山田方谷、陽明学 | 福岡県議会議員 「走る、弁護士!」 堀 大助

先日のブログ記事で触れた山田方谷(『炎の陽明学』)についてのまとめのメモです(投稿が遅くなってすいません!)。
その当時、自分用にメモしたものなので、不正確な箇所などあるかもしれませんが、どういう生涯を送り、どのような業績のある人なのか、大まかには分かると思いますので、ご参考に。


(山田方谷)

文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年6月26日)
幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。

1 生い立ち 

1805年、備中松山(岡山県高梁市)で生まれる。
山田家再興のため多大な期待を受け、教育を受ける。
3歳で漢字を覚え、5歳の時、新見藩の丸川松隠(儒学者;朱子学、中井竹山塾出身。)
に朱子学を学ぶ。
9歳時、客人に学問の目的を問われ、「治国平天下」(大学の一節)と答える。

14~15歳、父母を相次いで亡くし、塾を辞め、家業(農業、製油)を継ぐ。
21歳で藩主に登用されるまで、商売で利を追い求めなければいけなかった日々。計算高く、狡猾な取引の連続で、損得の毎日。方谷は、この日々を悔恨の日々と振り返っている(決して美化することなしに)。

17歳で結婚。家業が忙しく、人手を求めてのことであったと推察されるが、後離婚の結末に至る。

2 修行の時代

21歳時、方谷の評判を聞いた藩主板倉勝職が方谷に録を与えて、勉学に励むよう命じる。
広く人材を登用するのが世の風潮になっており、その流れの中で方谷も登用されることとなる。

23歳、京都遊学。寺島白鹿に朱子学を学ぶ。

二度の京都遊学の後、博識だけを目的とするのではなく、実際に役に立つ学問を目指す決意を固める。

帰国後、藩校有終館会頭に。

27歳、三度目の京都遊学。春日潜庵と学ぶ。
陽明学に出会う。「伝習録」を読む。

29歳、江戸遊学。佐藤一斎に学ぶ。塾頭に。
同門に佐久間象山。

天然痘を患い、死線を彷徨う。

32歳、帰国後、有終館学頭に。

翌1837年、大塩平八郎の乱(同じく陽明学者)。
失敗に終わるものの、200年ぶりの幕府に対する戦闘であり、討幕運動の遠因となったとも言われる。
私塾を開く。

1840年、アヘン戦争(36歳)。
日本の教師であり続けた中国がイギリスに敗北し、欧米列強の半植民地にされたことに衝撃を受ける。世間では、日本を守るために中央集権化を進めなければ、という思想が生まれ始める。
また、天保の飢饉もあり、諸般では藩政改革の必要性が叫ばれる。

天保の改革(1840年ころ)の失敗。
厳しすぎる改革に、民衆は萎縮し、経済は停滞してしまう。

3 藩政改革の実行

1844年、勝静が国入り(方谷40歳)。
政治、経済も大局観が重要と説く。「事の外に立つこと。」
いたずらに理の道に走るのではなく、大局的立場から対策・方針を立てるべきだ。
応急処置に走り回ってはいけない。
君子は義を明らかにして理を計らない。義を明らかにすれば必ず理が後についてくる。

43歳、離婚。
公では次々改革を成し遂げた方谷だが、私ではあまり恵まれなかったようだ。
父母や子供に早死にされ、妻はヒステリーで離婚。
もちろん、妻との離婚には私を犠牲にした方谷の責任もあるだろう。大きな代償だ。
しかし、それだけ、公に尽くすというのは大変なこと。時には私を捨て去る覚悟がいるということか。

元締役に任じられる(のち、参政も兼ねる)。
藩主を継いだ勝静の抜擢。

1850年、
藩の財政再建に着手。

・債権者への直談判。再生計画書。
・自ら大減棒で率先。
・賄賂の疑いをなくすため、家計を公表。
・身分は据え置き(旧勢力に配慮。地位と身分を分離)。
・農民の生産性を下げることを防ぐため、農民には厳しい政策を採らない。
・藩の直轄事業を増やし、販売管理一切を行う(中間搾取の排除)。
・藩札の刷新(金の流れをスムーズにすれば黙っていても経済は発展する。)
※そのため、藩に対する信頼を取り戻すことが重要。藩札を貨幣と交換し集め、一気に消却。
藩の決意と揺るぎない存在を誇示。→結果的に新しい藩札は抜群の信頼度。
・実践的な軍隊を創設(奇兵隊に影響を与える)。

1853年、黒船襲来。

1858年、安政の大獄。
開国派と攘夷派の対立に、将軍後継問題も絡み、政争に(→徳川慶喜、「最後の将軍」参照)。
寺社奉行に就任していた勝静だが、大老井伊直弼の過激な弾圧に対し異議を述べたため
(方谷の意見に従い)、罷免されてしまう。

