第24話

 

 

 

 

 

 

 

「友となら、苦難の中でも支え合って壁を乗り越えてゆける」

 

 

この回はトワっちがノーブル学園での生活に徐々に慣れていく様が描かれる。その中で、ルームメイトであるきららちゃんとの関係に特にスポットライトが当てられている。

トワっちは昔の記憶と生来の生真面目な性格からか、周囲から浮いているような振る舞いをしてしまうが、そこで友達のきららが助けてくれる。右も左も分からず、ただ戸惑っているトワっちに「こうしたらいい」とアドバイスをし、気づきを与えてくれる。しかし、そんなきららちゃんも大変な日常を抱えている。大きな仕事が舞い込み、今まで以上に力が入り、毎日の生活が窮屈になってしまったのだ。その結果、疲れがたまり、心にも余裕がなくなった。

 

 

そんな中、ちょっとしたアクシデントの中で再び友と相対する時が偶然設けられた。そこで彼女たち二人は、よりよく日々を生きるにはどうしたらいいか、をお互いに気づかせ合う。

トワっちは

「笑うってどうしたらいいのでしょうか?」

という自分の抱えていた悩みを打ち明けるが、きららちゃんは

「もう笑ってるじゃん。」

と返してくれ、トワっちは無理をして肩に力を入れすぎることはないのだと知る。こういうアドバイスこそ、自分ひとりでは気づけない点であるので、友がいればこその、有難い気づきだろう。きららちゃんにしても、そのアドバイスが逆に自分を鼓舞していることに気づき、今の生活に余裕を持たせるのはどうすればいいかが分かる。

結局は、友がいればこそ、トワっちのような新しい環境でもソフトランディングかつすぐに順応でき、様々なアドバイスも間近に受けることが出来る。そして、そのアドバイスの中から気づきを得、さらに上のステップを目指して成長という変化を起こしていけるのだ。きららちゃんの場合でも、ここぞという時に友の存在が救いとなり、行き詰っていたように感じていても勇気を持って前に進むことができるのだ。

やはりお互いを支え合える友は持つべきである。

 

 

 

ひまりちゃんが得難い大切なものを手に入れる回である。


彼女はこれまで、一つのことに夢中になり過ぎるがゆえに他人に理解してもらえず、友達も少なかった。


その熱中するパワーというものは彼女の長所であり良いところではあるのだが、中々それを分かってくれる人がこれまで居なかった。



しかし、そこに、いちかちゃんという心の温かい理解者が現れる。

いちかちゃんは最初は動揺しつつもひまりちゃんを受け入れ、心の中に受け入れたのである。

それは”友達になった”ということを意味し、ひまりちゃんにとっては心を根本から揺さぶられる感動的な体験であっただろう。
彼女はこれまで研究熱心でスイーツ一心という良さがありながらも誰一人それに寄り添い理解してくれるものが居なかった。
それゆえ孤独だった。幾多の凍えた記憶の数々を考えると、いちかちゃんと”友達になれた”時の心情を察するに余りあるところがある。
この物語の終盤で、ひまりちゃんはこれまでの自分と向き合い、それまでに孤独な自分と対決することになるのだが、結局は「今では自分を受け入れてくれるみんながいる」という確信のもとに勝利する。
そう考えると、この回はその入り口であり、いちかちゃんがひまりちゃんの氷の記憶を溶かし始めてくれた最初の一人だったということである。






さて、この物語は「れっつらまぜまぜ」がテーマである。
変身シーンでは各々が「自分に関する2つの何か」を混ぜ合わせる。
そうすることによってそれぞれの”らしさ”を体現した姿へと変わる。
これはこの物語の本筋のテーマではないだろうか。
つまり、6人それぞれの人生における数々の出来事、事柄を混ぜ合わせて、”自分らしさ”の答えを出すこそが目的としての物語ではないだろうか。
また、個人だけではなく6人のチームとして織り交ざっていくことによって(れっつらまぜまぜしていくことによって)出される結論もある。それはより強調された”個性”として、もしくはそのキャラの”成長”としても表れる。

