1993年1月19日第1版第1刷
縄文の世から明治維新まで、興味尽きない日本史のあんな疑問・こんな疑問に、各分野の第一人者たちが楽しく答えます。ユニークな写真やイラスト、そして私たちが生きる「現代」をよりよく理解する知恵がぎっしり詰まった一冊
1 あれこれ何でも答えます
2 人間は戦いながら生きてきた
3 あなたの名前のルーツはどこに?
4 グルメに捧ぐ味な雑学
5 旅は世に連れ、世は人に連れ…
6 花のお江戸の暮らしぶり
7 日本人は世界で一番きれい好き?
8 日本語探検!文字とコトバ
9 教えて下さい、神サマ・仏サマ
10 時代劇のウソ・ホントまでタネ明かし
11 まだまだ何でも答えます
本書では、私たちが歴史に興味を持つ理由を3つあげています。
①時代がどれだけ変わっても、人間の心や生き方はそんなに変わるものではなく、いつに時代も人間が一番興味を持つのは他の人間の生き方や考え方だから
②自分が現在生きている時代や立っている位置を正確につかもうとするため
③歴史上の出来事は「結果」がわかっているので、人生や仕事を少しでも良い方向に持っていくために、ケーススタディーとして学ぶため
なるほど、納得ですね。
そういうことなので、本書は歴史人物のエピソードがいっぱいなのだろうと期待に胸を膨らませていたのだが…
違った・・・雑学(知識)メインだった~
ねらいを外した~
とはいってもせっかくの機会なのですから、何かを学ばなくてはなりません。
そこで、数多くの雑学中から一つ選ぶことにしました。
それが以下にメモする「ちょんまげ」についてです。
「ちょんまげ」の名の由来は、室町時代に中国人が中国沿岸に乱入する倭寇の丁字型の髷を見て丁髷(ちょうまげ)といったのが始まりだそう。
この丁髷の形は平安時代には生まれていたそうで、武士が鉄製の兜をかぶった時、頭が蒸れるので、兜の頭上に通気口を開けて、その穴の下の髪を剃ったことから始まったそうです。
この剃った部分を空気が抜けるので「逆息(さかいき)」といって、後に「月代(さかやき)」と言うようになりました。
こうして、頭の側面と後ろの髪だけが残るようになり、それを束ねて剃った部分に乗せる丁髷ができたのだそう。
しだいに月代を剃っているということが男の象徴にもなり、当時の女性にもてはやされるようになりました。
このように「勇者のしるし」となった丁髷は、南北朝時代に兜をかぶらない者にまで広がっていき、室町・戦国時代には一般庶民や農民のほとんどが月代を剃るようになったそうです。
江戸時代に入ると、前髪を剃ることが形式化し、月代を剃って丁髷を結うことが成人の証となりました。
元々実用的に始まったものが、モテの象徴となって、しだいに形式化されていったなんて、面白いですね。
こうやってもてはやされてきた丁髷ですが、明治になると、「散髪、制服、脱刀勝手なるべし」という「散髪脱刀令(明治4年)」によって、身分制崩壊の象徴となり、その歴史を終えることになります。
今や残っているのは時代劇のみ…。
人の世の移ろいって面白いですね。
では、今日のちょいよしワードです。
私たち人間は、いつの時代においても、古今東西の歴史から多くのことを学びながら未来を切り拓いてきました。歴史は人間たちの体験の集積であり、知恵の宝庫だ
「歴史はケーススタディー」という言葉そのものですね。
(以下長くなります。時間があれば…)
こんな感じです。
司馬遼太郎さんの小説から引用します。
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メッケルは参謀教育をするのについては現地へ行くのです。(中略)古戦場で最大のものは関ケ原です。関ケ原へ参謀たちを連れていって、メッケルが統裁官になり、参謀を石田方や徳川方にさせて作戦の訓練をするわけです。その時メッケルはさほどの予備知識なくして関ケ原盆地へ入っていったのです、両軍の配備地図だけを持って。(中略)メッケルはそれをじっと見ていて、「石田方の勝ち」とまず宣言した
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▷ところが、当時の参謀―日本人将校たちが、いや、そうじゃないんです、石田方が負けたのです、といっても、メッケルはそんなバカなことがあるか、これは石田方が勝ったのだ、といいはってきかなかった
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しかたがないので当時の政治情勢と徳川家康の威望を説明したわけです。家康が戦う前にすでに一種の世間の機運と自分の威望を計算しつくして、敵に対して内部工作をしていたこと、そして裏切り、もしくは戦場で中立をとる者が続出するであろうという期待を持っていたし、その手もうっていた―それで結果がメッケルの考えたのと違うことになったのだ、と説明した
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するとメッケルはすぐに、ああ、わかった、政略は別だ。純粋に軍事的にみれば石田方の勝ちだが、その上に政略という大きな要素がのればこれはまた別だ、といった
こいうことを知っているのとそうでないのとでは、取るべき対応が変わってきます。
地理的条件が有利でも、思慮や知略の足りないほうが負けるのです。
孫子は「天の時、地の利、人の和」という戦に欠かせない3軸を提唱しています。
地の利だけで見るとメッケルの初見と同じになるわけです。
孫子などの中国古典を熱心に勉強していた家康は、「天の時」はもちろん、「人の和」にも政略的に手を打ったんですね。
「呉下の阿蒙(あもう)」という話がありますが、家康も昔は無知に等しく、自分の運命を変えるために猛勉強したのだそうですよ。
努力することによって運命は変えられるのです。