旧甲州街道にブロンプトンをつれて 25.駒橋宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

旧甲州街道の旅は、猿橋駅の西、殿上(猿橋)一里塚跡から100mさきの、国道と旧道が分岐する地点から700m先、東京電力駒橋水力発電所からはじめます。
1907年(明治40年)、東京電燈によって建設されたこの発電所は、日本ではじめての本格的な大規模落水発電所で、出力1万5千キロワットを、送電電圧5万5千ボルトの高電圧で、76㎞東にある、都電荒川線の早稲田駅や神田川の豊橋に近い東京電力早稲田変電所(現在は同社の社宅に併設されています)に送電していました。
ここより5.4㎞南西、富士急行の禾生(かせい)駅近くにある二ヵ堰用取水堰堤付近で桂川の水を取り込み、水道橋や水道トンネルを経てこの南側の山の上に水を導水して、ここで一気に落水させて発電機を回します。
なお、水はここ駒橋で桂川に戻されるわけですが、そのすぐ下流には、上野原の東にある八ッ沢水力発電所への取水口があります。

こうして、桂川(相模川)に沿った地域で、その高低差を利用して発電施設が並んでいることは、鉄道や高速道路から見えません。
中央本線は、水圧鉄管の下をくぐっているので、よほど注意して車窓の上の方を見ていなければ、ここがそうだとは分かりませんし、高速道路は対岸で防音壁に阻まれています。
また国道20号線は水圧鉄管を跨いでいるものの、一瞬で通過してしまうし、停車できるような場所ではありません。
だから、こういう産業施設見学もまた、旧道を自転車で辿る時でしかじっくり見ることはできないのです。
たしか、旧東海道でも蒲原宿の東木戸付近に、同じように日本軽金属株式会社富士川第二発電所があって、電車の車窓では一瞬でした。

さて、旧甲州街道は駒橋発電所の水圧鉄管を跨いだすぐ先で、左斜め上に向かう歩道を登ります。
桜が並木として植えられた車は通れない幅の坂道を登ると、130m先の第五甲州街道踏切で中央本線を渡ります。
第五って、これまで踏切で甲州街道が中央本線を渡った箇所は一度も無かったように記憶しています。
大概は道の方が線路を橋で跨ぐか、あるいは道の方が鉄道ガードの下をくぐるかでした。
いま一度、旧甲州街道と中央本線の交差を数えてみると、東京駅下、四ツ谷駅上、新宿駅上、日野駅下、高尾~相模湖間の両界橋、同・小仏宿の赤レンガアーチ、同・小原一里塚跡付近の長久保架道橋下、同・新上の山トンネル上(2)、相模湖~藤野間の与瀬トンネル上、同天屋トンネル上、藤野~上野原間関野の跨線橋、同・新小淵第一トンネル上、同新諏訪トンネル上、そしてここと、15番目ということがわかります。
(今度東海道のように、中央本線と旧甲州街道が何度交わるのか表にしたいと思います。)
旧東海道と違い、旧甲州街道の方は日本橋のスターと早々に東京駅の下を横切りますし、あちらの方みたいに新幹線なる時間泥棒列車(笑)は存在しないので、鉄道との親和性はより深いように感じます。

げんにここ第五甲州街道踏切は、人と軽車両しか渡れない小さな踏切ですが、目の前を特急あずさが通過してゆくと、「ああ、これに乗れば諏訪湖や安曇野、信濃大町や白馬に行けるのだな」と感じ、旅情をそそります。
各駅停車だって、上りは高尾・東京行きに対し、下りは松本行きや長野行きがありますからね。
中央本線は、何気に昔ながらの長距離鈍行列車が残る、青春18キッパーには嬉しい路線なのです。
これで昔のように、急行アルプスが走っていたらどんなに懐かしいかと思います。
なに、もうすぐリニア中央新幹線ができるでしょうと?
都市間の移動時間が短くなるのは便利で良いと思いますが、車窓マニアの「乗り鉄」としては、旅情ある乗り物としてのリニアには全く期待していません。
なぜならモグラ新幹線同様に、殆どがトンネルと知っているからです。
まさか東京の地下鉄、たとえば有楽町線とか大江戸線に旅情をもとめ、「世界の車窓から」みたいな雰囲気を味わおうという人はいないでしょう。
もちろん、政治的な思惑で「地域の生活を守る」などと偽のお為ごかしをして、学問の本分を忘れたような行動を繰り返した挙句に引退し、自分は上手に人生を「あがった」などと勘違いしているもと学者老人たちの存在に、何の希望も興味も抱いていませんが。

さて、第五甲州街道踏切を渡って90mほど登ると、旧甲州街道は国道20号線に出ます。
ここには富士急バスの横尾橋バス停があります。
国道を40mほど上野原方面に戻ると、旧街道沿いの石仏が集められている、関場の石仏群がありますが、国道の向こう側ですし横断歩道を渡ってまわり込まねばなりません。
このように、旧甲州街道はとくに山間部では新しく付け替えられた道と離合を繰り返すため、道端の庚申塔や石仏が一か所に集められているケースが多々見られます。
石仏ウォッチングするにしても、もともとあった場所が分かりにくいので、大変かもしれません。
旧甲州街道はここで国道へは進まず、合流点から斜め左へのびている、国道より一段下の並行した路地をゆきます。
200m先の右側にあるのが、厄王大権現です。
ここが旧甲州街道25番目の宿場、駒橋宿の中心です。
東海道五十三次で25番目の宿場といったら、越すに越されぬ大井川を渡り、山坂の難所である小夜の中山を越えた日坂宿(静岡県掛川市)なのに、甲州道中は大月の手前でもう二十五次目です。
東海道に比べ、こちらはどれだけ宿場間の距離が短いのかという感じです。
げんに猿橋宿から駒橋宿の距離は1.5㎞(二十二町)、次の大月宿まではさらに短く、1.1㎞(十六町二十九間)しかありません。