ここで必ず付言しておきたいのは、これは現実生活に寄り添うものであるということだ。プリキュアはいつもそうであるように、世の中のリアルや現実世界から数々のメッセージは届けられているのである。つまりどういうことかというと、プリキュアの製作者の方々は現実にあるリアルな諸問題や人生における様々な苦難や課題を積極的に物語に反映させようとしていると考えられるからである。それは実際に”中身”を見てみると分かることで、「あー、この気持ちなんか分かるな」とか「確かにそうだよな…」とこれまでの視聴者の人生経験上、共感できる部分があるということが何より証明している。プリキュアは現実世界を無視しては有り得ないのである。大人でもプリキュアに魅せられる人が多くいるのはそういったリアルな世界をたくさんに経験しているからである。だから、彼ら彼女らは、幼女アニメでありながらプリキュアに共感するのである。


話を戻すと、プリアラは個人や集団の中でれっつらまぜまぜしていくなかで、”自分らしさ”を見つけ、成長していくというテーマが根本にあると思われる。それは現実世界でも十分有り得ることである。逆説的に言うならば、”自分らしさ”や成長ためには、葛藤や苦難が伴うだろう。それは自分一人の内なる世界で起こる渦や嵐でもあるし、ある集団の中でも起こりうる。そういった、この世界におけるリアルをマイルドに率直にこの物語は表現しているのではないだろうか。
※これは、私が「Go!プリンセスプリキュア」を見て、感想・考察・解釈等を書き残した、記憶と研究の為の覚え書きになります



第23話









トワイライト、いや、トワ様の覚悟が変化し、
4人で力を合わせていくことを決心をする回である。





トワ様は、ホープキングダムからこちらの世界に移ってからというもの、「私は罪を犯したのだから、楽をしてはいけない。一人で罪を償っていくのだ。」という自責の念を常に抱き、それは強固なものであった。


そんな頑なに自分を責め立てるトワ様に、はるはる達は「楽しく」いるように諭す。
そんなに固くならずに、困難は共に分け合って進んで行こうと、行動をもって彼女を諭すのである。

これが、はるはる達の凄さである。
はるはる達は非常に懐が深く、寛大で、母性的な優しさで彼女を包もうとしたのである。


しかし、先述した通り、トワ様は「これまで散々人を傷つけてきたのだから、笑ったり楽しんではいけない。」と、その包容をはねつける。
これはトワ様なりの、もう二度と同じ過ちを繰り返さないための信念の発露である。

とはいえ、”この信念の実行の仕方”は、後に変化していくことになる。




望月先生との偶然の出会いからゼツボーグに囚われる一連の出来事によって、トワ様の心情はさらに揺れ動き、形を変えていくことになる。


望月先生が言うように、
体と同じように心も栄養がなくなると動かなくなる。しかし、新たに栄養を補給すると動けるようになる。
トワ様はこの通りに、フローラから「あたたかいもの」をもらい、心に栄養をもらうのである。
それは布に水滴がじんわりと染み込んでいく様である。
その「あたたかいもの」とは、
分かち合う心そのもの、
気遣いの心そのもの、
または愛である。

それは、
心がじんわりと解きほぐされていくような、
甘美な体験、あの感覚であろう。

フローラはスカーレットに
一緒に夢や希望をこれからたくさん作ろう」と言い寄り、かつ、抱きしめた。
それは正に上記の「あたたかいもの」情念三つを体現したものである。しかも、抱きしめるという行為は、愛情を最も直接かつ効率的に伝える、至上の情緒表現行為だと言える。(プリキュアシリーズ全体においてもこの”抱く”という行為は重要である。)

