ごらんよ空の鳥を | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

わたしの友だちは、よく鳥や虫など小さな生きものにも声掛けをします。
小鳥に話かけるなんてきくと、キリスト教徒の自分としては、アッシジのフランチェスコを思い出します。
アッシジのフランチェスコとは、12世紀から13世紀にかけての修道士で、フランシスコ会を開いた人といえばおわかりでしょうか。

このブログでも時々取り上げる「聖フランチェスコの祈り」は、彼の作ではないものの、彼の精神をあらわしたものとして、その名がついています。

彼は1182年、イタリア半島中部のアッシジで、裕福な織物職人の息子として生まれました。

礼儀正しいものの、浪費家で享楽的な生活を送っている中で、騎士になって出世を目論む俗物だったと言います。

それが大病をきっかけに以前のようには楽天的に生活できない自己を発見し、ハンセン氏病者への奉仕や貧しいも人たちへの施しをするようになり、夢のお告げに従って父の不在時に家の財産を処分して教会の修復にあてたことから親と不仲になり、縁を切って出家したといわれています。

以降、現在のフランシスコ会の前身となる托鉢修道会の設立と運営に携わり、1226年の10月3日に故郷で没したといわれています。

アッシジのフランチェスコで有名なのは、リストの楽曲や絵画でお馴染みの、「小鳥たちに説教をするフランチェスコ」でしょう。

彼は信仰心のない人たちを回心させたり、教義の異端を奉ずる人たちを断罪したりすることに興味はなく、ひたすら神を賛美し、あらゆる被造物を兄弟姉妹として愛し、率直かつ謙虚に福音を述べ伝えることを使命としていました。

だから、小鳥たちに説教といっても、日本語の語感からくるように「ガミガミと口やかましくお説教をしたわけではありません。

彼が地面にいる鳥たちにほかの動物たちへと同じように挨拶を送ると、鳥たちは逃げもせずにじっと彼を見つめ、樹々の枝にとまっていた鳥すらも地面に舞い降りて来たので、彼は次のように優しく語りかけたと言います。

「わたしの兄弟である鳥たちよ。お前たちは、お前たちをお造りになった神を大いに讃え、つねに愛さなければなりません。

というのも、神さまは、お前たちの身を覆うための羽毛を、飛ぶための羽根を、そして、お前たちに必要なすべてのものを与えられるからです。
他の動物たちのなかでも気高くお前たちを造り、きれいな空気のなかに住むことをお許しになったからです。
お前たちは種を蒔くことも、刈り入れをすることもない、それにもかかわらず、神は自らお前たちが何も心配もないように見守ってくださっているのです」。

この逸話をきいて、馬鹿馬鹿しい、鳥にはそこにじっとしている理由が他にあったのだと考えるでしょうか。

それとも、この聖人にほかの人にはない、何か特別な雰囲気を感じ取って、その物言いを聴いていたと考えるでしょうか。

わたしが添乗員をしていたとき、山の宿で「朝から鳥たちがピーチクパーチクと囀っていて目が覚めてしまった」と安眠妨害されたことに不平をこぼしたお客様がいらっしゃいました。

これからの季節はとくに、朝は鳥たちがにぎやかにさえずります。

ウグイスなど、お寺の回廊を掃除しながら口笛で彼らの鳴き声を真似すると、必ず返事をしてきます。

ウグイスに限らず、小型の鳥たちの鳴き声は、オスがメスにアピールする求愛の意味と、ほかのオスになわばりを主張する意味とがあるのだそうです。

道理で向きになって「ホーホケキョウ」と必ず返してくるわけです。

このお寺、天台とか日蓮ではなく金剛一乗の真言宗だから、法華経はあまり関係ないだけれどなと思いながらも、いつ向こうが根負けするかと思いながら、口笛を吹き続けていました。

でも、彼らは捕食者に居場所を教えてしまうという点では、命懸けでさえずっているわけですから、あまりからかってはいけません。

人間も、美しい歌声は異性をひきつけるのかもしれませんしね。

冒頭の友だちは歌うことが好きなのですが、鳥や虫など、小さな生きものから、ペットとして飼われている動物にまで、普段からよく声掛けをしています。

声掛けといっても、やさしく「どうしたの?」という感じで、シジュウカラやセキレイ、コゲラなどの小鳥は、あの特有の小首をかしげた姿で飛び立たずにじっとしています。

小動物園などでゲージに入って展示されているツルや孔雀なども、じっくりと話しかけていると、奥から出てきて手前に姿をみせ、ひと通りこちらを見つめたあと、また元に戻ってゆくという塩梅です。

わたしはその情景をみながら、さすがに大人になってその人の真似はできないのだけれど、子どもの頃は、とくに一人の時は、傍らに寝そべる猫に、或いは窓辺に来る鳥に向って内心で話しかけていたように思います。

