旧甲州街道の旅は、酒折駅前信号から国道411号線を西へ向かいます。
既に甲府市の市街地に入ってきているので、沿道は両側に家が並んでいます。
天気が良ければ正面には南アルプスが見えますが、石和の手前、笛吹川を渡る時に見た姿より大きく見えて、だんだんと近づいているのがわかります。
250m先の酒折宮入口交差点を右折し、北方向へ路地を入ると、130m先に一の鳥居があり、その30mさきの宮前踏切で中央本線の線路を渡り、さらに30m先にあるのが、酒折宮です。
かつて江戸方向からの旅人のために、山崎三差路から西へ150進んだ右側に、酒折宮石標があり、ここを右折して中央本線をひとつ東の石山踏切で渡って、線路沿いの道を進んでも同じ場所に出る旨を前回ご紹介しましたが、この間旧甲州街道を迂回する形になってしまうので、旧街道から最短の参道を辿った方がよいでしょう。
酒折宮の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。
山梨県で唯一、古事記・日本書紀に登場する神社です。
それによれば、尊(ミコト)は東征の折、古事記では往路は東海道を通って尾張から駿河、相模、上総を経て陸奥、蝦夷へ至ったとされます。
帰路は相模の足柄峠から甲斐の酒折宮に立ち寄り、信濃倉之坂(現在の神坂峠)を越えて尾張へ向かったとあります。
しかし日本書紀では、往路はほぼ同じですが、復路は日高見国(現在の東北地方)、常陸国
、甲斐酒折宮、武蔵国、上野碓日坂(現在の碓氷峠)を経て、東山道(のちの中山道)を信濃、尾張へと向かっています。
いずれにしても、酒折宮を経由しているのは間違いなさそうです。
そして記紀(両書)には、次のようなことが書かれています。
迩比婆理
都久波袁須疑弖
伊久用加泥都流
迦賀那倍弖
用邇波許許能用
比邇波登袁加袁
万葉仮名だと全然分からないですよね。
ここに滞在中の尊がある夜、
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」(新治筑波の地を過ぎてからどれくらい経ったろう)と問うと、「かかなべて夜には九夜日には十日を」(日数にすると、九泊十日目でございます)と御火焚の者が答えたというのです。
「新治」は常陸国の地名、筑波はつくば市やつくばみらい市のあたり、「かかなべて」とは、「日日並べて」(日数を重ねて)という意味です。
火を焚いていた老人が、五七五という下の句で返しているので、尊はこの老人の機知に感心し、彼を東国造に任命したと「古事記」には記されています。
この伝承が連歌の発祥として、酒折宮には多くの学者や文学者が訪れているそうです。
また、この神社のある位置は甲府盆地の北辺にあって、北に八入山を背負い、国府の置かれていた山梨郡と、渡来人が集住した巨摩郡西部との境目に位置し、東山道と東海道を結ぶ交差点にあります。
こういう理由から、甲斐国は山国ではあるものの、この地域は古くから畿内の朝廷と密接に結びついていた証拠ではないかといわれています。
さて、酒折宮の脇の道をそのまま進むと、小さな峠を越えて不老園という梅で有名な公園を右に見ながら700mほど道なりに進むと、右側朱塗りの甲斐善光寺山門前に出るわけですが、ここは旧甲州街道に戻ります。
酒折宮入口交差点から旧甲州街道を430m西に進んだ善光寺入口交差点から右(北)方向に伸びるのが、善光寺道です。
善光寺道に入ると160m先の善光寺ガードで中央本線をくぐり、さらに緩い坂を410m登ると、車道自体は左へカーブして右へ戻すというクランク状になっているのですが、正面に上述した朱塗りの山門が聳え、まっすぐ進むとそのまま山門をくぐって甲斐善光寺の本堂正面に突き当たります。
本堂は、長野市の善光寺(以下「信濃善光寺」)によく似ていますが、あちらの屋根は檜皮葺きで、こちらは銅葺きです。
大きさは、もとは信濃善光寺とほぼ同じ、桁行50m、梁間22m、高さ23mでしたが、江戸中期の1754年に火災により焼失し、現在の本堂は1796年に再建されたもので、桁行38m、梁間22m、高さ26mと、やや小さくなっています。
それでも東日本では最大級の木造建築物で、信濃善光寺と同じく、ちゃんとお戒壇廻りもあります。
それでも善光寺といえば本家は信濃の方ですよね。
それが甲斐にもあるのには理由があります。
甲斐善光寺は1558年、武田信玄によって創建されました。
この辺りはもともと板垣郷と呼ばれ、武田氏の連枝(武田氏初代当主信義の三男)である板垣三郎兼信が本拠を構えていました。
