提唱しました。

 ところが、それによって一時的には意味を感じられても、人生全体としては、何に熱中すれば意味があるのかは分かりません。

 

   我々に「ここに君が人生を捧げるに値する目標がある」などと教える者

  は どこかにいるというわけではない。    (チクセントミハイ)  

 

このように、最も著名な心理学者たちでさえ、いきる意味は分からないのです。

 

生涯かけて真理を探究した哲学者の言葉

 では、真理を探究し、人生についてひときわ深く考えているであろう哲学者はどうでしょうか?

 西洋哲学は、二千年の歴史があるようでいて、それはずっと考え続けてきたわけではありません。古代のギリシャ・ローマの哲学の後、中世といわれる5世紀から15世紀での約千年間、思想上はキリスト教に支配されていました。

 これを暗黒時代といわれます。

 哲学者たちは、地球や人間を創造したという神を中心として「人は、神の目的のために生きている」と教えるキリスト教の体系を作るのに苦心しており、それ以外の知的活動はほとんどありませんでした。

 それでも、やがて、15世紀を中心としてギリシャ・ローマの文化を復興しようという「ルネサンス」が起こり、16世紀には、富と権力で堕落した教会に対して宗教改革が行われます。17世紀に入ってようやく、フランスの哲学者デカルトが「我思う、故に我あり」と言って、思想の中心が神から人間の理性に移り始めます。

 これが、近代哲学の出発点といわれ、生きる意味も問い直され始めます。

 その後、18世紀には産業革命が起こり、19世紀にはダーウィンが進化論を唱え、科学の進歩とともに入れ替わるように、キリスト教の権威は衰え続けます。

 現在では、ヨーロッパでも、もはや帰属意識や信仰はかなり消え「神」の存在を信じる人のほうが少数派となっています。

 

 「神」は、たしかにというよりは「多分」存在するものであり、キリスト教の柱である個人的な「神」を存在を信じる人は、ヨーロッパ人の38%にすぎず、祈りは有効で「ありうる」が、それ以上でではない。

      (「人類の宗教の歴史」フレデリック・ルノワール)

 

 このように、何百年もかけてゆっくりとキリスト教が崩壊し、西洋哲学でも近代になってようやく、人生の意味を考え始めたのですが、そう簡単には分かりません。

 いきる意味が分らないまま、大きく依存していたキリスト教の権威を失い、虚無主義に陥ってしまいます。

 

フリードリヒ・ニーチェ

 例えば19世紀後半「神は死んだ」と宣言したドイツの哲学者、ニーチェは、こう言っています。

 

   人間の存在はぶきみであり、依然として意味がない。    (ニーチェ)

 

藤村 操

 そんな西洋哲学を東京大学の前身、旧一高で学んでいた藤村 操は、華厳の滝に身を投じ、自殺してしまいます。

 自殺の動機は「厳頭の感」(がんとうのかん)として、次のように滝の上の木に刻んでありました。

 

   悠々たるかな天壌、

   遼々たるかな古今、

   五尺の小軀をもってこの大をはからんとす。

   ホレーショの哲学ついに何らのオーソリチィーを価するものぞ。

   万有の真相はただ一言にしてつくす。

   曰く「不可解」。

   我このうらみを懐いて煩悶、ついに死を決するに至る、  (厳頭の感)

 

「悠々たるかな天壌、遼々たるかな古今」とは、この大宇宙の大きさと、歴史の長さに思いを馳せると、なんと壮大なことか、ということです。

「五尺の小軀をもってこの大をはからんとす」とは、その無限の広がりを持つ世界の真理を、身長百五十センチメートル程度の小さな私が、かつて追い求めようとしたということです。

 

藤村 操は、西洋哲学を学び、それによって真理を探究していたのですが、自分が学んだ西洋哲学は、何のオーソリティー(権威)にもあたいしない、この世の真理を見いだそうにも役に立たないものだということです。

「万有の真相はただ一言にしてつくす。曰く「不可解」」とは、この世の真理は、「不可解」の一言だ、ということです。

 こうして、なぜこの世に生まれ、生きているのか、藤村 操は西洋哲学を通して死ぬほど考えても分からず、斑紋の末、ついに自ら命を絶ってしまったのです。

 

ジャン=ポール・サルトル

 その後の哲学者も同じです。ノーベル賞を辞退したことで知られる20世紀のフランスの哲学者サルトルは、その代表作「存在と無」の中で、やはり、

 

   人間は一つの無益な受難である。            (サルトル)

 

と結論付けています。

 

フィリッパ・フット

 近代においても、アメリカのクリーブランド大統領の孫で、カリフォルニア大学で長年哲学の教授をしていた倫理哲学者、フィリッパ・フットは、

 

   現在の哲学者であれ、過去の哲学者であれ、この観念(命に価値があること--筆者注)

         説明できた人を私は知らない。 ( フィリッパ・フット)

 

と、「道徳的相対主義」に書いています。

 きちんと論理的にものを考える哲学者には、今もって人生に価値があるとは言えないのです。

トマス・ネーゲル

 ハーバード大学で博士号を取得した哲学者トマス・ネーゲルは、「人生の意味」と題して様々な考察巡らした最後に、人生に意味がないのは当然として、次のようなさらなる可能性も考えています。

 

   つまり、人生は単に無意味であるだけではなく。不条理でもあるかもし

   れないのです。                 (トマス・ネーゲル)

 

