時期: 2023.2中旬

行程:長篠城址&史跡保存館→大通寺→医王寺→JR飯田線・長篠城駅から三河東郷に移動→設楽原歴史資料館→もっくる新城

 

新城市を巡る旅もこれで6回目になる。これまでの旅は以下の通り。

・阿寺の七滝

・鳳来寺山

・中宇利丸山

・比丘尼城址

・湯谷温泉と乳岩 ※これのみ未投稿


今回はヤマ旅ではなく、ほぼ全て舗装道路を歩いたのがちょっと悲しいところ。

 

長篠の戦いは1575年に織田・徳川連合軍が3段式の鉄砲隊で武田勝頼の騎馬軍団を撃退した歴史上の戦い。これを機に家康は三河地域における安定を確保する事ができた。

※註:遠江では1581年頃まで戦が続く。

 

<そのものズバリな看板>



ここまでは漠然と知っているのだが、以下に回ったエリアの紹介をしながら補足してみたい。

 

まずは長篠城の位置。この辺りは支流の宇連川(板敷川)に沿ってJR飯田線が運行している。そこに西から豊川が合流してくるのだが、そのY字になった合流地点にこの城が造られていた。尚、これより下流を豊川と呼ぶが、この地では宇連川に流れ込むように感じた。山城と云うには高さはなく堀は浅いものの、敵に攻め込まれにくい場所だ。尚、掘りの一部は飯田線の線路になってしまっているのがちと悲しい。


飯田線線路と宇連川の向こう側に鳶ケ巣山が聳えている。そちらにも武田軍が陣を敷いており、酒井忠次の軍勢がそこを攻め立てたので、武田の騎馬軍は否が応でも柵をめがけて突進せざる得なかったとか。
 

因みにこの鳶ケ巣山(愛知・静岡県境)は赤石山脈から張り出した弓張山地の基点になっている。と言うか、最近になってあれこれ調べて知ったもの。個人的には湖西連峰から始めた三遠の国境のヤマ旅だが、この県境を北東に辿ってくるとここに至るとの事。私としては2022年春時点でJR新所原駅から歩いて富幕山まで繋げてきたレベル(正直に言うと中山峠に再登できず中山峠~宇利峠間を奥平山林道で代用している)なので、ここまで上がってくるにはかなり険しい。
 

<長篠城址(2)>

 

 

長篠城址史跡保存館に遺された古文書を見ると、1573年に信玄が野田城を攻め落とした後に亡くなり、遺言で「信勝(勝頼の子)に家督を譲り勝頼はそれまでのつなぎとする」、「自分の死後3年間は力を蓄えるべく他国に攻め入るな」と書かれていた。

 

うん、勝頼って結構微妙な立場にいた武将だったのか。長篠の合戦で勝頼が敗退したのは信玄の死後僅か2年後だった。

 

当時、武田方の武将で負け戦を覚悟した者も多く、うち4名が分かれの杯を交わした井戸(池に見えた)が大通寺の裏手にあった。もし晩秋ならツワプキの黄色い花が咲いていたんじゃないか。

 

徳川方では鳥居強右衛門の逸話が残されているが、磔の看板はグロテスク。JR長篠城駅の隣りが鳥居駅で、もしかしてその逸話に関係する地名なのかも。勝頼が陣を敷いたのが医王寺の背後にある小高い丘。この付近に蝋梅が咲いていた。

 

<大通寺の杯井、医王寺はこの左手>

 

 

※蝋梅の写真はこちらのブログに先行アップ済。

 

 

時間の関係で設楽原の合戦場跡はパスして、信長が命名した信玄塚(武田方の大塚と連合軍の小塚)と設楽原歴史資料館に入った。

 

<三河東郷駅にも鉄砲柵、信玄塚の大塚>

 

 

これ以降、奥三河では大きな戦がなくなったが、それは武田の脅威がなくなった事を意味する。そして、長篠城は戦でボロボロになったため、家康が新しい城、新城を作るように命じた。それが新城市の由来なのだと知った。

 

<傾いた月の兜は新城市の市章と同じ、版画調の合戦絵図>

 

 

三河は家康の所領。ただ僅かな時間でもこの土地を歩いてみると、滅びた武田方への思いがそこかしこに見られた。先に書いた大通寺の杯井も然り。他にもJR長篠城駅前のさかさ桑の逸話、設楽原歴史資料館で見つけた「武田方の霊を今でも忘れずに弔っています」的なメッセージも同じ。確か信玄塚の火おんどり(大海の放下は鎌倉時代が起源)の説明文だった。

 

これって遠州地方の遠州大念仏と同じく武田繋がりだったのか。これらは信玄が戦国時代最強と称えられていた証なんだな。