人生の同伴者と「来た、見た、信じた」―2023年の復活祭に考えたこと(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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2023年4月9日の日曜日は教会で主の復活を祝う祭儀がありました。
復活祭、英語でいうイースターです。
キリスト教徒以外にはピンと来ない話ですが、イエスさまが十字架上で息を引き取って葬られてから三日目に復活されたことを記念する、クリスマスよりも大事な行事です。
カトリック教会では洗礼式も併せて行われるので、毎年この時期になると自分が受洗することになった経緯や動機を思い起こし、個人的に信仰心を新たにするという意味でも大切な時間です。
本当は、土曜日の夕方に行われる復活徹夜祭の方に出席したかったのですが、今年に限っては、4月8日は花祭りでした。
つまり、お釈迦さまの生誕祭の翌日がイエスさまの復活祭で、教会の暦は日没で切り替わるので、4月8日の夕方に行われるミサが主の晩餐にあたり、大人の洗礼式はそちらでやるので、わたくしも夜のミサで洗礼を受けた以上、そちらの方へ出たかったのです。


お寺で行われた花祭りの写経会が終わり、後片付けをして帰る際、「釈尊の誕生を記念した晩に、キリストの復活を祝うなんて、今年の4月8日はゴージャスですねぇ」とお寺の住職に言うと、「あんたは本当に復活を信じているのかい」と訊かれたので、「それが信仰というものでしょう。お釈迦さまだってお生まれになった刹那、「天上天下唯我為尊」と言ったそうではありませんか」と答えると、「それを信じていない私は信仰心が薄いのかなぁ」と笑って返されるのでした。
住職の名誉のために言っておくと、この釈尊誕生逸話には異論があり、古い経典にお釈迦さま誕生以前の仏さま(仏教では過去現在未来の三世にわたってたくさんの仏さまが出現すると説かれています)の言葉とされているそうです。
それに、これは聖書をはじめ歴史の本にはつきものですが、後の世の人が付け加えたという可能性もゼロではありません。
「タイムマシンにでも乗って、この目で確かめてくるしかないですかね」と笑ってこの話は切り上げました。
なお、ぱっと読み傲慢に見える「天上天下唯我為尊」ですが、「三界の冥界にあって苦悩に喘ぐ衆生を救うために誕生したのだから尊い」という解釈と、「この世に存在するすべてが尊い」という読み方の2つがあって、その日の写経会ではお坊さんが、どっちにとっても良いのではないかと話されていました。


たしかに、キリストだってヘブライ語ではメシア=救世主という意味ですから、「お前が神の子なら自分で自分を救えるはずだ」と処刑前に群衆から野次られていましたし、創世記で神さまが1週間でこの世をお創りになった際、人間を含むすべての被造物を「善し」としてて、もう一度省みて「極めて善かった」とされているので、神のもとでは皆等しく尊いはずで、上記釈尊誕生のエピソードと共通点があります。
そんなわけで、この日は写経会で帰りが少し遅くなることは織り込んでいたものの、天気予報も一日晴れなので、鎌倉市内のお寺を15時前に出れば、オートバイで16時には家に着き、そこからブロンプトンに乗り換えれば19時に都内の教会には着けると思いました。
ところが、オートバイでの帰り道、行く手には濃い灰色の雲が立ちはだかり、あと家まで20分ほどという所でポツポツと振り出しました。
あいにく、その時に通過していた新横浜駅前は、先週新線が開通したこともあってか、もの凄い渋滞です。
その渋滞にはまっているうちに、雨がいよいよ本降りになってきて、家まであと10分というところで、一張羅のズボンがずぶ濡れになりパンツ迄染みてくるほどになり、革の靴も茶色が真っ黒に変色してしまいました。
4月の気温は20度近くあるものの、下着まで濡れてしまうと、オートバイの走行時の体感温度はおそろしく下がってしまい、「このまま走り続けたら病気になる」レベルです。
家に着くころにはヘルメットを被っていた頭を除き、首からつま先までびしょびしょに。
すぐに着替えて濡れた衣類は乾燥機にかけましたが、寒くて歯の根が合いません。
この絶望的状況に、夜は苦手ということもあって、この日の復活徹夜祭ミサは諦めることにしました。