1555年に起きた第二次川中島の戦いで、信濃善光寺の当時の別当、栗田永寿は越後の長尾景虎(上杉謙信)に庇護されていたので、越後方として戦ったのですが、その後武田氏の調略に応じ、甲斐勢に加わりました。
こうした経緯から信濃善光寺は川中島の戦いにおいて戦火に見舞われるようになり、1557年に勃発した第三次川中島の戦い(一般に川中島の戦いとして有名なのは、1561年の第四次合戦)のあと、景虎は本尊の善光寺如来を越後に持ち帰り、直江津に如来堂(浜善光寺とよばれる十念寺)を建設して納めました。
ご本尊とともに信濃から移住した大工たちによって、町場が形成されたといいます。
しかし、この善光寺如来は本尊ではなく複製(鎌倉時代より、盛んに善光寺式如来と呼ばれる、一光三尊形式の阿弥陀如来像はつくられていました)で、本尊は武田氏に寝返った栗田氏が予め避難させており、武田信玄のもとにありました。
信玄は本尊をいったん勢力下にあった佐久郡祢津に移し、3年後に甲斐に持ち帰っています。
いきなり甲斐に移動させたのでは、信濃の国衆から反発が出ると踏んだのでしょう。
そして甲斐善光寺を開くと、既に信濃における領地を失っていた栗田永寿の子、栗田寛久を別当にしてここに信濃から持ち帰った本尊を据えました。
その後、栗田寛久は武田氏の助力で信濃の旧領を回復するものの、武田勝頼の代になって長篠の戦いで武田氏が織田・徳川連合軍に敗れ、著しく弱体化したのち、1581年に徳川氏との間で起きた、現在の静岡県掛川市にある高天神城の戦いに於いて戦死したと伝えられています。
本尊の方は、武田氏を征伐した織田信忠によって岐阜城下に移されました。
その後本能寺の変によって、織田信長・信忠親子が明智光秀に討たれると、信長の次男信雄(のぶかつ)によって清州城下に移され、さらに徳川家康によって、三河吉田、遠江浜松を経て甲斐善光寺に戻されました。
ところが、1596年に地震によって京都方広寺の大仏が損壊すると、時の権力者豊臣秀吉の要請によって、大仏の代わりとして善光寺如来が京にもたらされ、方広寺大仏殿に安置されます。
しかし、その後秀吉は体調を崩し、これは善光寺如来の祟りではないかと噂されたことから、1598年には信濃善光寺に戻されています。
今の信濃善光寺のご本尊は、長野→佐久→甲府→岐阜→清州→三河吉田→浜松→甲府→京都→長野と、40年にわたる長旅をされたわけで、それだけ各地から引っ張りだこだったようです。
というか、時の権力者たちは善光寺如来を我が物にすると、自分にも後光が射したように勘違いしていたのかもしれません。
如来像にとってはいい迷惑でしたでしょう。
信濃善光寺のご本尊は、7年に一度ご開帳がありますが、この時に公開されているのは、同じ姿をした前立本尊であり、そのものは絶対秘仏なので、見ることはできません。
これは昔からですから、上述の旅の最中も公開されておらず、厨子の中に納まったままなのではなかったでしょうか。
だからこそ、厨子の前にお立ちになる前立本尊がつくられてきたのだと想像します。
そして、現在の甲斐善光寺の本尊(国指定重要文化財)は、鎌倉時代の1198年に尾張の僧定尊が夢のお告げを得て善光寺式如来像を発願し、勧進に行脚して4万8千余人もの寄進を得ることで鋳造されたといわれ、秘仏の本尊が信濃善光寺に戻されるタイミングで、ここの本尊になったと伝えられています。
また、信濃善光寺が無宗派(運営は天台宗と浄土宗の両宗派によって行われています)なのに対し、こちら甲斐善光寺は浄土宗です。
甲斐善光寺には宝物館の源頼朝像や、金堂(本堂)中陣天井の鳴き龍など、他にも見どころがあるので、旧街道の旅とは別にじっくりと訪れたい場所です。
中央本線の特急で甲府まで行って、駅から自転車で乗りつけるのなら、北口に出て駅を背に正面の武田通りを進み、560mさきの武田交差点を右折、山梨県道6号甲府韮崎線を東へ向かい、愛宕トンネル(全長760m 両側に歩道あり)をくぐって2.1㎞さきの善光寺交差点を右折すればすぐです。
信濃善光寺は、平安の昔から庶民の寺として女性も救う(当時、有名な寺院は女人禁制の場所が多かったのですが、何といっても本尊が阿弥陀如来ですから)ことで知られていて、だから、身分、男女の区別なく、お参りすれば誰でも極楽往生できると信じられて、全国から老若男女が参詣していたのでした。
信濃善光寺と甲斐善光寺、そして長野県飯山市の元善光寺(天台宗)をお参りすると、三善光寺巡り、さらに愛知県稲沢市の善光寺東海別院(無宗派)、岐阜県関市の関善光寺(天台宗安楽律法流)、同県岐阜市にある岐阜善光寺(真言宗醍醐派)を加えると、六善光寺巡りになります。
ちょっと甲斐善光寺の話がながくなりましたので、次回にこの寺のエピソードを続けたいと思います。