もっとも、方谷による藩政改革は順調の二文字で、当初は激しい反対のあった藩士に対する移住土着(農耕させる)政策も、成功を見る。方谷も山林に隠棲し、農業に励みつつ藩政を行う。

なお、方谷は安政の大獄で獄中にあった友人の陽明学者春日潜庵を極秘の行動で救出するが、当人には決して言わなかった。潜庵がそれを知ったのは5年ものちのことである。
方谷は、「誠心より出づれば、あえて多言を用いず」と、記している。
潜庵は、「これこそ真の友」と感激したという。

4 幕末・維新後の時代

1859年、越後長岡藩の河井継之助が方谷を訪ねてくる。
この時、継之助33歳。

方谷、継之助に対し、今は戦国ではなく、封建の時代であり、組織の時代。
(自分の生きている時代をきちんと認識せよとのこと)
1人では何も出来ない。人に使われることによって初めて何かをなし得る時代である。
その才能で人を怖れさせてはせっかくの英雄気質も生かされない。
(人と敵対・対立しては仕事をするための地位に就けない。働くことの出来る地位にまず
就くことが肝要であり、その後は人を活かして仕事を成し遂げよということか)

また、藩政改革は15年はかかると思って始めよ。功名事業に走ってはいけない。
そして、実行の際にはやりやすい目標から始めればよい。

方谷は江戸へ、継之助は九州へ旅立ち、帰国後再び師弟生活。

1860年、桜田門外の変。

継之助、長岡へ帰国に際し、方谷に陽明学全集を譲ってもらうよう頼む。
方谷、継之助に対し、陽明学を学ぶに際しては、個々の具体的な仕事を学ぶのではなく、彼の根本的精神を理解する事が重要である。神髄を見極めることである。

安政の大獄後、勝静は寺社奉行に返り咲く。
また、開国によるインフレに伴う生活苦が、尊皇攘夷運動を加速させる。

勝静、老中へ大出世。
島津久光を中心とする文久の改革。

幕府側の代表として、朝廷との交渉に当たる勝静の対応に対し、主体性がないと、以後方谷は失望を覚え、誠意と筋道を大切にするように何度も申し出る。
(大切なのは結論の成否ではなく、正しい筋道で決断するかと言うことである、と)

方谷は、勝静の人間性には敬意を払っていたが、老中として現在の日本、非常時の日本を取り仕切るには、残念ながら力量が足りない、独創的なリーダーシップに欠ける、と考えていた。今、求められるのは、非常時におけるリーダーシップであると。

1863年、
14代将軍家茂が上洛する。
世の中は開国に伴う不況の真っ直中にあり、その不満の矛先が、攘夷という思想と結びついた。攘夷という思想に、一般民衆が参加し、革命前夜の協奏曲が高まっていく。
やがて、攘夷は尊皇運動と結び付き、倒幕・革命へと流れていく。

幕府は、朝廷との約束を反故にし、攘夷を実行しなかった。
方谷は、約束されたことは実行されなければならないと、厳しい立場であった。

逆に、長州は、攘夷を決行し、下関戦争に敗北した。
薩摩も、薩英戦争で敗れるが、以後、イギリスと親密な関係を作り上げていく。

方谷は、挙国一致の体制を採り、幕府がそれを主導して行くには、攘夷決行は成さなければならないと主張していたが、それを実行したのは長州・薩摩であった。
両者は、その後討幕運動の主導権を実際に握っている。
攘夷に伴う敗北で大きな痛手と共に、攘夷の不可能を肌で感じ、現実路線へと梶を切れた
のだろう。敗北あってこその、後日の勝利であった。

1864年、勝静、老中を罷免される(だが、すぐに復帰)。

1866年、慶喜将軍就任。

1867年、大政奉還。
一節には、大政奉還の上奏文は方谷が起草したとも。

翌年、戊辰戦争勃発。
勝静の地位から、松山藩は賊軍とされる。
抗戦か恭順かにつき、方谷自身は恭順以外に無い、それが筋だと考えていたが、重臣たちの議論を待つ(疲れを待って、自身の意見を述べるという心理作戦)。
家臣たちには、藩主への忠心を傷つけぬよう説得。

官軍と降伏調停を行う。
「大逆無道」の四文字に方谷は激怒し、この文字が外されなければ戦うと通告。
結果、この文字は外される。

なお、継之助の長岡藩は最後まで反抗を続け、凄惨な結末を迎える。
方谷と継之助は師弟でありながら恭順と抗戦という全く逆の道を選んだが、
その寄って立つ処は同じだったのだろう。