 このように、人生について考え、生涯をかけて真理を探究している哲学者たちでさえも、人生の意味は見いだせないのです。

 

仏教では、二千六百年前から、

「生きる意味」の答えを教えている

 

  

  このような、きらめく才能を持った頭のいい人たちでも分からないということは、「生きる意味」は、そう簡単には答えられない、重い問題だと、おのずと感じてこられたこことと思います。

 このような一流の文学者、哲学者でも分からないとすれば、生きる意味は、この先、生きていけば、人生経験を積んでいくうちにいつか分かってくる、ということは期待できません。どれだけ頑張っても、これらの人たちの言うとおり、無益に苦しむだけの、不条理な人生になってしまいます。

 

 ところが、そんな誰も分からなおい本当の人生の目的を、仏教では二千六百年前から教え続けられています。

 例えば鎌倉時代の仏教書「(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)」には。冒頭から、その人生の目的の答えを、

 

   難度(なんど)の海を度する大船(たいせん)          (『教行信証』親鸞聖人)

 

と、海と船に例えて教えられています。

 

難度(なんど)」とは、渡るのが難しいということです。私たちの人生を、渡るのが難しい海「難度(なんど)(かい)」と言われているのです。

 

 芥川龍之介も、人が生まれたということは、何も知らずに、とにかく広い大きな海に投げ込まれ、泳がなければならないようなものだと例えています。

 

 何のために生まれてきたのか、どこへ向かって泳げばいいのか分からず、苦しみ悩みの波だけが次々とやってきます。周り中。三百六十度見回しても空と海しか見えない海に放り込まれたら、あなたはどういう気持ちになるでしょうか?

 手当たり次第にとにかく泳いでしまうと、頑張れば頑張るほど、早く体力を消耗して、土左衛門になるだけです。

 

 そこで周りを見渡してみると、この難度海には、丸太や板切れが浮いています。

苦しみ悩みの波は絶え間なくやってくるので、とりあえず近くに見える丸太や板切れに向かって泳ぎます。ようやくすがりつくと、その時は、やれやれと安心するのですが、それらは浮いたものですので、やがて、くるっと引っ繰り返って塩水をのんで苦しみます。

 

 そうすると、「これは丸太や板切れが小さかったからいけないのではないか」と思って、もっと大きな丸太や板切れを求めて泳ぎます。やがて努力の末、もっと大きな丸太や板切れにすがるのですが、やはり浮いたものですので、大きな波が来ると、くるっと引っ繰り返って塩水をのんで苦しみます。

 どこへ向かえばいいのか分からない見渡す限りの大海原で、必死で丸太や板切れを求め、すがりつくたびに裏切られ、そんなことを繰り返しているうちに、最後は体力が尽きて土左衛門になってしまうのです。

 

 この丸太や板切れが何を表しているかというと、これが、趣味や生きがいであり、三章で見た仕事や愛であり、政治や経済、科学、医学のような生きる手段です。

 

 何かをたよりにし、すがらなければ私たちは生きられないのですが、浮いたものですから、やがて大きな波が来れば裏切られて苦しみます。生涯を捧げた会社から、定年退職であっさりお払い箱になる人もあります。

 何十年のローンで建てたマイホームも、地震や津波で流されてしまう人もあります。

 命と信じて育てた子供に虐待され、老人ホームに入れられて泣く親もあります。

 そして次の支えを求めて生きるのです。そうやって少しでも楽になるように、長く生きられるように、何かを当てにして信じて生きているのですが、毎回のように裏切られ続け、最後、力尽きて死んでいかなければならないのです。

 これが私たちの人生の姿だとすれば、まさに渡るのが難しい苦しみの海のようなものが人生だといえましょう。

 

 ところが、「教行信証」には、その難度海で溺れ苦しんでいる私たちを、明るく楽しく渡す大きな船「難度(なんど)の海を度する大船(たいせん)」があるぞと説かれています。

 

 苦しみ悩みの絶えない人生の海を、明るく楽しく渡すいい気な船があるから、早くその船に乗りなさい、この船に乗ることこそが人生の目的だ、ということです。

 

 

 これは、約二千六百年前、釈迦が仏のさとりを開かれて、さとりの智慧で明らかにされたもので、丸太や板切れとは全く異なる、本当の人生の目的です。

 

 では、釈迦はどうして、この人生の答えを見いだされたのでしょうか?

 なんとそれは、あなたと同じ悩みが出発点だったのです。

 

 現代日本とは、時代も場所も、はるかに隔てるその当時、釈迦は、一体どんなことに悩まれたのでしょうか。

 

 第4章 まとめ

● 「生きる意味」と趣味や生きがいの違いを理解すればするほど、本当の生き

る意味は分からなくなります。一流の文学者、心理学者、哲学者でも分かりま

せんでした。

 

●  では、人生は無意味に苦しむだけの不条理なものなのでしょうか?

鎌倉時代の仏教書「教行信証」には、

「苦しみの絶えない人生の海を明るく楽しく渡す大きな船「難度の海を度する大船」がある。この船に乗ることこそが、本当の生きる目的だ」と説かれています。

 

●  釈迦が、この人生の答えを見いだされた出発点は、あなたと同じ悩みからでした。一体どんなことに、悩まれたたのでしょうか?

 

 

第4章の御紹介の終わりです。

 

次の第5章は

  ハイデッカー、ユング、アインシュタイン・・・・

  20世紀を代表する知識人が、仏教の素晴らしさに驚いている

 

の説明です。