旧甲州街道にブロンプトンをつれて 26.大月宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

旧甲州街道の旅は、山梨県大月市の駒橋宿の西端にあたる、駒橋1丁目の国道20号線と旧甲州街道が分岐するY字路からはじめたいと思います。
国道20号線から右斜めに入ると、旧甲州街道はどんどん中央本線の線路に近づいてゆきます。
この辺り、猿橋付近から見えていた岩殿山が正面に大きく見えます。
東京スカイツリーと全く同じ高さの標高634mの岩殿山は、山頂直下の南面にかぶと岩、大黒岩、鏡岩などと地元では呼ばれる礫岩が露出した高さ150mもある垂直の断崖が目印で、大月市のシンボルといってもいい山なので見誤ることはありません。
山頂には岩殿権現の祠があり、これは9世紀初頭に造られたといわれています。
鎌倉期末に小山田氏の支城(本城は谷村城)になったと伝えられています。
小山田氏は桓武平氏の一門である秩父氏の流れをくみ、武蔵国の豪族秩父重弘の子有重が、武蔵国小山田庄を本領としたところから、この名前を名乗りました。


今も町田市の北部、鶴見川の源流部には小山田の地名があります。
私が中高生の頃の小山田はまだ宅地化が進んでおらず、学校が市内にあったことから、長い休みの時など鶴見川を遡って自転車で探訪しました。
私の家も鶴見川流域にあることから、町田市小山田といえば原風景のような場所だったのです。
そこから出た小山田氏が、鎌倉時代に甲斐国東部の郡内地方に移って本拠とし、やがて武田氏の勢力下に入ったというわけです。
岩殿山城には、いくつもの伝説があります。
ひとつは、山城なので水の便が悪いのを悟られないよう、鏡岩から白米を落として水に見せかけたという白米伝説です。
しかし、鳥がついばんでしまい、却って水が無いことが露呈してしまったというオチです。
鏡岩には黒く縦に筋が入った箇所があり、その跡とされています。


もうひとつは、武田氏末期の話です。
勝頼を裏切った小山田信茂は、織田方に降参すべく甲府善光寺に出頭しましたが、そこで信長の息子信忠から武田勝頼に対する不忠を咎められ、正室と長男とともに即日処刑されてしまいました。
勝頼が天目山で自害してから13日目といいます。
その頃、ここ岩殿城に残っていた側室の千鳥姫は、信茂次男と赤子の万生丸をつれて北方へ落ちのびようとしましたが、途中岩に跳ね返った自分たちの声を追手の声と勘違いし、また万生丸が泣き出したため、やむおえず崖の上から赤子を落としたとして、この場所を稚児落としというそうです。
信茂の養女は信玄の四女松姫に連れられて、この奥の松姫峠を越えて八王子に退避したという話は、八王子の信松院でご紹介しました。
この岩殿山、ガイドブックには山頂まで駅から1時間と紹介されておりますが、2019年に南面の鏡岩の間を直登する道が崩落被害にあったため、現在も通行止めです。
山頂へは駅から向かって右(東)側を迂回して裏(北)側からアプローチする、畑倉ルートを使う為、登頂しようと思ったら1時間20分はかかります。
但し、冬は山頂から富士山が良く見え、また春はお花見の場所にもなっているそうです。


旧甲州街道はその岩殿城山麓方面に向かう駒橋跨線橋をくぐったところから進路を西に向け、中央本線の線路に沿って、さつき通り商店街を西へ向かいます。
分岐から450mほどで大月郵便局前を過ぎ、さらに進むと両側に飲食店が増えてきます。
この辺りはかつて宿が立ち並んで710mさきで大月駅前の広場にでます。
大月駅は現在、中央本線の特急あずさ号が新宿、八王子と停車して山の中に入った後に、初めて停車する駅で、それは昔から中央線優等列車の原則でした。
なぜならここで富士急行線が分岐し、富士吉田方面に向かっているからです。
私が中学生の頃は、この駅で甲府方面に向かう急行かいじ号と富士吉田方面に向かう急行かわぐち号が分離される駅でした。
今は東京直通のオレンジ色の通勤型車両が富士急行線に乗り入れたり、インバウンド客向けに豪華な富士回遊特急が乗り入れたりと、ずいぶん環境が変わりました。
むかし中央本線の急行列車には、この富士急行線に乗り入れるかわぐち号のほか、甲府止まりのかいじ号(現在は特急に格上げ)、身延線にのりいれるみのぶ号、飯田線に乗り入れるこまがね号、そして松本まで行く、或いはその先大糸線に乗り入れるアルプス号など、行き先によって名前の違う急行列車がたくさん走っていました。
アルプスに乗って、あるいはあずさに乗って白馬へ行くなんて、そのなかでも最も遠距離列車であり、利用するたびにわくわくしていました。


