尾崎紅葉 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

尾崎紅葉(カラー処理)

 

 明治期を代表する小説家・尾崎紅葉は、慶応3年(1868)、江戸の芝中門前町(現在の浜松町)で「太鼓持ち」で「根付師」の尾崎谷斎の長男として生まれる。
 谷斎は9代目市川團十郎も注文に来るという有名な「根付師」であったが、紅葉は父が「太鼓持ち」をしていた事が恥ずかしく、親しい友人にもあまり父の事を語らなかったという。
 明治18年(1885)に山田美妙らと「硯友社」を結成、機関誌「我楽多文庫」にて「二人比丘尼色懺悔」を発表し文壇デビューする。なお、ペンネームの「紅葉」は生誕地近くにある芝増上寺の紅葉山からとったと言われている。
 以降、数々の小説を発表し、明治文壇の重鎮として活躍していく一方、泉鏡花ら多くの弟子を育てていった。
 明治30年より読売新聞にて連載が開始された明治期を代表する小説「金色夜叉」は、昭和以降、度々映画やテレビでドラマ化されているが、小説は紅葉の病死により未完のまま終わっている。
 「金色夜叉」のストーリーは次のとおりである。

 苦学生の間寛一には恋人の宮がいたが、宮は富豪の富山に見初められ嫁ぐ事になる。激怒した寛一は熱海で宮を問い詰め、足蹴にして去っていく。そして、数年後に寛一は世間に復讐するために高利貸しとなり、やがてお宮と再会するといったお話。
 この「金色夜叉」の中に明治期の碁会所の様子が描かれた場面が登場している。寛一が高利貸となったことを知ったお宮が訪ねてくるが、会いたくない寛一は雨の中、屋敷を抜け出し碁会所で時間をつぶすという場面である。

「続金色夜叉」第七章
 近頃思立ちて折節(をりふし)通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処に躍入りけり。
 客は三組ばかり、各(おのおの)静に窓前の竹の清韻(せいいん)を聴きて相対せる座敷の一間奥に、主は乾魚(ひもの)の如き親仁(おやぢ)の黄なる髯を長く生したるが、兀然(こつぜん)として独り盤を磨きゐる傍に通りて、彼は先づ濡れたる衣を炙らんと火鉢に寄りたり。
 (中略)
 主(あるじ)は貫一が全濡(づぶぬれ)の姿よりも、更に(さらに)可訝(いぶかし)きその気色(けしき)に目留めて、問はでも椿事(ちんじ)の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁(のが)れ来にけれど、なかなか心安からで、両人(ふたり)を置去に為(せ)し跡は如何(いかに)、又我が為(せ)んやうは如何(いかに)など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒しさには似で、小暗(をぐら)き空に満てる雨声(うせい)を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚(はなは)だ幽なり。主(あるじ)はこの時窓際の手合観(てあはせみ)に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾(ひ)ぬ袂(たもと)を翳(かざ)しつつ、愈(いよい)よ限無く惑ひゐたり。遽(にはか)に人の騒立つるに愕(おどろ)きて顔を挙(あぐ)れば、座中尽(ことごと)く頸(くび)を延べて己(おの)が方(かた)を眺め、声々に臭しと喚(よば)はるに、見れば、吾が羽織の端は火中に落ちて黒煙を起つるなり。直に揉消(もみけ)せば人は静(しづま)るとともに、彼もまた前(さき)の如し。

 古来より、碁会は宮廷、武将や豪商の屋敷、寺院などで行われてきたが、庶民にも広まってくると、床屋、風呂屋、遊郭などで碁盤を置いてサービスが提供されるようになり、それが碁会所となっていった。江戸時代の書物にも碁会所の風景が描かれていることから明治期には一般的な施設として認識されていたのであろう。
 「金色夜叉」にはこの他に、お宮の父が「碁経」を見ながら碁盤に石を並べているという記述もある。

 「金色夜叉」にはモデルがいたと言われ、主人公・間貫一のモデルは紅葉の親友で児童文学者の巖谷小波と考えられている。巖谷には紅葉の名の由来でもある紅葉山にあった高級料亭「紅葉館」(跡地に東京タワーが建設される。)で働く須磨という恋人がいたが、小波が仕事で2年間東京を離れている間に、ある出版社の御曹司に横取りされてしまう。小波はそれほど気にしていなかったが、その話を聞いた紅葉が激怒し、「紅葉館」に乗り込んで須磨を足蹴にするという騒動が起きる。熱海の海岸での有名なシーンはそれがヒントになっているという。
 「紅葉館」は明治14年(1881)に純日本風高級社交場として開業し、西洋風社交場「鹿鳴館」と共に外国人接待、政財界人の集いなどで使用されてきた。
 鹿鳴館閉鎖後は、紅葉館のみがその役目を担ってきたが、囲碁界においても、本因坊秀甫の追善碁会(明治20年(1887))、雁金準一らが設立した裨聖会(ひせいかい)の発会式(大正11年(1922))、本因坊秀哉引退碁の打ち初め(1938)の会場となるなど、たびたびその名が登場している。

 

尾崎紅葉の墓(青山霊園 1-ロ10-14)

 


 紅葉は胃がんのため明治36年に35歳で亡くなり青山霊園に葬られている。墓石の揮毫は巖谷小波の父親で明治三大書家の一人といわれた巌谷一六によるものである。また、紅葉の墓の隣りには父・尾崎谷斎の供養碑が建立されていた。
 「金色夜叉」のヒットにより一躍脚光を浴び、観光都市へと変貌していった熱海では、尾崎紅葉の偉業を讃え毎年1月17日に「尾崎紅葉祭」を開催している。昭和15年(1940)に開催された第2回紅葉祭に招かれた川端康成は、前日の16日に熱海温泉の「うろこ屋旅館」に滞在中の本因坊秀哉を訪ね午後から夕方まで将棋に興じている。しかし、秀哉は祭りが開催された17日に持病の「心臓衰弱症」悪化により危篤状態となり、翌18日午前6時55分に静かに眠るように亡くなったと伝えられている。