旧甲州街道にブロンプトンをつれて 29.下初狩宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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(第七甲州街道踏切)

旧甲州街道の旅は、中央本線初狩駅手前の第七甲州街道踏切からはじめます。
猿橋と大月の間に、第五甲州街道踏切があって、今回が「第七」ということは、あそこからここまでの間に第六甲州街道踏切があったはずです。
しかし、大月駅のすぐ西で線路を越えたときは、富士急線ともども掘割の上に架かった橋でした。
そうやって振り返ってみると、前回ご紹介した上花咲宿の先、三軒屋交差点を国道から左折して今は行き止まりになっている、以前はそこで線路を踏切で渡り、中央本線の南側に沿って西へ向かい、線路や国道のように笹子川を渡らずに、右岸をずっと進んで源氏橋に出ていた、そこでしょう。
たしかに三軒屋交差点から路地を左上にあがったところで線路際にはフェンスが張られて行き止まりになっていましたが、踏切があったような痕跡はありました。
そう考えると、昔は第一から順番に甲州街道踏切があったのに、今残っているのはここまで第五と第七のみということです。
踏切は立体交差化した方が、鉄道にとっても道路にとっても安全なのでしょうけれど、こと旧街道だけは、踏切のままであって欲しいと思ってしまうのでした。

(聖護院道興歌碑)
第七甲州街道踏切を渡ってすぐ右にあるのが、聖護院道興歌碑です。
道興は室町時代の京都聖護院の門跡です。
彼は幼少の頃から出家して、聖護院の後継として育てられましたが、室町幕府から将軍足利義政の子どもを後継にするように申し入れがあり、別の寺に送られてしまいました。
その寺で後継になるべく修行していたところ、聖護院で門跡をしていた将軍の子が突如隠居を表明、その後継を13歳の公家の子に指名したことから、その子が一人前になるまでの中継ぎとして、聖護院の門跡になりました。
その後彼は大僧正になり、中継ぎではあるものの地位は安定したかにみえたところ、応仁の乱がおこり、立場上足利義政とその弟との間の仲介に奔走したところ、一方から内通を疑われ、再びその地位を追われて美濃国に亡命しました。
ところが、争っていた弟が急逝すると、人望のあった道興の復帰を求める声に押されて、足利義政は彼を赦免し、門跡復帰を命じました。
(どこまで自分勝手な将軍なのでしょう)

その後、56歳から2年間、彼は末寺の掌握を目的に、東国を廻り北陸から関東、そして甲州から再び北上して奥羽まで足をのばしています。
この歌碑はその時のもので、「今はとて かすみをわけて かへるさに おぼつかなしや はつかりの里」とあります。
ここを訪れたとき、帰雁の鳴き声を聞いて詠んだそうで、彼の著した『廻国雑記』を読むと、たった2年間の旅の間に、各地で夥しい数の歌と漢詩を作っています。
たとえばここ甲斐の国では1周しただけなのに、18の歌と1つの漢詩、それも岩殿山、猿橋、初狩、柏尾、差出の磯(山梨市)、躑躅ヶ崎、笛吹川、七覚山、片柳(富士吉田)、道志と、各所で詠んでいます。
思うにこの道興さん、若い頃から京の都で権力闘争に巻き込まれて、翻弄されているから、歳をとって自分が好きな旅に出た時くらい、のびのびと詩作に耽りたかったのだろうと思います。
ちなみにここ初狩の歌碑は江戸時代後期(1806年)のものですから、後世になっても彼のファンが絶えなかったということなのでしょう。


