もとより、十の内八、九は危険であろう。が、武士として見捨てられない。もし、斃(たお)れるようなことになっても、それは私の運命である。悔やむことはない
三本の矢に託した意外な意味、元就「名君の智謀」
仏に身を隠してまで天下を狙った、如水「陰の先見力」
義を押し通すため藩主の座を捨てた、宗茂「男の度量」
遅咲き四十にして出世運をつかむ、早雲「勝機の眼力」
生々流転、謀叛策略、権謀術数…この英雄たちの人生を切り拓く哲学とは。
1章 老いて、何を後継者に伝えるか
―毛利元就 智謀策略の指導力
2章 老いて、さらに何を学ぶか
―黒田如水 隠者先見の指導力
3章 老いて、なぜ新天地を求めるか
―立花宗茂 大器度量の指導力
4章 老いて、どう自分を戒めていくか
―北条早雲 必勝不敗の指導力
5章 老いて、なぜ強き敵と向き合うか
―秀吉・家康 人心掌握の指導力
豊臣時代の武将の中で、最高にカッコいいのが立花宗成。
彼は、秀吉の九州征伐に対抗するなどして、その実力を他の諸国から認められた大名でした。
しかし、「時代の空気に逆って意地を通しても、家臣とその家族が死滅するだけだ」と時勢を読み、秀吉に下ります。
秀吉が亡くなると、石田三成と徳川家康の間で関ヶ原の合戦が起こりました。
多くの大名が徳川方につく一方で、宗茂は、一度抵抗した自分を子飼いの大名のように大事にしてくれた秀吉の恩に報いるため、三成(西軍)につきます。
百戦錬磨の宗茂は関西に出征して大津城を攻め落とします。
そして、すぐに関が原に向かいました。
ところが、宗茂が到着する前に三成が敗れて西軍は敗北。
後の人々は言います。
宗茂が大津城を一日早く落として、関が原の戦場に間に合っていたら勝敗は逆だった、と 。
(過去記事はこちら)
宗成が唐入り(からいり/朝鮮出兵とも言われる)のときに行った〝義〟の行動がしびれるのです。
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▷文禄の役から慶長の役となって、慶長3年になって秀吉が死ぬ。それでみんな引き揚げようといいうことになった。ところでは戦争ではだいたい引き揚げるというのが一番難しい。戦争に場合はいつもそうだが、しんがりを承るということは大変なことだった。
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▷小西行長の軍は奥の方の順天というところまで攻め込んでいったから、簡単には帰れない。でもそんなことをいっていたのでは自分たちがやられてしまうから、、行長はおいてけぼりで引き揚げようと、石田三成をはじめみんながいう。
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▷そのとき、「いや、それはいかん。そんなことをしたら天下の笑いものになって、日本の武士の義が立たない。日本の武士というのはいい加減なものだといわれてしまう。自分は小西行長に何の恩も恨みもないけれども、そのような卑劣なことはできないから、絶対に行長を助けに行く、そして連れて帰る」、と強硬に主張したのである
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▷「とても救出は困難じゃ。明の大軍が途中を遮っている。行くのは地獄に向かうようなものじゃ」
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▷「もとより、十の内八、九は危険であろう。が、武士として見捨てられない。もし、斃(たお)れるようなことになっても、それは私の運命である。悔やむことはない」
この結果、全軍で助けに行くことに。
熾烈な戦いとなったが血路を開き、小西行長とその軍勢を助けて引き返すことができたのです。
もとより、十の内八、九は危険であろう。が、武士として見捨てられない。もし、斃(たお)れるようなことになっても、それは私の運命である。悔やむことはない
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