なお、筆者は、継之助の死後、遺族に対する長岡市民の残虐、陰湿ないじめに対し、憤りを隠さない。日本人が著しく得意とする過剰な被害者意識、決して自分が加害者に陥ってしまうことを認めない根性、自らには一点の曇りもなく、一方的に愚弄された被害者、極度の被害者意識で自己防衛した弱者が、さらに弱い立場のものを虐げる屈折したサディスティックで残忍な群集心理のいじめの世界、と、ものすごい怒りよう。

維新後、方谷は私塾を開き、教育を行う。
全ての肩の荷を下ろし、精神の解放と自由を味わう。

また、閑谷学校の再興を行い、陽明学を教える。

1877年、73歳の生涯を終える。



(参考;山田方谷が学んだ陽明学他について)

1 儒教・儒学

祖先崇拝・祖霊信仰を基とする原始宗教から生まれる。
「孝」をその教えの中核とする。祖先から子孫への未来永劫の連続を重視。
祖先・親を大切にし、子孫を絶やさぬ事が孝とされる。

孔子によって理論化される。

2 朱子学

「気」は「理」の現象であり、理が物事の本質であると説く(理と気の二元論)。
世の中を秩序立てる考えが徳川家康に受け入れられ、官学となる。
但し、抽象的であり、実践を重んじる人間からは批判されることも。

宋学派と呼ばれる学問学派より哲学へと発展。
中心人物が朱子であった。宋学=朱子学といわれることも。

聖人君子になることが最終目標で、そのためには博学である必要があると説く。
人間の知識は質量共に徐々に向上発展するというから、長期にわたり、知識の集積を図る。
記憶・暗唱重視の教育。
四書(大学、中庸、論語〔孔子の言葉集〕、孟子)。
五経(詩経、礼記、春秋、易経、書経)

3 陽明学

明の武将でありながら、儒学者。王陽明。
朱子学に批判的で、実践的な陽明学を生み出す。

一瞬の判断で生死が別れる戦場では、実践的な知識しか役に立たず、また、最後に頼れるのは自分のみということから、吾が心のみを頼りにするという考えに。

最良の結果を導くには、その時々に応じて幾通りもの手段がある、終局目的が重要であり、過程は手段に過ぎない。

・致良知
朱子学に対し、理と気は一体であると説く。
理の現象が気である人間なのではなく、理即気、人間は理と気の一体化したもの。
人間の中に宇宙の全てがあるのだから、心(理)さえ曇っていなければ、心がすなわち理であり、天の意思、宇宙の意思そのものである。
自分の心に問うてみて納得できなければそれを正しいとは見なさない。
個人の精神の解放と自我の主張である。

従って、心から我欲を取り除いていくという作業が重要になってくる。
我欲を取り除けば全く曇りのない心は必ず1人1人にあるから、その量ではなく質が大切だ。

なお、方谷は、我欲を取り除くには誠意が最も重要であると説く。
誠意とは言ったことを成す、正しく行動すること。


・知行合一
知りて行わざるは未だ知らざるなり。
徹底した経験主義に基づく。思想と行動の結び付きを重視する。

◎ポイント
心から我欲を取り除き、聖人の心境に至る→吾が心のみに従い行動する。
という順序が大切なのであり、我欲も捨てられないうちに自分のみを信じて行動するのは間違いである。
また、死ぬことが目的なのではなく、生き抜くことの重要性を説いているのであるから
(戦場を行く抜くための実践哲学として生まれた)、殊更死を美化するようなことは無い。

死を美化するのは日本で武士道と結びついたからだろう。


・日本における陽明学
日本においては、中江藤樹を祖とし、熊沢蕃山、大塩平八郎、佐藤一斎が著名。
その他、幕末の志士に多く受け入れられる。



(その他、本紙で取り上げられていた事。)

1 日本における武家政権の特殊性・武士道

日本においては、非常時臨時政権で本来長続きしない軍事政権が、武家政権として700年も続いた。その重要な原因が武士道という精神的価値観である。

武士道。
戦場にあり、常に死を意識しなければならなかった武士によって生み出された思想。
人間にとって究極の恐怖である死と対峙し、どうやってそれを克服するか、自答した結果、武士は、死の中に飛び込んでしまうという結論を導く(武士道とは死ぬことと見つけたり)。
死を究極の美として仕立て上げることで、それを乗り越えた。

儒教からも影響を受けており、論語の「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉と同様の倫理観を有す。

武士独特の思想であったが、次第に日本中に浸透していく。

2 幕府滅亡の理由

一国の滅亡というのは、単にイデオロギーだけでなされるものではない。
必ずまず先に経済の破綻というものがくる。