それでツルが恩返しをしてくれたり、虫が迫りくる危険を知らせてくれるわけではありませんが、人間、自分とは違うと自分よりも劣っている(と思い込んでいる)動物たちに対して「鳥ってきらい、あの脚が気持ちが悪い」と一線をひいてしまうよりも、兄弟姉妹として対等に話しかける人の方が謙虚で居られるように感じます。

というのも、おなじく生を共有するものとして、生きる喜びを分かち合うことができるから。

野鳥の小鳥の寿命は、せいぜい2~3年といわれています。

となると、出先などで出会う彼らは、まさに一期一会かもしれません。

そして、種が違っても、彼らの一生懸命生きる姿に共鳴できて声をかけるのなら、その優しさは自分にも返ってくるのではないでしょうか。

彼らがじっとこちらに注意していれば(それがたとえ警戒だったとしても)尚更です。

どうも傍で観察していると、話しかけているうちに向こうも胸襟を開くような雰囲気に変わります。

これに対し、相手のことを思い諮ることなく自分の立場ばかりを主張し、しかも負の物言いばかりを言い立てて、「私はそうすることで精神のバランスを保っているのだ」と言って憚らない人たちがいます。

酷い場合は、自分は不正を正しているのだ、とばかり正義面を装っています。

装っているということは、自分のしていることをある程度は理解して、敢えて弱い立場の人たちを狙い撃ちにしてそういう行為を繰り返しているということです。

そういう人は、雨が降ったら雨雲を恨み、晴れたら晴れたで太陽の眩しさに嫌悪してと、まさに何でもかんでもネガティブなフィードバックを何十年も続けています。

こういう人といると、こちらがどんどんげんなりとしてゆき、元気と生きる勇気とを失ってゆきます。

彼らは「お前が悪いからだ」「お前の努力が足りないからだ」などと他人のことはあげつらうのに、自分のしてきたこと、今自分がしていることには全く頓着しません。

呆れることに、内省ができないことを他人の責任に転嫁してまで自己正当化します。

わたしは最近そうした人たちのことを振り返って、だから私はまともになるわけにはゆかなかったし、いくら努力しても謙虚になることはできなかったのだと合点がゆきました。

あのような、周囲に対して文句ばかりを言っている人は、それだけで不幸を呼び寄せていることに自分では気付けないまま、怒りや恨みの海に漂いながら、徐々に自己を失ってゆくのでしょう。

しかし、そういう人たちに対しては何も感じることがなくなってしまいました。

まさに愛想も尽きたというところです。

彼らのことを思い煩う暇があったら、少しでも自分の成長のために自己の内面を見るようにしたいと思います。

わたしは自助グループであれほど欲し願っていた「謙虚さ」は、今生きていることに対する感謝の気持ちが基盤になっていて、どんな小さなことに感謝できない人は、生きていることにももちろん感謝などできず、不満だらけで文句や愚痴ばかりこぼして生きる、逆に何気ない日常の小さな情景にも、別に信仰があって「神の愛」だとか「仏の慈悲」を感じなくても、当然のこととしてではなく、この日常はたくさんの奇跡で編み上げられていることに気が付き、それを畏れ敬い、或いは感謝の念を抱くことができるのなら、生きていることに対して、たとえそれが自分の望み通りでなかったとしても、「これでよい」と満足することができるのではないか、苦楽生死を等しく感謝するとはそういうことではないかと、小鳥に向って語りかける友だちを見ていて思った次第です。

なによりも、お寺の回廊掃除で身につけたウグイスの鳴き真似の口笛が、こんなところで役に立つとは思いませんでした。

そういえばその人、空の雲もよく観察しているのです。

一緒にいて小さな旅、それも心の旅をしていると、そのことに思い至ります。

そういうことを考えていたときに、たまたま教会のミサで歌った聖歌の歌詞が、心にハッとするものを呼び覚まし、そうか、謙虚さの大元は感謝の念だったのだと知りました。

それをご紹介して結びに代えようと思います。

ごらんよ空の鳥 野の白百合を 

蒔きもせず 紡ぎもせずに

安らかに生きる
こんなに小さな命にでさえ

心をかける父がいる
 

友よ 友よ今日も 賛えてうたおう

すべてのものに しみとおる
天の父の慈しみを

 

ごらんよ空の雲 輝く虹を
地に恵みの雨を降らせ
鮮やかに映える
どんな苦しい悩みの日にも
希望を注ぐ父がいる

 

友よ 友よ今日も 賛えてうたおう
すべてのものに しみとおる
天の父の慈しみを

(典礼聖歌391番 作詞:菅原 淳 作曲:新垣 壬敏)