十七世・十九世 本因坊秀栄 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

本因坊秀栄

 

 14世本因坊秀和の次男・本因坊秀栄は嘉永5年(1852) に江戸本所相生町の本因坊邸で生まれている。(湯島聖堂西側の桜の馬場にあった別邸とする説もあり。)
 文久2年(1862)、11歳で12世林柏栄門入の養子となり林秀栄と名乗り、元治元年(1864)に柏栄の死去にともない、慶応3年(1867)に16歳三段で林家十三世となっている。
 その後、強豪との対局を重ね着実に棋力は向上していくが、中でも秀栄に最も影響を与えたのは本因坊門塾頭の村瀬秀甫であった。秀甫は父・秀和の跡目であった本因坊秀策亡き後の有力な再跡目候補であったが、12世丈和の未亡人、勢子の反対により本因坊継承の道を絶たれた後は、本因坊家とは疎遠となっていた。しかし、師匠の秀和に息子たちのことを頼まれていたのか、明治5年(1872)には秀栄をともない美濃、尾張、伊勢、京阪を遊歴している。
 明治時代に入り幕府からの支援が無くなる中、本因坊家を継承した兄・秀悦は屋敷が火災に遭ったことも重なって生活に困窮し、その過酷さからなのか明治12年(1879)に精神に異常をきたしてしまう。
 そして、秀栄と弟の土屋百三郎が協議した結果、秀悦を退隠させ百三郎が16世本因坊秀元となった。当初、二人が後継を打診していた秀甫は辞退し、同年に丈和の三男・中川亀三郎らとともに囲碁研究会「方円社」を設立している。方円社へは各家元も参加していたが、実力主義で家元の権威を認めない方円社のやり方に秀栄らは強く反発し、脱会するとともに門下の方円社社員の段位をはく奪している。方円社は研究会から会社へと再編され秀甫が社長に就任、以降、両者の長い対立の歴史が始まっていった。
 方円社は明治という新しい時代の波に乗って人々から支持されていき、一方で劣勢となった家元側は、それを挽回するため、明治17年(1884)に秀栄が本因坊家へ戻り、17世本因坊秀栄となっている。
 囲碁界の本流は本因坊家であると考えていた秀栄は、低段位で当主となった秀元では事態を乗り切れないと判断し、また、林家については養父柏栄の死後、未亡人と折り合いが悪く、林家自体は親戚が継ぎ、秀栄は碁家としての林家のみ継承していたため、これにより江戸時代より続いていた家元林家は断絶している。
 本因坊家を継承した秀栄は、井上馨や親友の李氏朝鮮の政治家・金玉均らの勧めにより、維新の立役者の一人であった後藤象二郎へ方円社との仲介を依頼。村瀬秀甫と十番碁を行って、明治19年(1886)の最終局の直前に和解している。秀栄は秀甫の八段を正式に認め、本因坊の家督を譲って、自らは土屋秀栄を名乗り、また、18世本因坊となった秀甫は、即日に五段だった秀栄に七段を贈っている。

 こうして一旦合流した坊門と方円社であったが、この時すでに病に冒されていた秀甫が二ヶ月後に逝去している。

 秀栄は本因坊位継承のため副社長の中川亀三郎へ争碁を申し込んだが断られ、19世本因坊を再襲名。再分裂した方円社では亀三郎が社長に就任し、再び対立が続いていった。
 秀栄は本因坊家再襲後、棋力が充実していき、明治31年(1898)に八段へ昇段。明治39年(1906)には推されて九段昇段、名人就位を果たしている。
 本因坊門は「囲碁奨励会(日本橋倶楽部奨励会)」を発足させ隆盛を誇っていったのに対し、最大の実力者・秀甫を失った方円社は、設立当時の勢いも無くなり、方円社を除名されていた田村保寿(後の21世本因坊秀哉)が坊門へ入るなど、人材流出が続いていった。

 

秀栄(中央)、田村保寿(本因坊秀哉・左)、雁金準一(右)

 

本因坊秀栄の墓(巣鴨 本妙寺)

 

 秀栄は明治40年(1907)に病のため56歳で亡くなるが、秀栄門下最強の田村保寿を、秀栄が金銭に汚いなどの理由で嫌っていたため後継者が不在であった。そのため、秀栄の死後、田村を推すグループと、秀栄が後継者にしようとしていたと言われる雁金準一を推すグループとの間で対立が生じ、いったん元本因坊の秀元が20世を再襲し、一年後に田村に譲るという形で事態が収拾している。