金玉均 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

金玉均

 

 本因坊秀栄の親友であり、明治期の囲碁界と大きく関わった李氏朝鮮後期の政治家・金玉均は明治15年に日本に遊学し、福沢諭吉らと親交を結んでいる。
 明治維新とその後の発展に刺激を受けた金は、朝鮮の近代化のためには清国の属国からの独立を目指す必要があると考え、帰国後に独立運動を展開。明治17年(1884)に甲申政変と呼ばれるクーデターを起こしているが、政権は清国の介入により3日間で崩壊して日本へ亡命。日本亡命中には岩田秋作と名乗っている。
 亡命中は犬養毅や右翼の巨頭・頭山満など多くの支援者から援助を受けていたが、清との関係を憂慮した政府により明治19年に小笠原諸島へ配流され、その後、体調を崩したこともあり北海道へ移っている。自由の身となり東京へ戻ってきたのは明治23年になってからである。
 囲碁が趣味だった金は、支援者を通じて方円社の村瀬秀甫(本因坊秀甫)から囲碁を教わっていたという。やがて、本因坊秀栄とも知り合い、年齢が近かった二人は意気投合し無二の親友となっていった。金が小笠原諸島に流布された際には、秀栄が度々訪れ、北海道へ引っ越した時も同行して、長期間にわたり北海道に滞在していたという。
 本因坊家と方円社の対立が激化していく中、明治17年(1884)に関係者の仲介により両者の話し合いが行われ、秀甫と秀栄が十番碁を開始。明治19年(1886)に秀栄が秀甫に本因坊を譲り和解しているが、両者の和解を働きかけた人物の一人が金玉均であったと言われる。

 また、後に21世本因坊秀哉となる元方円社員・田村保寿を秀栄に紹介したのも金玉均であった。

 

金玉均の墓(青山霊園 外人墓地)

 

 ようやく東京で暮らせるようになった金は、周囲が止めるのも聞かず明治27年に上海へ渡っているが、これは金をおびき出す罠であったといわれ、金は上海で暗殺されてしまう。死後、遺体は清の軍艦により朝鮮に運び込まれ、バラバラにされたあげく、首や手足が各地に晒されたという。
 日本の関係者は金の遺髪や衣類の一部を持ち帰り、日本で葬儀を行っている。現在、青山霊園の外国人墓地にある金玉均の墓は、犬養毅、頭山満らの支援で建立されたものである。なお、金の墓は文京区向丘の真浄寺にもある。
 都立霊園である「青山霊園」では毎月管理料がかかっているが、金玉均の墓は5年以上支払がないとして平成16年に撤去通告が出されている。特に外国人墓地では遺族が分からず撤去されるケースもあって問題となっているが、この通告に驚いた韓国大使館が代納し撤去を免れたという。