大河ドラマ「どうする家康」はそろそろ関ヶ原の季節。


決戦の場所はどのように定まっていくのだろう。両陣営がそれぞれの陣地を張る。そしてその狭間で闘いが始めるのだろうけど、互いに得手不得手がある。自軍に有利な場所に誘い込む方が勝利に近づく事ができる。

 

<関ヶ原にて> ※再掲

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そこは作戦次第だ。これまでそうした思いにあまり興味はない方だけど、今年は長篠城址に行ってみて、そこで鳶ノ巣山砦に酒井忠次が攻撃を仕掛けた事で武田軍を設楽原の鉄砲柵が待ち受ける場に追い込んだのだと知った。

 

※長篠へ(2023年)

 

関ヶ原って場所にも探してみればそんな逸話があるのかも知れない。

 

※関ヶ原で途中下車(2022年)

 

そんな時に、長沼伸一郎の文章を見つけた。以下に引用したのはいつも数学本でお世話になっている氏の文章はネット掲載されている。尚、長沼伸一郎の文章は以下ブログでも引用させて頂きました。

 

※桑名(2023年)

 

長沼伸一郎の見方って個性的だ。数学の本質を掴む力では素晴らしいけど、その思考回路で歴史も同様に語れる事に驚いた。

少しだけ抜粋してみた。もし西軍が海戦に持ち込んだら、ってユニークな発想に驚かされた。

 

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関が原で戦ったときに、東軍の最大の有利な点は何か、というと結局その兵力全体が徳川家康一人の指揮に従って西に東に迅速に非常にスムーズに動くことが出来たということで、これが東軍の最大の強みです。一方西軍は数においては劣っているわけではないが統一的な指揮というものがないから、東軍ほどに非常に迅速に動くことはできない。ひとつ兵力を集めるにしても、大勢の間を折衝しながら、組み上げて行かなければならないので、非常に時間が掛かる。関が原の戦いは、まさにそういう両軍の体質がそのまま出てしまったところだといえるでしょう。

関が原の戦いでは、西軍の方はとにかくまとめるのが大変ですから、石田三成は一生懸命折衝をやりながら、西日本へ入る入り口の近くの街道が交差している関が原で、何とか迎え撃とうとしました。

……(中略)……

西軍が、敦賀湾と、琵琶湖と、南の伊勢湾と、この3箇所に艦隊を浮かべておいて、この力をもって東軍の西日本への侵入を防いだらどうなのか。

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確かに、私もコロナ疎開で東京を離れて西のヤマを開拓し始めて伊勢湾と若狭湾はヤケに近くてその間に琵琶湖が広がっている、その傍に最高積雪記録を持つ伊吹山が聳えている事に首を傾げたのもホント。確かに三成の佐和山城址はJR彦根駅のすぐ米原寄りの場所に位置していた。

 

日本海と太平洋を結ぶラインがこんなに狭いのか、これは普段から八ヶ岳とかアルプスをトコトコ歩く人から見るとビックリだったのか。例えば、JTARレースが行われる糸魚川―静岡構造線はぶ厚い距離になっているだろう。おそらく若狭湾(敦賀)―伊勢湾(名古屋)は4分の1くらいの距離で済むんじゃないか。

 

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実はこの東と西と言うのは非常に短い地峡部でつながっているに過ぎないんですよね。陸上でみると、こんなに短い幅の狭いところで、かろうじて繋がっているに過ぎない(日本地図参照)。したがって……(中略)……

これをやるのに十分な条件が実はそろっていて、他ならぬ石田三成自身が琵琶湖のほとりの佐和山城を領地として持ってたわけですから、琵琶湖海軍の管理はもうそのまま彼がやるべき状況にあったわけです。もう一方北の敦賀に関しては、この付近はもう一人の西軍の宿将である大谷義継の領土でしたから、やはりここの艦隊の指揮権は彼が取ることになったでしょう。

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※出典はいずれも以下サイト

http://pathfind.motion.ne.jp/sekigahara.htm

 

確かに東海道新幹線であの界隈を通ると、北は伊吹山、南は霊仙山があって隘路のような地形になっている。でも鉄道敷設にあたって敢えて旧東海道と違うルートを選んだのは、まだ工事が容易な地形だったのだろう。

 

三成に海軍がコントロールできたのか、なんとも分からない。文武はそれなりに分業するので武闘派の武将がいないと無理だったのかも。伊勢の九鬼水軍や瀬戸内の村上水軍は1600年当時に東西どちらの味方をしていたのか。そんな事すら考えた事もなかったので軽く検索してみた。海賊禁止令って初耳。

 

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織⽥信⻑や豊⾂秀吉のお抱え⽔軍である九⻤⽔軍を率いた九⻤嘉隆。……(中略)……関ケ原の戦いで嘉隆に転機が訪れます。⼀族存続のために嘉隆は⻄軍 ⽯⽥三成に、⼦の守隆は東軍に与して合戦に参加。嘉隆は敗戦し、⿃⽻の答志島にて⾃害します。このとき、同じ⻄軍についていた守隆の末の弟が四⽇市の地に敗⾛し、後の四日市九鬼家に繋がります。

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※出典

https://www.kuki-info.co.jp/learn-enjoy/shizuku/shizuku_1.html

 

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天正16(1588)年、秀吉は海賊停止令を全国に発令。以下のいずれかを迫るものでした。

1、豊臣政権に従って大名となる

2、大名の家臣となる

3、武装解除して百姓となる

……(中略)……結果、武吉は海賊停止令を受け入れています。能島城は廃城となり、村上水軍は事実上の解散が決定。

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※出典

https://sengoku-his.com/1187