自転車への青切符(反則金制度)導入について感じたこと | 旅はブロンプトンをつれて

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今月(2024年3月)5日、自転車による交通違反への反則金制度(いわゆる青切符=交通反則告知書)の導入を柱とする道路交通法改正案が閣議決定されたとのニュースが巷に流れました。
今までも罰金制度(赤切符=告知票すなわち道路交通法違反事件迅速処理のための共用書式)は自転車にも適用されてきたのですが、今回はそれよりも比較的軽い違反に対する反則金制度が自転車にも対象となるというお話です。
成立すれば、2026年までには実施されるとのことで、マスコミはまたぞろ悪質な違反や事故が目立っているからという「大本営発表」を垂れ流すばかりです。
それで免罪になるとは全く思っていませんが、悪質になったのは自転車だけでなく自動車や歩行者も同様です。
自転車やオートバイの「ながら運転」は、もちろん致しませんし、相当に悪質(というか依存症という病気だと思っていますが)ですが、車の「ながら運転」や「ながら歩き」がもっと多い割合で存在していることも自転車に乗りながら観察しております。
おそらく、常日頃から「ながら歩き」をしている人が、自転車にまたがったり車のハンドルを握ったりすると、「ながら運転」になってしまうのだと感じているので、歩くときも、もちろん車の運転をしているときも、なるべくスマホは身から離して、できれば鞄の中にいれておくようにしています。
(ナビとして使う場合などを除いて)

わたしは自転車に日常的に乗っているから、そのことを常に思います。
運転中に電話がかかってきたら、車も自転車も脇にとめてから電話に出るのは当たり前で、ハンズフリーホンを使おうと思ったことはありません。
それは、実際にスピーカーホンにして運転中に電話に出ると、マイカーでも運転がおろそかになることを実感しているからです。
法律で許されているからとて、自分で危ういと感じていればそれをしないのは、リスクマネジメントとしては至極当然です。
それを歩行者にあてはめれば、いくら問題になっていないし交通弱者だし、人とぶつかっても大したことにならないし、だいいち法律で禁じられていないからと屁理屈を並べて「ながら歩き」を習慣とするよりも、歩くということは、自転車を運転したり車を運転したりしていることと同じことで、歩くなら歩くで一所懸命歩くことに集中した方がよいと、そういう行為は自分で忌避するのが自然ではないでしょうか。
旧東海道を日本橋から三条大橋まであるいたとき、歩行者を観察していてそのことを強く思いました。
結局、法律で規制すれば何とかなる問題ではないのだと思います。
自分も含めた人間が、他者の気持ちに鈍感になったというか、寄り添うような気持にはさらさらなれないというか、それ以前に想像力が欠如してきているのだと思います。
以前なら、もっと他者を思いやる人が多かったように思えるのですが、そういった心の豊かさを保った人間が、どんどん少なくなっているように思います。
だいたい、ちょっと想像力を働かせれば、自転車でながら運転をしたり、人の大勢歩いている場所でスマホを操作したり通話しながら歩くことは憚られることだと気が付くはずです。
しかし、今は「それの何が悪いの?皆やっていることじゃん」と平気で言ってのける人が殆どですから。

さて、その「自転車にも青切符を」の話ですが、その内容についてみてみましょう。
警視庁のホームページによると、【悪質・危険な態様の違反】として、次のような具体的な場合に違反取り締まりの対象になるとあります。
・警告に従わずに継続した場合
・車両や歩行者に具体的な危険を生じさせた場合
・交通事故に直結する危険な運転行為をした場合
一番目は、警察官などから警告があったにもかかわらず、それを無視して違反行為を継続した場合ということで、分かりやすいです。
たとえば「信号は赤ですよ」と叫んでいるにもかかわらず、無視して赤信号を突破したような場合でしょう。
二番目は「具体的な危険」というのが問題です。
裁判でも良くもめるときいていますが、「具体的な危険」というのは具体的にはどういうことでしょう。
自転車が傍を通り抜けることによってよろめきそうになったというのは、具体的な危険が生じたと判断しても良いでしょうか。
スマホをみながら斜め横断している歩行者を避けようとして後ろを通り抜けようと迂回したら、その歩行者がスマホに目を落としたままくるりと反転してぶつかりそうになった場合、これは具体的な危険が生じたのでしょうか。
生じたとして、どの時点で「生じた」とするのでしょうか。
三番目の「交通事故に直結するような」という表現はどうでしょう。
都会の交通量の多い道でハンドルから両手を離して自転車を進行させたら、それは「交通事故に直結するような運転行為」と評価できると思いますが、誰もいない、見通しの良い田舎道で同じことをしたらどうでしょう。
小径車のような不安定な乗り物ではなく、ロードサイクルのような安定的に走る自転車かどうかでも、直結するかどうかは変わってくるように思います。
また、交通事故というのは対人の場合はだいたい相手のあることです。
相手の人の歩き方や運転の仕方によっても、交通事故に直結するかどうかが変ってきます。

法律というのは、曖昧であってはいけないと昔法学教室で学びました。
ひとつは、あいまいだと守る側に迷いが生じるから。
もっともなことだと思います。
グレーゾーンが広かったら、そこで様々な解釈が成り立ってしまい、どこまでが遵法で、どこからが違反なのかが分かりません。
もうひとつ、取り締まる側に恣意的な取り締まりをゆるしてはならないという点があげられていました。
これも尤もです。
悪質かどうか、危険な態様かどうか判断するのに、個人的な基準を用いて取り締まられたらたまったものではありません。
けれども、この違反行為の認知の前提としてあげられている文言をみると、どうも曖昧模糊としています。

結局、道路交通法改正云々以前に、私たちが道路を利用する時の心がけ次第なのだと思います。
いつも思うのですが、自転車や車を運転するのなら、そして歩くなら歩くでその行為に集中することです。
心を込めて運転するとか、気概をもって歩くとか、そう言い換えてもよいかもしれません。
結局私たちは自分のために要領よく振舞うことで、そうした運転者としての、歩行者としての矜持を失っているのではないでしょうか。

法律が改正されるからこれを機にということでなく、楽な方へ楽な方へなびくあまりに、失ってきたものについて再考する時期にきているのではないか、それならば法律の施行など待たずとも、明日からでも気を付けることができるのではないか、またぞろ「自分たちこそ正義」みたいに騒いでいる言説は無視して、心からそう思った次第です。

ひとつの方法として、色々な場所を走ってみる、様々な自転車で走ってみるというのはどうでしょう。

人は経験が豊かになるほど、自分とは違う立場の人のものの見方を想像できるようになるといいます。

(但し、想像力が逞しい人でないと無理ですが…)

その話はまた別に書こうと思います。