厄王大権現は、ここから南に1.1㎞、菊花山山中にある厄王山奥の院から運ばれたという桃岩なる安山石が本殿向かって右側に鎮座しています。
これは犬目峠、鳥沢、猿橋ときた桃太郎伝説に因んで、毎年二月三日に行われる節分祭に、鬼供養を実施し、この石を触ると邪気を祓い、願い事が叶って、安産と健やかな子育てができるといわれています。
私はてっきり北側、桂川を挟んで対岸にある百蔵山が桃太郎伝説発祥の山かと思っていたのですが、違いました。
この菊花山、江戸時代後期の文献には、レピドシクリナという何やら意味深な名前の有孔虫(アメーバ同様の原生生物)の化石である菊花石が採れたことからこの名前がついたといいます。
いまこの化石をみると、確かに菊の花にも見える細かい線状の模様がついています。

(百倉山)

けれども、大月市街のすぐ南にそびえているため、こんな山があるために日当たりも悪いし町が発展しないと、貧乏山とかバカ山という俗称もあるそうです。
しかし、その真逆の話も存在しています。
この神社の境内に別途ある、平和祈願の石のいわれがそれです。
これは終戦間際の1945年(昭和20年)8月13日午前8時32分、米艦載機の空襲に際して、投下された爆弾のひとつがこの下の桂川河原で炸裂し、その際河原にあった1.5トンの岩を100m以上の高さまで飛ばして、住宅密集地であるにもかかわらず、奇跡的にここに落ちたため、地元の人は大権現の霊験により救われたと、この石をそのように名付けたということです。
戦闘機による空襲ということで、おそらくはロケット弾だと思うのですが、山間部ゆえに前述した水力発電所や市街地を狙ってもうまく当たらずに、そういうことになったのだと思いますが、それにしても戦争における人間の執念深さを感じるエピソードではあります。

なお、前回甲陽鎮撫隊の話に出た全福寺は、厄王大権現と桂川を挟んで対岸にあります。

厄王大権現の前をすぎ120mさき、右側に秋葉権現常夜灯のある短いけれど急な坂をのぼり切ると国道20号線に合流します。
この坂は短いけれど登れば登るほど斜度がきつくなり、てっぺんで国道と斜めに交わる為、横着して勢いをつけて登ると国道に飛び出しそうになるので注意しましょう。

なお、厄王大権現の上から、菊花山の下を通って南に市街を迂回する大月バイパスが2022年に全通しているので、ここから中央自動車道大月インターチェンジまでの区間の国道20号線は、比較的交通量が少なめです。
すぐ先、進行方向右側コンビニ、左側ドラッグストアの前に横断歩道(信号機なし)がありますので、そこで横断し国道の左側を西へ進みます。
そのすぐ先右側、土蔵と大きな樫の木がある連格子の玄関とすりガラスの引き窓が並んでいる家が、旅籠橿屋(かしのや)跡です。
門柱に屋号があるので、すぐに分かります。
駒橋宿自体は猿橋宿と大月宿に挟まれた小さな宿場で、本陣や脇本陣は無く、旅籠四軒を数えるのみだったようです。

国道20号線を240m進んだ横断歩道が先にあるY字交差点を斜め右の路地に入ります。
この交差点を国道側にすすむとすぐ左手奥には大月市立図書館があるのですが、この付近に小山田出羽守妾婦宅跡があったそうです。
これは1547年に武田晴信(信玄)が、信州佐久にある志賀城を攻めた際、生け捕られた城主笠原清繁の後妻を小山田信有が側室として下賜され、ここに屋敷を設けて住まわせたとのことです。
志賀城の戦いと言えば、当時の関東管領であった上杉憲政の援軍を頼みとして籠城したところ、その援軍は小田井原の戦いで武田方の重臣が差し向けた、板垣信方や甘利虎泰ら重臣勢の迎撃を受けて壊滅してしまい、晴信は守備兵の士気低下を狙って討ち取った首三千を城下に並べたうえで攻城戦に移り、城主をはじめとする城兵たちはことごとく戦死して、生き残った者たちは多摩川の奥にある黒川金山に2貫文から10貫文で身請け(人身売買)されたといいますから、ここに屋敷を与えられた城主の妻は、子どもたちがいたとしてどうなったかは別に、厚遇されたほうなのでしょう。
 

それにしても、佐久からここ大月まで、ずい分と遠方に連れ去られたものです。
この志賀城の残酷な戦ぶりによって信濃の国衆の間には甲斐に対する遺恨がのこり、武田晴信は以降の同地方での戦いには頑強な抵抗にあって苦戦を強いられることになります。
げんに翌年に行われた上田原の戦いで、板垣信方は甘利虎泰とともに討ち死にしてしまいました。
佐久地方では今でも、甲斐の人たちのことを恐れ、或いはよく思っていない人たちもいるといいますから、信玄の名声も場所によりけりです。
次回はこのY字交差点から大月宿のなかにはいってゆきます。