そして、この回より、彼女の”信念”を表す「深紅の炎」一つひとつの意味が、初登場の最初の変身シーンと比べて少し変わるのである。


彼女の「深紅の炎」により良い意味を持たせていくこと、
それは「あたたかいもの」を探し、受け入れ、かつ、つくっていくことである。

彼女はそういう意味でも、
これから学園生活を通して「みんなと共に”彼女の贖罪”を行い、楽しみながら、浄化していく」のである。





キラキラ☆プリキュアアラモード第一話を観返してみた。

やはり、色々とこれまで気付かなかった新たな発見がある。

まず、このシリーズの根本必須要素である「キラキラル」とは「気(キ)」のことだ。

魂を形作るもの、精神を形作るもの、物質を形作るものの元である。

本編中でも「キラキラルは元気の元」だとあるとおりである。

逆に言うと、これがなければ全てのものは死に絶えるわけである。

実際、本編でも「キラキラル」が抜かれると、黒く変色して灰のようなケシズミと化している。



あらゆるものの構成要素である、この「キラキラル」を欲しがり、狙う者達がいる。

それがガミー達、ノワール軍団なわけであるが、「ものの成る素」、「力の源」を自分のものにしたいというのは納得だ。

というのも、現実に「キラキラル」のような根本的な神聖な(霊)力を搾取して、自分の私利私欲や、力を増すことのみを考えている存在がいるからである。

その根源力の出処は世界の中心たる、この日本であるが、そういった勢力は、日本を現在進行形で「盗りに来ている」のである。

ともかく、「キラキラル」とそれを盗りに来るノワール軍団は、現実と照らし合わせても合致する部分があるのである。




いづれ、理想世界が顕現するときが来るならば、今あるような「キラキラル(愛または霊の力)」の薄い食べ物、料理は無くなり、
人の愛情によって調理され「キラキラル」がたっぷり入った料理や食べ物だけが存在するようになるだろう。

この作品はこれを描いているのだろうと推察する。
昨日、プリキュアライブ、スイートデコレーションに参加し、

今日、イオンモール春日部の宮本佳那子さんのライブに参加。

贅沢過ぎるとも言える甘美な瞬間を過ごした。

それは眠りながら夢を見るような体験であった。


はるばる熊本から来て、胸に期待を膨らませながら東京へと降り立ち、

色んな意味での緊張の中、ライブ会場へ足を踏み入れ、めくるめく時々を過ごし、今に至る。

今はそのシャッターで切り取られたような輝かしい一瞬、一瞬の記憶を思い起こし、その恍惚さに浸っている。




声優+歌手、総勢9人による豪華プリキュアライブ、スイートデコレーションの感想としては、
最後の9人方のコメントそれぞれがよく代弁してくださっていたと思う。

彼女たちは私たちに感動を与える側でありながら、私たちが感じた、膨張された幸福空間に、浸っていたのだ。

つまり、彼女たちと私たちはエネルギーと愛のキャッチボールの中で、至福の空間を作り出し、お互いがそれを甘受していたのだ。






また、今日の宮本佳那子さんのライブは、上記の大型ライブよりも、身近に感じることができた。

こういった類の新鮮な体験というのは非常に希少ものであろう。

地方在住であったら、距離に応じてなおさらである。

そういう意味で、こちらも正しく、極上のデザートを味わいながら食したような、なんとも言えぬ心地よさが残った。





人生における心の糧や、心の財産というものは、

それぞれの人々にとってのそれぞれが、

何処かに、何時かに、存在しているのだろう。

私はこの2日間で正しくそういった類の、至純至愛至美の稀有な体験が出来たと確信している。

そして、そのことを誇りに思う。


改めて出演者の皆様、関係者の方々、誠にありがとうございました。


※これは、私が「Go!プリンセスプリキュア」を見て、感想・考察・解釈等を書き残した、記憶と研究の為の覚え書きになります。

 

 

 

 

 

 

「一度犯した罪は、二度と消えない。

 

でも、心から望めば・・。

 

なら私は、

この罪と共に、

この罪を抱いたまま、

もう一度、グランプリンセスを目指す!」

 

 

 

トワ様は、ディスピアに心の隙を突かれ、絶望し、ホープキングダムが没落するきっかけつくってしまった。そして、トワイライトとして人々の夢を奪い、封印するという数々の悪行を重ねてきた。

それはトワ様としての「罪」である。

それ故、「もう私にはどこにも行き場はない。存在してはいけないのだ。」という彼女の失念と絶望へとつながった。

しかし、幼少の頃に「希望を照らし続ける”理想人”としてのグランプリンセスになること」をカナタと約束したことを、バイオリンの重なる郷愁と希望の音色と共に思い出した。

そして、それが「自分の罪をも乗り越え、もう一度希望を抱く」ことの決心に繋がった。

「私は・・もう二度と、絶望しない!」

この心からの覚悟から、冒頭の台詞は発せられたのである。

 

 

トワ様の心情はいかなるものであっただろう。

高貴であり、輝かしい理想人としての高みへと至ることを焦るあまり、悪魔に心を誘惑され、”絶望の仲間”となってしまった。

それによって、夢を叶えるどころか、兄であるカナタを裏切り、王女としてあるまじき民を裏切るということをし、さらにはディスピアの娘、トワイライトとして人々の夢を奪い、絶望させることに加担したのだ。そこではディスピアと同じような、自らがされたことと同じ事を人々にする。人々の心をたぶらかし、夢を抱いていることを確認してはその夢が力を持たないように鍵を掛け、その扉を閉ざす。はたまたプリキュアと相対しては、夢を守護させまいと闘争する。そしてついには、自分の兄のカナタにさえ手をかける始末である。

