解決しようと躍起になる必要はない、問題を抱えたまま生きる覚悟さえあれば | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

昨年の12月、もう10年以上の行っていない国営ひたち海浜公園に行きました。
ここで最後に自転車に乗ったのは、2013年の5月のことだったか。
たしか一人で行ったのですが、かつて家族で訪れていた場所は、その年代の家族連れで賑わっていました。
もうここを楽しめるような小さな家族もいない私は、彼らを遠目に見ながら、あのようにして子どもと一緒に遊具や花を楽しんでいた自分を懐かしく思い出していました。
しかし、5月の連休ということもあって、あまりの混雑ぶりに辟易して、早々に退園し、そこから那珂湊経由でJR勝田駅まで田園風景を楽しみながら戻ってきたものの、かえりの特急ひたち号は、ブロンプトンを置くべく背中が壁の指定席を確保しておいたのに、その場所は年寄りたちのグループの荷物で既に占拠されており、仕方なく網棚に載せたら、乗車中わたしの頭の上に落下してきて、思わぬ災難に遭ったのを思い出しました。
そのこともあって、自宅から遠いこの公園に足を向けることは久しくなかったのです。


今回は友だちと2人で園内のサイクリングコースを一周し、アイスチューリップが咲く休息施設で語らってきました。
寒いこともあって、前回の5月連休とはうってかわり、静かで広い園内で、ゆっくり語り合うことができました。
私はここへ来ると娘のことを思いだすのですが、そうした思いも含めてたくさん話ができて、ゆったりとした時間を過ごすことができました。
ただ、帰りに隣接するショッピングモールを覗いたら、こちらは海浜公園とは打って変わり、家族連れでにぎわっており、まるで世の中の裏と表を見たような気がしました。
もうこうした買い物も20年以上行っていませんが、かつてはこんな賑わいの中で家族だんらんをすごすことが、わたしが本当にしたいことだったのかと疑問に思っていました。
いまは、その年代、そして人それぞれの楽しみ方があり、私はもうこうした消費生活をよく楽しんだから、いまの自分には合わないと感じています。


着るものも、食べ物も、そして住まうことも、或いは生きることさえもそうかもしれませんが、何かを消費しながら、何かを消費せずにはいられない生活をするということは、自分のような渇望依存症者にとっては、あまりよろしくないのです。
なぜなら、いつまでも消費することをやめられなくなるだけでなく、それを続けることに何の疑問も感じなくなってしまうから。
そして、そうなれば、他人と自分とを消費して生きていることにも、無意識になってしまい、ある日突然底突きがやってくるから。
依存症のことを自分のこととして感じている人は、このことがリアルに感じられるのではないでしょうか。
私の翻訳した文章には次のような文言がありました。
『あればあるほど、もっと必要になった。奪えば奪うほど、もっと欲した』


喉が乾けば人間水分を補給するでしょう。
しかし、その水分がお醤油などに代表される塩分が濃い飲料(醤油は飲み物ではありませんが、それを飲まずにはいられないほどの病気とご理解ください)だったらどうなるでしょう。
おそらくは、ますます喉が渇いてしまい、さらに同じものを飲んでしまう、依存症とは、そうした加速主義的な要素を多分に含む病気なのです。
だからこそ、気が付いた時にはもう後戻りできない、自分ではどうしようもない、無力を認めざるをえないところにまで来ています。
私が冬にアルバイトしていた志賀高原の横手山には、北側に「魔のガラン沢」と呼ばれる立入禁止の斜面がありました。
ここを下ってゆくと、知らないうちに前は飛び降りるしかない断崖、後ろは登ろうにもよじ登ることすらできない壁のように切り立った斜面、そして横移動もできない、そんな場所に行き着いて、にっちもさっちも行かなくなるのだそうです。


