仕える相手に認められないのは、自分が怠けているからだ。
一所懸命はたらいているのに認められないのは、仕える相手を尊敬していないからだ。
尊敬しているのに認められないのは、誠実さに欠けているからだ。
誠実なのに認められないのは、成績があがっていないからだ。
成績をあげているのに認められないとしたら、それは自分に徳がないからである
2007年9月10日第1刷
中国古典名著のすべてがわかる本―世界最高の“実学の書”①を参照ください。
「論語」の章に、自分の人生のスタンスを左右する教えがあります。
それは「和」と「同」の違い。
孔子は言います。
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▷君子ハ和シテ同セズ、小人は同ジテ和セズ(P.19)
「和」のスタンスの人は、自分の考えをしっかりと持ってまわりの人達と協力関係をタイプの人です。
一方、「同」のスタンスの人は、自分を持たず、いつもまわりに引きずられるタイプの人のことです。
こういう人を「小人」といって「君子」の反対としたのです。
そして、本書は現代の会社組織に在りがちな現象に警笛を鳴らします。
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▷私ども日本人は、聖徳太子の昔から「和」を尊重してきた。「和」はいかにも大切であって、近頃でも、「組織の和」を強調する経営者が少なくない。だが、私どもの理解している「和」は、ややもすると孔子のいう「同」になってしまうところに問題がある(P.20)
みやちゃんは部下を持つ身ですが、「同」ではなく「和」のチームを育てていきたいなと思っています。
「百花繚乱」で。
話は変わるが、日本の古いお金に「和同開珎」というのがある。
このお金の名前に「和同」とあるのは、何かしらの意味(メッセージ)が込められているのではないかと推測し、調べてみた。
紀元700年頃、武蔵国秩父郡で純度の高い銅の鉱石が発見されて朝廷に献上されました。
その銅は、当時の言葉で「やわらかい」こと意味する「和」の字をあてて「和銅」と呼ばれた。(銅はやわらかくて加工が簡単)
朝廷は、和銅が出たことを大変喜んで年号を「和銅」と改め、その記念に新しいお金を発行した。
それが「和同開珎」で、和銅に改元された年に造られたお金だから、「銅」の字を略して「同」として名づけられた。
なるほど、中国古典とはまったく関係なさそう…
と思ったら別の記述で以下のように解説されていました。
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▷中国の古典にある「天地和同」「万物和同」「上下和同」というような使われ方で、「和らぎ」とか「調和」の意味があって、よいことの前兆を表す言葉としての「和同」を銭文にしたというのが一般的な見方であるようだ(参考先:和同開珎は「カイチン」か「カイホウ」か)
経済とは「経世済民」、「世を経(おさ)め、民を済(す)くう」ですものね。
この理念において、通貨の安定は必須事項といえるでしょう。
それは国家の信用に直結するのだから。
貨幣に「和同」の願いを込めるのはいいことだと思う。
ちなみに日本のお金の単位は「円」
この言葉も「まあるい」という意味で「和」に通じますね。
また「良い〝縁〟」とも通じます。
お金は良い使い方をしましょうね!
では今日の〝ちょいよしワード〟です。
中国古典からの言葉ではありませんが、著者の守屋洋氏からの読者へのアドバイスです。
仕える相手に認められないのは、自分が怠けているからだ。
一所懸命はたらいているのに認められないのは、仕える相手を尊敬していないからだ。
尊敬しているのに認められないのは、誠実さに欠けているからだ。
誠実なのに認められないのは、成績があがっていないからだ。
成績をあげているのに認められないとしたら、それは自分に徳がないからである
むっちゃよくわかる~
これらが不足していると「和」に入れないんだなということも…
自分にも心当たりが…