翌9日の日曜日は寒かったけれども朝からよく晴れました。
ところが、前の日に風邪をひきそうになるほど濡れてしまったこともあって、なかなか布団から出られません。
この日は午前10時からのミサですから、朝の6時に目が醒めているから、余裕でブロンプトンに跨って走ってゆけるはずなのですが、起きて着替えても、間違えたズボンをはいてしまったり、その後玄関まで行って靴を履いてもトイレがまだだったことに気づいたり、玄関を出てからも腕時計を忘れて戻り、少し走ってからカメラを忘れたことに気づきまた戻りと、何だか聖書に登場するサタン(悪魔)が懸命に引き留めようとしている状況です。
結局自転車でミサに間に合うにはギリギリになってしまいました。
経験上、こういう時は教会に行くと何かしら気付きが与えられるものです。
逆に「もう来週もあることだし、今日はいいや」と諦めてしまうと、ロクなことがありません。
だから「遅刻して締め出されても行かないよりはマシ」と思い切って家を出ました。
柿の木坂交差点を越えたあたりで残り15分を切り、学芸大学、祐天寺、中目黒と向かい風のなかを冬のマラソンのように頑張って走り、教会に着いたのは3分前でした。
ヘルメットを外して中に入ると、座るところも無いほどの混雑です。
日中のミサは、子どもたちの洗礼式もあるので、親御さんたちも来ているし、いつもの8時のミサもありませんから、混んでて当然なのですが、奥の端にいって立っていると、堂内の気温は寒いくらいなのに、汗がどっと噴き出してきました。
昨日から疲れ切っていることも含め、懸命に走ってきたから膝もガクガクで、何だか病人みたいです。


ミサが始まってからハタと気付きましたが、復活祭のミサは上述の通り洗礼式を挟むので、普段よりも長くて120分以上かかります。
旅の途中電車の中でずっと立っていることも平気な私も、普段は立ち仕事でもないし大丈夫かなと痺れを感じ出すころに、係の人が出してくださったスタッキングチェアに座ることが出来ました。
そういえば、お寺の法要でも立っている人を見かけたときは、私が椅子を持っていって勧める係でした。
「情けはひとのためならず、巡り巡って我が身のため」です。
それにしても、子どもたちの受洗を眺めていると、自分もこの季節に子どもに戻って水を額に注いでもらったことを思い出しました。
その前に、私は霊性において確実に一度は死んでいたので、「復活」という言葉の意味について、昔読んだトルストイの同名の小説と併せて思い出していましたっけ。
洗礼を受けた後も、決して褒められるようなキリストの弟子ではありません。
何度もよろめき、立ち止まり、時には倒れ伏しながら、その都度「私がついている」と励まされてなんとか進んでいるという状況です。


第二朗読の「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストとともに神の内に隠されているのです。」(コロサイ人の信徒への手紙3章1~3節)を聴きながら、昨日からの自分も含め、世の人はなんと地上のものに心を奪われたままになっているのかと、本当にそれが問題だと感じて下を向いてしまいます。
今の私の周囲には、とかく「財産」についてとらわれている人が多く、その執着がもとで不幸になっていると指摘すると、「それでも最後に頼りになるのはお金だよ」と諭され、何だか別の宗教への勧誘みたいに聞こえてきます。
内心で「いや、お金は墓まで持って行けないでしょう。最期っていつの話?」と反論しようとして言葉を飲み込んでしまいます。
「あればあるほど欲しくなる」「無ければ他人の物を奪ってでも欲しくなる」という心情の恐ろしさを、百万語費やして説明しても、この人たちは「自分は絶対にそのようにはならない」と自信満々がゆえに、自分の身に置き換えて考えられないのだろうなと思うと、「もはや口舌を以てしては交わり難し」と空しくなるばかりです。
しかし、年齢がどんどん上がってゆくにつれて、大半の人はこの財貨に対する執着がますます酷くなるようです。


30代の頃、ある年長のカウンセラーさんに聞いたことがあります。
年をとって人間は達観するのかと思いきや、どんどん金銭や名誉に対する執着が強くなるのは何故ですか?と。
すると笑いながらこう答えてくれました。
「それはあなたがまだ若いから分からないのですよ。
あなたはまだ死ぬまでに時間がたくさんあると思っているでしょう。
これから失敗しても、また立ち直る機会が与えられるだけの時間があると、無意識にでも思っているのかもしれません。
でも、60代、70代、80代とどんどん老い先の短さを実感するにつれ、不安を抱えたままの人というのは、「一度しくじったらすべてがパーで取り戻しがきかない」という思いが強くなります。
すると、いくら財産があっても、どれだけ人からの信用があっても、老後の安心には足りないということになります。
すると人間に対する不信は募る一方で、裏切らないのは財産だけだという思いを死ぬまで強化してゆくことになります。
だから、早いうちに自己の人生に対する不安に向き合い、それを昇華してゆくような習慣をつけた方がいいと思いますよ。
恨み言を残してゆくのか、感謝の気持ちで旅立つのか、来世というものがあるならば、この違いは決定的ですから。」
(その2につづく)