聖護院道興歌碑から左側に馬頭観音をみながら200mほどすすむと、旧甲州街道は右側からきた国道20号線に合流します。
ここから旧甲州街道29番目の宿場となる、下初狩宿に入ります。
初狩の地名は、過去に皇室の荘園であった「波加利(はかり)」が転訛したといわれていますが、鎌倉時代に源頼朝が富士の巻狩りを行うにあたって、この地から狩りをはじめたからとも、斫(は)ったように激しく削り取られた地形からついたともいわれています。
なお、下初狩の西側に中初狩がありますが、上初狩という地名はありません。
私はてっきり前述の歌のように、「初雁」からきているのかと思っていました。
というのも、付近には前回ご紹介した真木川の奥にある大峠からのぼる雁ヶ腹摺山(標高1,874m)の他に、そのすぐ北に牛ノ奥雁ヶ腹摺山(標高1,900m)、これから越える笹子峠のすぐそばに笹子雁雁ヶ腹摺山(標高1357.7m)など、「雁ヶ腹摺山」だけで3つもあるからです。


(国道に合流したら左折)
かつて東北本線に走っていた特急の「はつかり」は、漢字で書けば「初雁」で、これは秋になってはじめて渡ってくるカモ科の雁(がん、かり)という鳥を指します。
ちなみにこの鳥は、宮城県の県鳥であり、川越市の市の鳥でもあります。
その鳥が腹を摺るくらいの高さで飛ぶから、当然昔の人は山の上にかすみ網でも張って猟をしていたと思われるからです。
この古式狩猟法は、現在では鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律によって禁止されています。
このかすみ網にかかると、鳥は逃れようとすればするほど細い糸に身体を絡みとられて衰弱死する個体、羽根を痛めて不自然な態勢のまま喀血して死ぬ個体など、乱獲の問題以外にも、その猟の残酷さから禁止されたといいます。
しかしながら、山の高い場所、しかも登山者も入らないような山の中に網を仕掛けるために、不法な密猟が絶えず、取締りが厳しくなった現在でも根絶はされていないようです。

(下初狩本陣跡)

(山本周五郎生誕の碑)
国道20号線に出て100mさきの右側登り坂途中の奥脇家住宅が、御堂屋敷と呼ばれる下初狩宿(奥脇)本陣跡です。
甲府方のすぐお隣には二十三夜塔、はす向かいには大野家脇本陣跡(標識無し)もあり、ここが下初狩宿の中心だったことが分かります。
また、奥脇家住宅は戦前から戦後にかけて活躍した小説家、山本周五郎の生家でもあります。

彼の碑は中央本線の初狩駅前にもあります。
山本周五郎は本名を清水三十六(しみず さとむ)といい、1903年(明治36年)6月2日、この地で生まれました。
4歳の時に山梨県を襲った大雨によりこの地は壊滅的な被害を受け、大月駅前に転居していた彼は無事だったものの、祖父母と叔父叔母を同時に亡くしています。
その後東京の北区豊島に引っ越して、父親の仕事の関係で横浜、銀座と転居を繰り返すものの、関東大震災で被災し、豊橋、神戸と遠方への転居をします。

(左奥が脇本陣跡)
横浜に住んでいた小学校4年生の頃に、すでに教師から「将来は小説家になれ」と励まされていたそうですから、よほど文才があったのかと思いきや、質屋に住み込みで働いたり、帝国興信所(帝国データバンクの前身)の文書課で事務をしたり、雑誌の記者をしたりと、なかなか芽が出なかったようです。
山本周五郎の名前は、勤めていた質屋の主人の名前で、店の屋号でもありました。
この主人は彼が文壇で一人前になるまで、高等学校や簿記学校に通う学資を出したり、彼が仕事をしながら文章を著すのを応援したりと、物心両面で支えたことに対する恩義もあって、このペンネームを使っていたといわれています。
彼の作品中有名なのは、大河ドラマにもなった『樅ノ木は残った』でしょう。

子どもの頃、内容は分からなくても、オープニングの音楽と能面の映像がやたら怖かったのは記憶しています。
よく題名を読み違えられるそうですが、「樅=もみ」であって「かし=樫」ではありませんよ。


