平和を求める祈り―Aled Jones ver.(フランシスコ平和の祈り) | 旅はブロンプトンをつれて

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フランシスコ平和の祈り(Prayer of Saint Francis)は、仏教でいったら般若心経のように有名な祈りです。

実は聖フランシスコ(アッシジのフランシスコ)が書いた祈祷文ではなく、原典はフランス語→イタリア語→フランス語と翻訳されたあとに、英語になって世界に広まったため、細かな違いを含めれば、英語の翻訳祈祷文だけで20種類以上あるのだそうです。

Youtubeをみれば、マザーテレサがノーベル平和賞受賞のスピーチで、会衆に唱和を求めて祈る姿や、故・ダイアナ妃のお葬式の際に、生前彼女が好きだったこの歌を参列者が皆歌うシーンが残っています。

近年では、教皇フランシスコが来日して長崎平和公園で、この祈りをスピーチに引用しました。(2019年)

今回は祈りそのものには触れませんが、それが讃美歌(聖歌)になって広く世にひろまっている曲のうち、とくにイギリスの歌手、アレッド・ジョーンズさんの歌う歌詞について翻訳を試みてみました。

イギリス・ウェールズ出身の彼は、11歳で聖歌隊長を務めている際に透き通ったボーイ・ソプラノの美声が注目され、レコードデビューを果たしました。

その後、変声期を経てミュージカル俳優となり、現在は宗教曲やスピリチュアル音楽の歌い手や、司会者として活動しています。

ミュージカル俳優だけあって活舌がしっかりしているので、英語の歌詞はきわめて聴き取りやすく、歌詞もわりと単純なので、歌を覚えるにはもってこいの曲です。

翻訳はあまたされているので、今回は直訳に近い意味をとって日本語になおしてみました。

 

Make Me a Channel of Your Peace 日本語訳

Make me a channel of your peace,
Where there is hatred, let me bring Your love,
Where there is injury, Your pardon Lord,
And where there's doubt, true faith in You

神さま、あなたから溢れ出る平和を運ぶ水脈の一端に我が身をつらねさせてください
憎悪や怨恨のはびこる場面にあなたの愛を、
諍いや喧嘩の絶えない場面に主の赦しを
疑惑や疑念のぬぐえない場面にあなたの真実をもたらす水の路として働けますように。

(※1)Oh Master, grant that I may never seek,
So much to be consoled as to console,
To be understood, as to understand,
To be loved, as to love with all my soul

ああ主よ、慰めるよりも、慰めて欲しいと、
理解するよりも、理解して欲しいと、
誰かを心より愛するよりも、私を愛してくれと欲して行動することのけっしてないように
どうか私をお導きください。

Make me a channel of your peace,
Where there's despair in life let me bring hope,
Where there is darkness, let me bring light,
And where there's sadness, bring Your joy

神さま、あなたから溢れ出る平和を運ぶ水脈の一端に我が身をつらねさせてください。
絶望の淵に佇む人に希望を、
闇の中にさまよう人にあなたの光を、
悲しみに打ちひしがれる人に、あなたの喜びを運ぶ役割を私に担わせてください。

ref ※1

Make me a channel of your peace,
Where there's despair in life let me bring hope,
Where there is darkness, let me bring Your light,
And where there's sadness, bring Your joy

神さま、あなたから溢れ出る平和を運ぶ水脈の一端に我が身をつらねさせてください。
絶望の淵に佇む人に希望を、
闇の中にさまよう人にあなたの光を、
悲しみに打ちひしがれる人に、あなたの喜びを運ぶ役割を私に担わせてください。

ref ※1

Make me a channel of your peace,
For when we give, we will ourselves receive
It is in pardoning that we are pardoned
And in dying that we gain eternal life
And in dying that we gain eternal life

神さま、あなたから溢れ出る平和を運ぶ水脈の一端に我が身をつらねさせてください。
(私たち人間すべては)ひとに自らを与えてこそ、我々自身を取り戻し、
他者をゆるしてゆくなかで、自己のゆるしが得られ、
最期は死に身を横たえて、永遠(とわ)のいのちを賜るのですから。
最期は死に身を横たえて、永遠(とわ)のいのちを賜るのですから。

 

 

【翻訳ノート】

channel:チャンネルですが、発表当時テレビは一般化していないので、カナル、すなわち流れ、水路、川 運河、導水路、道筋などがいちばん近いと思われます。

console:慰めるとして有名な”comfort”は、気遣う、肉体的な痛みを和らげる、に対し、consoleは、より積極的な意味で、精神的な苦痛や不安を和らげる、の意。

gain:「得る」、「獲得する」と訳すと、自分の力でつかみ取るというイメージになってしまうので、「到達する」「高みにあげられる」というニュアンスから、(神さまから)「賜る」と訳しました。

【翻訳した感想】

サビの部分、”Oh Master, grant that I may never seek,~”が否定形になっているのは、私たち人間は本来、他人を恨み、疲れるとすぐ喧嘩腰になり、ちょっとしたことで疑念に陥り、自然本能から私を慰めてくれ、理解してくれ、愛してくれと相手に求める、いわば「自分ファースト」が本来の姿です。

だから神さまに対して、「他者を慰めるように、理解するように、愛するようにしてください」と祈るよりは、「自分を、自分をとならないようにように、あなたのお力でお導きください」と祈る方が、より人間らしいということなのでしょう。

これについては、三浦綾子さんのエッセイにこんな言葉がありました。

「聖書には、愛とは耐えることであり、忍ぶことだと書いてある。

寛容でねたむことをしないとも書いてある。

自分の利益を求めず、恨みを抱かず、すべてを信じ、すべてを望むことだとも述べてある。

こうした愛は、本来私たちにはない。

その、ないと認めるところから、自分と他の人への理解が深まる」

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」ではじまる、有名なコリント人への手紙13章を引用しているわけですが、人間の出発点は、耐え忍ぶことをせず、狭量で人に嫉妬し、己の利益を求め、恨み、不信の中で希望を持たないのが出発点だと考えれば、フランシスコ平和の祈りに願われた理想が、たとえひと時にせよ、誰かに対してそのように行動する自己に与えられたなら、それは奇跡なのではないでしょうか。

そのときそれがどんなに些末な出来事や行為であったにせよ、自分の力ではなく、人間を超えた大きな力が自分に働いて、自己が水路の役割をほんの少しだけ果たすことができたと実感できたなら、人生に於いてこんなに素晴らしいことはないのではない、どんな宝にも勝ると思うのです。