十八世本因坊秀甫 | 囲碁史人名録

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十八世本因坊秀甫(村瀬秀甫)

 

 十八世本因坊秀甫は江戸の上野車坂下で貧しい大工の家に生まれている。幼名は彌吉。弘化3年(1846)8歳の時に、幼い彌吉は自宅の隣りにあった本因坊道場から響く石の音に惹かれ、本因坊丈策に入門したと伝えられている。
 嘉永7年(1854)17歳の時に四段となり、塾頭を勤め、万延元年(1860)には村瀬秀甫と改名。兄弟子で14世本因坊秀和の跡目であった秀策と共に坊門の竜虎、碁界の圭玉と称される強豪として知られていく。
 文久2年(1862)、秀策がコレラにより死去すると、秀和は秀甫を再跡目へと考え本人にも伝えていたが、「勢子の権柄」と呼ばれる12世丈和の未亡人・勢子の反対により見送られ、秀和の長男・秀悦が再跡目に決定。失意の秀甫は越後方面などに遊歴するなど、江戸を不在にする事が多くなっていったという。

 

秀悦の後継問題を伝える新聞記事(『新聞集成明治編年史』より,昭和15)

 

秀悦の後継問題を伝える新聞記事を伝える新聞記事(『新聞集成明治編年史』より,昭和15)

 

 明治12年(1879)、囲碁界を取り巻く情勢が激変し、そのプレッシャーのためなのか15世本因坊秀悦が精神に異常をきたし隠退となる。
 弟の林秀栄と土屋百三郎は後継について秀甫に打診したが、交渉は不調に終わり、当時、まだ三段であった百三郎が家督を継いで16世本因坊秀元となった。これに対し秀甫は丈和の三男・中川亀三郎らと共に研究会「方円社」を立ち上げているが、秀甫の本因坊家継承が不調に終わったのは、東京に居なかった秀甫と本因坊家との話し合いを仲介していた中川亀三郎が、方円社設立を目論んで、秀甫へ正しく情報を伝えなかったためとも言われている。
 研究会である方円社へは当初各家元も参加していたが、実力主義を謳って、まだ段位の低い本因坊秀元を軽く扱うなど、家元の権威を顧みない運営に反発して対立が深まり、家元は脱会するとともに門下の方円社社員の段位をはく奪するという行動に出る。
 そして、方円社は会社組織に再編され、秀甫が社長、亀三郎が副社長に就任しているが、囲碁界の第一人者である秀甫をトップとし、明治という新時代の気風に乗った方円社は人々に受け入れられ大いに発展していったという。
 劣勢に立たされた本因坊家では、体勢を立て直すために秀元に代わり林家を断絶して本因坊家に戻った秀栄が17世本因坊秀栄となる。
 そして、明治17年(1884)に後藤象二郎ら囲碁界の支援者の仲介により両者の話し合いが行われ、和解に向けて秀甫と秀栄の十番碁が開始される。
 明治19年(1886)には秀栄が秀甫の八段を正式に認め、同時に本因坊を秀甫に譲っている。また秀甫は本因坊秀甫の名をもって秀栄に七段を贈っている。
 秀甫が本因坊となったその夜、酒に酔い、本因坊家伝来の「浮木の盤」を頭上にかざして部屋中を踊り歩いたという逸話も残されていて、まさに、この日が人生最良の日であったとも言える。
 その一週間後の明治19年8月6日に本因坊秀甫と土屋秀栄の名で十番碁の最終局が打たれているが、この一局が秀甫の絶局となり、「本因坊秀甫」として正式に打たれたのは秀栄との一局のみであったという。本因坊襲名披露会の準備で慌ただしい中、突然発病した秀甫は、在位から僅か2ヶ月後の明治19年10月14日に逝去。享年49歳であった。
 秀甫の本因坊就任により本因坊家当主は方円社社長を兼ねることになっていたため、秀甫の死後、秀栄は副社長の中川亀三郎に対して争碁を申し込んでいるが、亀三郎はこれを拒否して方円社二代目社長へ就任。秀栄は19世本因坊を再襲し、坊社は再び対立していくこととなる。

 

本因坊秀甫の墓(本妙寺)

 

 ところで巣鴨本妙寺の本因坊歴代の墓所にある秀甫の墓には、墓石に元丈の名も刻まれている。上台には「村瀬」と刻まれている事から、元々、この墓石は秀甫の墓として建立されたと考えられる。そして、明治43年(1910)に寺が現在地へ移転した際に、スペースの問題か、風化か何かが理由で元丈の墓が廃棄され合葬されたと考えられる。なお、墓石にはもう一人女性の戒名が刻まれているが、これは秀甫夫人のものと考えられる。

 

【囲碁史紀行】 本妙寺 本因坊家墓所