仙台藩で江戸前期に起きた伊達騒動がテーマの作品でしたが、東横線沿線をブロンプトンでご紹介する際、四代藩主伊達綱村の生母にあたる三沢初子の父母の菩提寺である中目黒の正覚寺をご紹介する際に読みました。
同じ歴史物の司馬遼太郎の作品などと比べ、決して読みやすい文体とは思えませんでしたが、主役以外の名もない人たちの描写に独特の雰囲気がありました。
たとえば兄を「上意討ち」によって殺された弟(宮本新八)が、藩を脱走して自暴自棄の生活を繰り返した末に侍の身分を捨てて町人の娘と夫婦になり、主人公である仙台藩奉行原田甲斐(宗輔)の元へ挨拶に来たとき、原田の内面としてこのような表現をしています。
『彼は解き放されたのだ、と甲斐は思った。新八は安からぬ代価を払ったが、「主従」という関係や、階級や、武家の義理や道徳から解き放され、「自分」を手に入れたのである。自分の好むもののために生き、そのために死ぬことができる。
―そのほうが人間らしくはないか。
少なくとも新八のためにはこのほうがふさわしく、人間らしい。芸を伸ばしてゆくには、多くの苦しみや貧困を経験することだろう。しかし、それは他人のためではなく彼自身のためである。
―結局、彼がいちばん幸せかもしれない。』
(山本周五郎著『樅ノ木は残った 下巻』 新潮文庫刊より)


(初狩駅入口信号)
現代に置き換えてみると、組織や立場のために、本当の自分を隠して、そのために自分自身に嘘をつきながら生きている人など、そこかしこにゴロゴロおります。

否、それができないなら子ども扱いされます。
この小説の主人公のように、主君のため、主家のために、敢えて悪役、或いは濡れ衣を被ったまま罪人として葬り去られるのは、江戸時代なら美徳になるかもしれませんが、現代では自分が罪を得るなどということはせず、自分の所業は棚に上げて、自分よりももっと悪い人間に転嫁、またはその所業を批難することで、自分の善良さを装うから、さいごまで自分の罪に向き合えないままです。
そうやって、他人の罪をあげつらうことで本人は自己防衛を果たしたつもりでいるのかもしれませんが、実際には世間に対する顔と、当人の本当の姿が乖離しているために、どんなに世間からちやほやされ、或いは賞賛されようとも、死ぬまで真の自分がばれる不安から解放されることはありません。
そうやって本人は逃げ切りをはかっても、自分のした他人への悪業によって、死ぬ前に自己を失う人、晴れて逃げ得をしたつもりでいても、生前の悪事が没後になって白日の下に晒されて、後世にまで汚名を残す人など、たくさんおります。

(奥に見えるのが初狩駅)
よほど自己の行った他人へのハラスメントに対する復讐が怖いのか、自己の所在を秘匿し、またグーグルのストリートビューで自分の家全体に「ぼかしのリクエスト」をしている某教育者を知っておりますが、気の毒を通り越して呆れています。
彼らは、口では未来を語りながら、その実自分に不都合なことは徹底的に隠して、その成果のみを空々しく自画自賛しているから、知らない人から見たら立派な人なのでしょう。
一方、この小説に登場する自分を取り戻した新八のように、弱い自己を認めたうえで、かつてのがんじがらめになっていた自分から解き放され、本当の自己を取り戻し、なおかつ現代であれば、同じ状況に苦しむ人たちを励ませることができるのであれば、上述した教育者気取りでアカハラを繰り返してきて、最後は内心戦々恐々として生きる老人たちよりも、本物の教育者になれるのではないでしょうか。
どれだけ高い地位についてその学校で何人有能な人材を輩出しようと、その陰で組織の論理を振りかざし、社会正義と称して意地悪く後進を潰してきた人間より、誰も知らないところでたったひとりの人を救った人の方を神さまは愛される、私はそのように考えています。
山本周五郎の作品が、一部で「キリスト教的な人間を描いている」と言われる所以でしょう。

(山本周五郎の碑は右手にあります)
下初狩宿本陣跡から120mほど国道の坂をのぼると、初狩駅入口交差点です。
次回はここから、残りの下初狩宿を経て、西隣の中初狩宿をご紹介したいと思います。