それをすべて顧慮して、覚醒したトワ様は「私は罪人だ」と言う。

しかし、それでも兄との約束が一抹の希望となり、そこから発せられる信念が着火剤となった。その信念とは正しく冒頭の台詞である。

 

「一度犯した罪は、二度と消えない。

 

でも、心から望めば・・・。

 

 

なら私は、

この罪と共に、

この罪を抱いたまま、

もう一度、グランプリンセスを目指す!」

 

 

 

 

つまり、彼女の”炎”は、その希望の信念の発露なのである。

そして、”キュアスカーレット”になるということはその信念の究極的かつ具体的な発現なのである。

キュアスカーレットに変身した瞬間、彼女は心において絶望に打ち克ったといえるだろう。

 

 

しかし、確かに、普遍的に考えてみても、人の罪とは消えがたいものかもしれない。これまで一体どれだけの罪(カルマ)を重ねてきたのか知りようがない。そして、この世はあまりに騒がしく、心に平安を見つけることは困難であるといえる。理不尽、不条理なことが身に降りかかり、まさしく絶望してしまうことも、この世界には残念ながら、ある。しかし、そこで、どこかに希望の光を見出すことが大事であるようだ。まるで牢獄の中で太陽の一縷の光を見つけ、触れ、希望の憐れみを感じるように。

さらには、心に「罪を抱いてでも前に進む」という信念の炎を燃え咲かすということが大事である。まるで牢獄から外の希望の世界の素晴らしさをうかがい、そして、解放された時には「生まれ変わり、生きるのだ」と決心する罪人のように。

 

トワ様の姿からこのようなことを教えてもらっている気がする。

 

 

※これは、私が「Go!プリンセスプリキュア」を見て、感想・考察・解釈等を書き残した、記憶と研究の為の覚え書きになります。

 

 

 

 

 

第21話

 

 

 

 

 

ディスピアよりさらなる強大な魔の力を与えられ、パワーアップしたトワイライトが「元の姿」を取り戻す、重要回である。

 

 

フローラは、トワイライトの強力な力の前に決定的な敗北を期したかと思われた時に、ある大きな気づきを得た。

 

 

 

「トワイライトの心のにこそ希望がある。ということは、この勝負はトワイライトに元の心を取り戻させることができれば勝てる。」

 

 

 

 

初めてトワイライトと会った時、何故、彼女のバイオリンの音色に心が惹かれたのか。

それがこの瞬間で分かったのだ。

 

 

それは、心を閉ざしていてもバイオリンを弾くトワイライトからどうしようもなく「希望の力」があふれ、はるはるに届いていたからである。

 

 

それほど、トワ様の希望の力は強大であったのである。

 

 

トワイライトとの勝負に勝つには、その「希望の力」を復活させ、トワ様としての元の心を取り戻す必要があることが分かった。

 

 

そこで、カナタはトワイライトに向けて、彼女と共に幸せな時を過ごした、幸福の音色であり、夢の音色であり、希望の音色である例の演奏をした。

 

 

そうすると、もはやトワイライトとしてではなく、トワ様としての心が反応し、硬く、黒く閉ざされていた心が、明るい扉を開くように、優しく穏やかにときほぐされ、その輝きを徐々に取り戻していくようであった。

 

 

それはカナタの郷愁の音色を聞いたトワ様の涙が証明している。

 

 

 

この回でもう一つ重要なのは、トワ様は夢の方向性としてはプリンセスプリキュアの「グランプリンセスを目指す」というものと同じであったということ。

 

 

ただ、その夢に対する“思い”と“手段”を誤ってしまったが故に、このような大きな乖離を生じてしまったのである。

 

 

 

それはちょうど「闇の権力者」たちが、彼らとしては地球を良くしたい一心でこれまで様々な人類規模での計略を行ってきたことと似ている。

 

 

彼らはこれまでの人類史において「自分たちの頭脳でこの世の全てをコントロールする」という思いにより、「戦争、飢餓、食品汚染などによる人口削減」、「独善的な人類管理」を行うという、まさに誤った思いと手段であったがゆえに、この世界を結果的に絶望的な未来へと導いてしまった。

