中江兆民 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 

中江兆民(カラー処理)

 

【概要】
 明治期にフランスの哲学者ルソーを日本に紹介し自由民権運動へ多大な影響を与えたことから、東洋のルソーとも称されている思想家・中江兆民は弘化4年(1847)に土佐藩士の子として高知城下で生まれる。
 「兆民」は号で本名は篤介。一時期名乗っていた「秋水」は弟子の幸徳秋水に与えている。
 幼い頃から学問を学び、慶応元年(1865)には長崎へ藩の留学生として赴いているが、この時、同郷であった坂本龍馬とも親交を結び、頼まれてたばこを買いにいったという話が残されている。
 明治4年(1871)、岩倉使節団に同行してフランスへ留学留学、帰国後は仏学塾を開いた後、東京外国語学校の校長等を務めていたが、文部省と対立して辞職している。
 その後、様々な新聞の主筆を務めるなどジャーナリストとして活躍していく一方、18世紀フランス思想家ルソーの「社会契約論」を和訳、また、明治13年(1880)には板垣退助が結党した「自由党」にも関わるなど自由民権運動の理論的指導者となっていった。
 明治23年(1890)の第1回衆議院議員総選挙で当選し国会議員となったが、党内の対立に反発し、任期途中に辞職。その後、北海道に移り事業を始めているが上手くいかず、再び政界復帰に向けて動き出した明治34年(1901)に病に倒れ54歳で亡くなっている。
 青山霊園に葬られるが、死後、直ちに火葬にするよう遺言したため葬式は行われず、代わりに青山葬会場で行われたのが、日本初となる告別式でああったと言われている。
 

中江兆民の墓(青山霊園 1-イ1-24)

 

【村瀬秀甫を高く評価】
 中江兆民は、著書「一年有半」(明治34年刊行)の中で「近代非凡人三十一人」を選出しているが、その中の一人として方円社社長であった村瀬秀甫をあげている。
 兆民自身が囲碁を嗜んでいたのかは分からないが、囲碁界において旧来の家元制度から脱却し、囲碁結社「方円社」を設立した秀甫を新しい時代の改革者として高く評価していたのであろう。

 真偽は分からないが、北海道の小樽へ移った時期に兆民は小樽初の新聞「北門新報」を創刊して主筆を務めているが、その社主であった実業家の金子元三郎とは、日本へ亡命していた李氏朝鮮の革命家・金玉均を介して知り合ったという説がある。金玉均は囲碁愛好家で本因坊秀栄の親友でもあった。


 「近代非凡人三十一人」の具体的内容は次の通りである。

近代非凡人三十一人
〇余近代に於いて非凡人を精選して、三十一人を得たり、曰く、藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋(後に柳櫻)、竹本春太夫、橋本佐内、豊澤團平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ヶ谷藤太郎、勝安房、圓朝、伯圓、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎彌太郎、福澤、越路太夫、大隈太夫、市川團洲、村瀬秀甫、九女八、星享、大村益次郎、雨宮敬次郎、古川市兵衛、然り而して伊藤、山縣、板垣、大隈は興からず…。

 兆民が非凡な人物として人選したのは秀甫のほか、勤王の志士や政治家、実業家はもとより、義太夫(浄瑠璃)、歌舞伎、長唄、大道芸、落語、講談、相撲と多岐にわたっている。

 

【囲碁史紀行】 青山霊園