旧甲州街道は駅前広場と駅舎を右に見て、そのまま正面の細い道に入ります。
駅舎と広場を挟んで1軒、そして細道の右側に1軒と、ビジネスホテルがあります。
つい最近駅の北側にもう1軒開業しましたが、富士山に行くのに、富士急行の1番列車は6時32分発なので、中央線の1,2番列車に乗ってくればじゅうぶん乗り継げます。
また、乗り鉄としてここに宿泊して中央線の下り一番列車に乗っても、高尾から来る列車に接続しているので、あまり意味がなく、どうせなら甲府以西に宿をとった方が賢明です。
ということで、ここは釣り客や、中央線沿線のハイキング客、そして市に所用のある人たちの宿になっているみたいです。
むかしテレビでやっていた、旧街道の歩き旅で、ここに宿泊して笹子峠を越えて石和温泉を目指すという企画をみましたが、かなりの強行軍でした。
徒歩の場合、少しでも笹子峠に詰めた形で宿をとるか、さもなくば尺取虫方式で前日までに笹子駅まで歩いておいて大月に宿泊し、翌朝は笹子まで電車で移動してから峠越えを目指すと良いと思われます。
ちなみにブロンプトンでも峠部分は押し歩きになるものの、自転車で走れる区間もたくさんあるので、歩き旅よりははるかに楽だと思われます。


古い商店も並ぶ細い路地をそのまま280m進むと、国道20号線に合流するので、そのまま西へ進みます。
すぐさき国道の左側にあるのが大月市役所です。
人口はは2万人と少しですが、交通の要衝として栄えています。
大月市が誕生したのは意外に古く、1954年(昭和29年)のことでした。
山梨県でもっとも東寄りの上野原市が発足したのは2005年(平成17年)ですから、かなりの先輩格です。
戦後は八王子同様に織物産業で栄えたそうですが、いまは衰退しているそうです。
市役所の120mさきで旧甲州街道は右折するのですが、そのちょっとさきの国道左側に、「明治天皇お召換所阯」の日があります。
ここが脇本陣跡でした。
江戸時代も大月宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠えを抱える宿場で、富士講の人たちは左へ、旧甲州街道をささに進む人は右に曲がります。
右折したらすぐ、昇月橋で富士急行線、次の昭和橋で中央本線を跨ぎます。
中央本線から富士急行線へは、JRの大月駅から渡り線を伝って乗り入れるかたちになっていて、金網越しではあるものの、昇月橋からはその様子がよくわかるようになっています。


昭和橋をわたったらすぐ左折して、中央線の線路に沿って坂を下って行き、新大月橋で富士吉田から流れて来た桂川を渡ります。
このすぐ右手で、桂川と笹子川が合流しており、旧甲州街道は笹子川の谷に沿って詰めてゆくわけですが、相模川の源流は桂川の方です。
桂川の源流は山中湖で、平塚の南で相模湾に注ぐまで、実に113㎞の河川長があります。
右側を見ると、桂川と笹子川の合流点がみえます。
また、新大月橋をわたる直前に、かつては左に道が分岐していて、ここが富士山道追分でした。
いまは右手の擁壁上に石仏が並んでいるのが目印です。

富士講は、江戸時代に盛んになった民間信仰で、富士山をご聖体として、富士登山を行としていました。

富士講には3絛の掟というものがあり、以下のような内容でした。

1.よき事をすればよし。あしき事をすればわるし。

2.かせげば福貴にして、病なく命ながし。

3.なまければ、貧になり病あり、命みじかし。

家業に励むことが幸福への道という教えは、江戸の庶民にとっては分かりやすかったのですが、幕府からはあまり歓迎されなかったようです。

明治になって、今度は国家神道から弾圧をうけ、やむなく教派神道に組み込まれたものの、もとは神社とは関係ないのだそうです。

都内や横浜市内にも富士講の遺構はたくさんありますから、江戸時代後期は大山講とならんで庶民の旅の動機を支えていたのだと思います。

こうした道々の石仏は、レジャー化してしまった富士登山の人々をどう思っているのでしょうか。

これから先の旧甲州街道は、このうち笹子川に沿って遡ることになります。
新大月橋を渡ってから370mほどで、また国道20号線に合流します。

次回はここから次の下花咲宿をご紹介しようと思います。