私はスキーができるから、「自分で滑ってきた以上そんな馬鹿な話があるか」と若い頃には思っていたのですが、そこはもう何人もの命を吞み込んでいる、文字通りの「魔の谷」なのでした。
今は、そういう状況もあると思っています。
バックカントリーはやらないですが、吹雪のスキー場で誤ってコース外の崖に落ちてしまい、まるで新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」のように、何時間も同じところを登っては落ちを繰り返し、夕方になって漸くゲレンデに戻れたという経験をしていますから。
人生においても、同じような状況はあると思います。
何度やめようと思っても飲酒や過食嘔吐がやめられないというのは、その典型でしょう。


私のかつての知り合いに、自分は病気ではないからと飲酒しながら、高齢のアルコール依存症者たちに対して「解決はある」と盛んに発信し、活動していたソーシャルワーカーがおりました。
おそらくは英語の"Every problem has a solution.″(どんな問題にも解決はある)とか、” Not every simple problem has a simple solution.”(ひとつの問題に答えがひとつとは限らない=解決策はひとつとは限らない)あたりから取っているのでしょうが、自分のことは棚に上げておいて否認の病と呼ばれるあの病気にかかわる人間らしいと思ったものです。
いま自分がその人と同じ年齢に近づこうとしている時、その人はかつて「アルコール依存症者がアルコールの問題を克服してみんなの希望になったからとて、依存症関係の仕事に就いている限り、(つまり以前のような生活をできる稼ぎに戻らないかぎり)それを社会復帰とは呼ばない」なんて発言して、なんと浅薄な考え方の人だったのかと思います。


人間、還暦が近くなればおのずと、人生は問題解決のためだけにあるのではない、その問題を抱えながら、どう生きてゆけばよいかを福祉職として病者と一緒になって考える、それくらいのことが分かってもよさそうなものです。
一生その問題を抱えながら人生を全うすることだってできる、解決できない問題を抱えたまま、人は生きてゆける、否それどころか、その「解決できない問題」を足掛かりにして、つまりは問いそのものを深めることによって、人は人間的な成長や成熟を遂げることができる。
外野に居る他人はそれを「病気に逃げている」と言うかもしれませんが、病気そのものを知らない、経験したことのない、否認したままの人間からの戯言であれば、そのような言葉に耳を傾ける必要もありません。
またあの人は、「いざとなったら歳のせいにして逃げてしまえばよい、どうせ嫌いな思い出や人間から忘れてゆくのだから」と発言していましたが、本当にそう思って福祉職に就いていたのだとしたら、かなり憐れだし、その人にとっても、周囲の人たちにとっても痛い人生です。


結局、自己の問題から逃げ回っていたり、それを無視して他人の問題ばかりに突っかかってゆくことに時を費やしたりしていたからこそ、自己の病を解決できないどころか、問題を持つ人たちに共感することができず、それで他人や周囲の人たちを貶めて、いつまでたっても「自分は悪くない、悪いのは向こうだ」という世界から抜け出せないまま、つまり人間的な成長は遂げられないまま、脳が萎縮して妄想や不安に駆られ、退行症状を悪化させて、最後まで迷惑な人間のまま怨嗟の言葉を残して死んでゆく、そんな年寄りになるのでしたら、問題を抱えたまま、それを梃子にして自分を深めている高齢者の方が、その人がどんな職業についていようと、或いは無職のままであったとしても、たとえその後に認知症に陥って何もわからなくなってしまったとしても、私は何倍も魅力的だし、後からつづく人たちへの希望になると思うのです。
これを読んでいる皆さまは、どんな風に歳をとってゆきたいとお考えでしょうか。


この年のクリスマスミサは、友だちとともに与かることができました。
私はその友だちはもちろんのこと、こうして神さまに感謝を捧げるその瞬間に隣にいてくれる友だちを与えられたことを、やはり神さまに感謝せずにはいられませんでした。
そして、誰かが、それは人間を超えた力に違いないのですが、自分のことを気遣っていると感じたからこそ、もっともっとという、消費せずにはいられない気持ちと距離をとることができ、またそのような生き方を続けている人たちからも離れられ、今度は何か頼まれごとをしてきたとしても、きっぱり断ろうと思う自分が居ます。
自己の問題は解決はしないけれど、少なくともそれに振り回されることは少なくなってきたと感じた年の瀬でした。