郷土の偉人~末松謙澄~  ;明治政府の内務大臣、伊藤博文の義子 | 福岡県議会議員 「走る、弁護士!」 堀 大助
こんばんは。

先日、郷土行橋の先輩で、元日本銀行員・北九州銀行協会常務理事などを努められ、郷土史研究家としても活躍された、故玉江彦太郎先生の著書を読みました。

その中には、明治維新の頃の行橋・京築周辺の様子や、ゆかりのある人などのことが書かれておりましたが、特に郷土の大先輩「末松謙澄」について熱く語られておりましたので、この場を借りて紹介したいと思います。

以下、末松謙澄について。


1855年、行橋(当時の京都郡前田村)にて出生。

1865年、10才の時に、郷土の漢詩人・儒学者である村上仏山の私塾「水哉園」に学ぶ。

1866年、幕府側の小倉藩(譜代大名の小笠原氏が藩主)と倒幕勢力長州藩との間で、馬関戦争が勃発(第二次長州征討の一環)。小倉藩は敗北を喫し、小倉城は落城、藩士も小倉を逃れ、田川郡の香春、その後京都郡の豊津に逃れます。
藩内各地で暴動が起き、謙澄の生家も庄屋であったため、襲撃を受ける。そこで、謙澄は、村上仏山に引き取られ、寝食を共にしながら学んだそうです。

※馬関戦争には、あの坂本龍馬も長州側の一員として参加し、高杉晋作らと共に長州側の勝利に貢献しました。

1871年、維新後の明治4年、上京(謙澄17歳)。
前述のとおり、小倉藩は徳川幕府側であったため、賊軍と見なされ、維新後の待遇は良くなく、藩内は窮乏にあえいでいたそうです。その中での旅立ちでした。

上京後、謙澄は高橋是清と知り合います。
高橋是清といえば、大正・昭和期の政治家として有名で、首相・大蔵大臣・日銀総裁などを務め、その容貌から「だるま宰相」としても親しまれたそうです(その後、1936年の2・26事件で暗殺。)。

※ちなみに、是清が共立学校(現・開成高校)で英語を教えていた際の教え子には、秋山真之(のちの海軍中将で日露戦争勝利の立役者。)や、正岡子規(近代俳句の創始者)らがいました(どちらも伊予松山藩(愛媛県)出身で、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の主人公)。

※日銀総裁といえば、現在(2013年2月現在)の総裁白川方明さん、行橋に縁のある方って知ってました?幼少期に住んでいたとか。



是清は、謙澄とは同年代ということもあり(是清が1歳上)、以後両者は同居するなど、親しく付き合います。謙澄が是清に漢学を、是清が逆に謙澄に英語を教え合い切磋琢磨しました。

謙澄と是清は、外国の新聞記事を翻訳し、日本の新聞社に売るというビジネスを考え、二人して東京中の新聞社を回ります。そうしたところ、「東京日日新聞」を発刊する日報社(のちの毎日新聞社)が記事を買うことを約束しました。これが縁で、謙澄は1873年、日報社に入社、記者として歩み始めます。

1874年、日報社に福地源一郎が主幹(のち社長)として迎えられます。
福地源一郎、長崎の人で、幕末(1861年;福沢諭吉も同行、1865年)・維新後(1870年;いわゆる岩倉使節団)の三度も、使節団の一員として渡欧。各界に多くの人脈を持ち、謙澄も福地を通じて伊藤博文・山県有朋・西郷隆盛などと知り合います。

福地は、東京日日新聞に社説欄を採り入れ、謙澄を執筆陣に加えます。この時、謙澄19歳。

謙澄は、笹波萍二のペンネームで、「元老院批判」・「教務省廃止論」など過激な内容の社説を執筆し、その内容の鋭さに伊藤博文や山県有朋らが着目したといいます。
例えば、山県は謙澄に、「二倍の月給を出すから陸軍省に来い」と口説いたそうです。
また、のち謙澄の岳父となる伊藤は、謙澄が福地と銀座界隈を歩いている折に、謙澄に出会い、あの鋭い社説を書いているのがわずか19歳の若者であることに驚いたといいます。

伊藤の熱心な勧誘があったのでしょうか、翌1875年の末、謙澄は正院御用掛として、官職に引き立てられます。

1877年、西南戦争が起きると、謙澄は山県有朋の要請で、熊本の政府軍本営に着任し、参謀任務にあたりました。山県から西郷にあてた降伏勧告状は、謙澄が下地を作ったと言われています。

1878年、官費留学生としてイギリスに留学。ロンドンにて井上馨の出迎えを受けたあと、ケンブリッジ大学で学びます。
謙澄に与えられた任務は、西欧各国の歴史編纂方法を学ぶことにあったといいます。近代国家として、自国の歴史書を編纂する必要を政府が感じていたからでしょう。

1879年、『成吉思汗』(ジンギスカン)を英文出版。これは、モンゴル帝国初代皇帝ジンギスカンが、実は源義経であったという伝説についての考察です。
出版当時、日本という国は西洋ではあまり知られておらず、清(中国)の属国と思い込んでいた人も多かったといいます。世界の半分を支配した大モンゴル帝国の皇帝と、日本の源義経をつなげることで、当時のヨーロッパ人に、日本に対する認識を高めさせようとしたPRであったといいます。

1882年、『源氏物語』を世界で初めて英訳出版(英題『“Genji MonoGatari, the Most celebrated of the classical Japanese Romance”』)。
これ一つとっても実は大事業なのですが、あまり知られていないのが残念です。