 

 

ただ、繰り返しになるが、その方向性は「地球を良くしたい」なのである。

 

 

この例示のように、如何にトワ様の「少しの失敗で」あわれで悲惨な結果を生んでしまったかを示している。

 

 

 

そのトワ様は今後、どのような未来を選択し、どのような復活を遂げるのか、それは今後のレビューで書きたい。

 

第20話

 

 

カナタの妹であるトワは、ある日、失踪していたことになっていた。

 

しかし、彼女の成れの果ては、トワイライトとしてディスピアの手下となっていた、というものであった。

 

カナタは自分の妹の生存と現在の姿を知ることになるわけだが、当の本人は全く覚えている様子はない。

 

 

それどころか、パフュームと新たなるキーを手にして、絶大なる闇の力を取り込んでいた。

 

 

あまりに大量の“闇”を身につけたことで、トワの記憶を“トワイライトとして”書き換えられていた。

 

 

この回で重要なのは、トワイライトという闇の存在が、本来、光の存在が力を解放するために使うパフュームを手にするというところである。

 

また、プリキュアという光の戦士に対抗すべく、大魔女ディスピアにそのパフュームの力を引き出すためにキーを授けられたという点も重要である。

 

ちなみに、プリキュアはキーを得た後にパフュームを得たが、この場合は順序が逆である。

 

これは、肉体が上の存在で心が下であるとする、悪の体主霊従思想を表しているともいえる。

 

 

 

 

付け加えで、カナタにとってもトワが失踪して“夢”というものを失念していた時に、はるはると出会って、改めて“夢”の素晴らしさを感じ、希望を抱き、ディスダークとの戦いに奮闘できたということ。

 

このように、はるはるとカナタ、どちらにとっても後の行く末に大きな影響を与える「運命的、決定的出会いであった」ということが重要である。

 

※これは、私が「Go!プリンセスプリキュア」を見て、感想・考察・解釈等を書き残した、記憶と研究の為の覚え書きになります。

 

 

 

 

 

19

 

 

ノーブル学園の女子寮で「宝探し」のレクレーションが開催される回である。

 

 

はるはるたちはそこで、改めて「成長」を意識する。

 

 

みなみんの「成長は自分では分からないものよ」からはじまり、

白金さんの「鏡で自分を見つめるように、自分自身を日々“成長できているか”見つめていくことが大切」といった趣旨のことを彼女たちに伝える。

 

 

他人の目を通して成長を確認することも良し、また、自分を客観的に見て成長を確認するも良し。

 

 

最も大事なことは、日常の中で進歩することを意識して、その歩を止めることなく成長していくことである。

 

 

自分が意志した夢や目標、老いや宿命に抗うことも同じく、日々、前に前にと歩んで行くことこそ、大宇宙の生成化育という偉大なる法則に則った真理である。

 

 

日月神示にも、「いつも弥栄々々に動いて行かなならん。」とある通りである。

 

 

※これは、私が「Go!プリンセスプリキュア」を見て、感想・考察・解釈等を書き残した、記憶と研究の為の覚え書きになります。

 

 

 

 

 

 

第18話

 

 

プリンセスプリキュアとトワイライト、直接対決の回である。

 

この回はプリンセスプリキュアのテーマに関わる重要な話である。

 

 

 

はるはるが目指す「花のプリンセス」がどういう物語で、それがどのように影響を与えたか等が初めて語られる。

 

そしてその「花のプリンセス」の作者と出会い、はるはるはある決心をする。

 

それがトワイライトとの決戦での形勢逆転の鍵となった。

 

 

それは、「各々の心のプリンセスを目指していい」というものであった。

 

 

それがはるはるにとっては、花のプリンセスのような「花のように笑い、裏切られてもその人を憎まず、大きな心をもって許す」という理想であった。

 

 

この考えと真っ向から対立するのがトワイライトの持つプリンセス像であり、

 

「プリンセスとは生まれながらにしてなれるものであり、努力などでなれるものではない。プリンセスとは私のような唯一無二の存在である。」

 

と彼女は信じている。

 

 

この信念とフローラの決心とがぶつかり、最後にはトワイライトが敗北した。

 

 

そして、はるはるは

「強く、優しく、美しく・・・花のプリンセスとグランプリンセスは同じ一本道にあり、この道を行けばいいのだ」

との認識を持ち、信念をより強固なものにした。