1886年、帰国。ケンブリッジ大学では、文学士と法学修士の学位取得。

同年、演劇改良会を結成。
イギリス留学中に演劇に親しんだ謙澄は、貴人や王族も訪れる西洋の演劇のように、演劇の価値を高めたいと、特に歌舞伎の地位向上を目指した。
伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、福地源一郎等の名士に呼びかけを行う。
翌年には、明治天皇による天覧歌舞伎を実現させる(市川団十郎などが出演)。
現在の歌舞伎の社会的地位は、この時の運動により高められたといいます。市川団十郎さんなどが、現在社会的に高い地位を占められている一因には、謙澄によるこの運動があったからといわれています。

1887年、内務省県治局長(時の総理大臣は伊藤博文、内務大臣は山県有朋)。

1888年、伊藤博文の娘生子と結婚。日本で初の文学博士に。

1889年、門司築港株式会社設立。
本州と九州を結ぶ交通路の構築にあたり、九州側の基幹港として門司を開発。
設立にあたっては、大金が必要になり、地場資本だけでは賄えないことから、内務省県治局長の職にあった謙澄に相談が持ちかけられる。
謙澄は親交のあった渋沢栄一に相談した結果、渋沢以下、安田善次郎・大倉喜八郎・浅野総一郎などの財界人が出資。

これにより、門司港は大いに発展し、大阪に続き日本で2番目の日銀支店;日銀西部支店が設けられるまでに繁栄しました(1893年。ちなみに、初代支店長は高橋是清)。
この門司港、現在は門司港レトロ地区として北九州随一の観光名所となっております。


1890年、第1回衆議院議員選挙に福岡8区(京築地区)から出馬、当選。以後3期務める。在任中は、内務大臣・法制局長官・逓信大臣を歴任。

※ちなみに、対立候補征矢野半弥(そやのはんや)も小倉藩出身者。馬関戦争での小倉陥落後、築城郡下城井村(現・築上町)に移住。その後、藩校育徳館(豊津高校→現・育徳館高校)に学び、福岡県会議員を経て立候補。第1回・2回と、謙澄に敗れますが、第3回は晴れて当選し、以後6期務める。在任中は九州大学誘致・八幡製鐵所誘致などに尽力。
福岡日日新聞(現・西日本新聞)社長も務めた、こちらも郷土の偉人です。築上町には半弥の銅像があり、碑名は「憲政の神様」犬養毅(首相・立憲政友会総裁。1932年、5・15事件で暗殺)の筆です。

1892年、内閣法制局長官(第2伊藤内閣)。

1897年、毛利家歴史編輯所総裁就任。幕末維新の一級資料『防長回天史』の編纂を始める(1920年に全巻刊行)。

『防長回天史』は、もともと維新官軍の長州藩毛利家の功績を後世に広めるために編纂が開始されました。しかし、伊藤博文の推薦を経て井上馨の依頼を受けた謙澄は、ケンブリッジ大学にて学んだように、歴史書は公平な第三者的立場から書かれなければ資料的価値がないとし、総裁引き受けの条件としては、公明正大を期すため、人材を長州出身者に限らず、自分に一任させることを約させました。

もともと長州讃美の歴史書を期待していた旧長州藩人からはかなりの批判もあったようですし、旧小倉藩人からも、馬関戦争時の敵方の歴史書編纂に手を貸すとは何事かとの怒りも買ったようです。しかし、謙澄はこの事業に後半生を賭けたいと職を続けました。

※編纂助手には、謙澄と同じ旧小倉藩領内出身(現・みやこ町犀川)の堺利彦(社会主義者・執筆者)も、謙澄の誘いで加わりました。
実は堺利彦、前述の謙澄の衆院選でのライバル、征矢野半弥ともともと知り合いでした。当時の豊津中学を卒業し、第一高等学校(現・東京大学教養学部)で学びますが、学費滞納で退学。その後、大阪での生活を経て、征矢野の誘いで福岡日日新聞(現・西日本新聞)に入社。編集長との対立で1年後に退社しますが、その際、征矢野から、その後の職探しについては謙澄を尋ねたらどうかと言われます。堺は、恩人征矢野の政敵であった謙澄を憎らしく思った時期もあり複雑に思いますが、実際訪ねたところ、謙澄の茫洋とした雰囲気に親しみを覚え、編纂助手として手伝うことになったのです。

1898年、逓信大臣(第3次伊藤内閣)

1900年、内務大臣(第4次伊藤内閣)。

1904年、日露戦争勃発。開戦前に渡英し、ケンブリッジ大学人脈などを活かし情報収集や戦費調達活動に奔走。
同時期には旧友高橋是清も日銀副総裁として渡英しています。イギリスでの戦費調達がうまくいったのも謙澄の働きがあったからではないでしょうか。

※アメリカには、同じく福岡県(筑前)出身でハーバード大学卒の金子堅太郎を派遣。当時のアメリカ大統領T.ルーズベルトは金子の学友であったため、親日世論形成と戦後の講和条約締結のあっせんを頼みます。

1906年、帰国。枢密顧問官。

1909年、義父伊藤博文がハルビン(現・中国黒竜江省)にて暗殺される。
以後、謙澄は政治活動の一線からは退き、執筆活動に専念したといいます。

1918年、法学博士。

1920年、『防長回天史』全巻刊行。
維新前史から始まり、天保の改革から廃藩置県までを扱う。附録を含め全12巻。
『防長回天史』は、その客観的視点から、幕末維新の第一級資料といわれており、あの司馬遼太郎も数々の歴史小説執筆にあたっては参考にされました。

同年、死去。