旧東海道にブロンプトンをつれて 京都三条大橋到着後(その6) | 旅はブロンプトンをつれて

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旧東海道の終点、三条大橋から三条通りを西進してきて、2.63㎞先の千本三条交差点まできました。

全部歩いたら1時間くらいかかってしまうわけで、途中自転車を除く車両通行止めのアーケード商店街もありましたし、やはり京都のような町で自転車があると便利だなと思います。

前回も少し触れましたが、千本三条交差点から千本通を北へ280mゆくと、JR山陰本線の二条駅があります。

山陰本線は京都を起点として下関駅の3.8㎞北、山陽本線との合流点である幡生(はたぶ)駅まで、673.8㎞もの長大路線です。

(東海道本線東京~神戸間の総延長は589.5㎞)

私が子どもだった70年代から80年代の終盤まで、特急列車を除いた殆どの普通列車は、ディーゼルカーがけん引する客車でした。

今の若い人には、アニメ「銀河鉄道999」のような古式ゆかしい車両と説明すればよいでしょうか。

そして山陰本線の普通列車は、有名な824列車(門司~福知山間)に代表されるような、長距離鈍行の多い路線でした。

今手元の1978年8月時刻表をみると、京都駅を5:26に出て、474.9㎞先の島根県の浜田駅に21:26に着く普通の(835)列車があります。

実に16時間かけて475㎞ということは、表定速度は30㎞/hを切って、自転車並みですし、同じ時間で東京から欧州迄ジェット機で飛べます。

(千本通り)

当時夢の超特急と呼ばれた新幹線を京都駅で下車し、京都市電に乗り換えようと烏丸口へ向かうと、駅構内の大阪方に上野駅のように行き止まりになった山陰本線1番ホームと2番ホームがあり(このホームは東海道線上り1番ホームと同じ平面で、そのまま烏丸口から出られました)そこには茶色や紺色の、「スハ」とか「オハ」と記号の入った旧型客車がお尻を向けて停まっていて、時代が一気に20年から30年も戻ってしまったような気持になりました。

あの客車、私も東北本線や羽越線で乗ったことがあるのですが、発車する時に「ガチャガチャ、ガチャン!」とけん引ゆえ連結器から大きな音を出すのです。

以降は「カタン、コトン」とつなぎ目の音だけ残してスルスルと出てゆくわけですが、乗っている方も見送る方も、自転車並みの加速ゆえに、めちゃくちゃ旅情がある去り際なのでした。

いつだったか、アール・ヌーヴォー風で、プラットホームがトレインシェッドと呼ばれる半ガラス張りの大屋根に覆われたプラハ本駅で、ウィーン方面への夜行列車を待っている時、夕陽に照らされて、停車している機関車から水蒸気が立ち昇る中、このゆっくりとした客車が出発する間際に、デッキに足をかけた男性と、ホームを小走りに走ってきた女性が別れ際のキスを交わすシーンをシルエットで見て、「うわぁ、カサブランカのボガードとバーグマンみたいだ」と思ったものです。

むかしの京都駅山陰線のホームには、あれに似た情感がありました。

京都駅の場合、烏丸口を出るとバスターミナルやタクシー溜まりの向こうに市電が走っていて、山陰線沿線も今のように高架ではなく、単線の両側に京都特有の町屋が並んでいる長閑な風景でした。

その頃の山陰本線は1時間あたり1本とか2本でしたが、1990年に京都駅から電化されて以来複線化、高架化に伴って京都~亀岡間の列車数も増え、二条、円町、花園、太秦、嵯峨嵐山まで、北山や嵯峨野など京都市内北西部に宿をとった場合は、京都駅から山陰線にそのまま乗って宿近くまで行くことも多くなりました。

二条駅も地下鉄東西線が乗り入れて以来、京都の西のターミナルのようになりました。

交通の便の良さを買ってか、立命館大学や佛教大学のキャンパスが二条駅までの千本通りに並んでいます。

(梛神社)

千本三条交差点に戻って南東方向をみると、京都には珍しく東西でも南北でもない、斜めに走る道路が見えます。

この通りは後院(こういん)通りといって、明治になって市電の敷設とともにつくられた道です。

千本北大路から、千本今出川、千本中立売、千本丸太町と千本通りを南下してきた京都市電は、ここ千本三条から先の南は当時住宅も無い田舎だったので、このまま千本通りを南下させて市電を通しても採算が見込めないと判断され、ここで南東方向に斜めに折って、当時の西側のターミナルだった四条大宮を結びました。

千本通りはその向こう、信用金庫とコンビニの間にちょこんと小さな入口がみえます。

ここを左折して南下します。

千本通りに入ると一方通行の、車が一台やっと通れるような幅で住宅街の中をゆきます。

上述した通り、明治までここは何もない畑だったそうですから、それ以降に建った住宅でしょう。

ここがかつての朱雀大路とはとても信じられないほどの道幅です。

京都は碁盤の目ですから、前述した後院通りは例外として、東西と南北の通りではおのずと走る際に性格が少し違います。

東西は、北の山に近い方を除いて、ゆるいアップダウンがある程度ですが、南北の通りは北高南低で、南へ向かう時は下り坂、北へ向かう時は登り坂になります。

JR京都駅(標高27.7m)と京都市営地下鉄南北線の終点宝ヶ池駅(標高90.5m)では、60m以上の標高差があるので、折りたたみ自転車で鉄道併用のお散歩をするのなら、朝早くに北の山の方へ行って、ゆるゆると下りながら観光するというのが楽です。

千本三条交差点の標高が35mで、これから向かう羅城門址の標高は20mですから、これから3.2㎞弱の距離で15m分下る計算になります。

風も東西よりは南北の方が影響を受けやすく、南風、北風が強い日には、なるべく幅の狭い道で南北を移動した方が、向かい風の影響は受けにくくなります。

写真を撮った日は春先で北風が吹いていたので、完全に追い風でした。

また、一方通行路について、大半の道は自転車が逆行できるものの、京都のように碁盤の目で見通しの悪い交差点が多い街は、車と同様に順行した方が安全です。

(京福電鉄嵐山本線)

完全に真っすぐではない、微妙にカーブしている千本通を南下してゆくと、530m先で阪急京都線が地下を通っている四条通りに出ます。

交差点の名前は千本四条になるのでしょうが、信号機にはそうついてはいません。

この間、西側に西高瀬川、その向こうに山陰本線が並行しているのですが、どちらも建物の影になっていて殆ど見えません。

四条通りを渡ったら、左(東)方向に140m進んだ右側にある梛(なぎ)神社に立ち寄ってみましょう。

社伝によると869年、京に疫病が流行った際に、牛頭天王の神霊を播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市)から勧請して鎮疫祭を行い、神輿を梛の林の中に置いて祀ったのがその始まりで、後に神霊を今の八坂神社に遷したとき、この地の人たちが花を飾った風流傘を立て、鉾を振りながら音楽を奏でて神輿を八坂に送り、これが祇園会(祇園祭)の起源となったと伝えられることから、この神社のまたの名を元祇園神社ともいうそうです。

さすが、もとの平安京の中心です。

千本通りに戻り、四条通りを越えるとすぐ鉄道のガード下をくぐります。

これが京福電気鉄道嵐山本線です。

京福電鉄は現在京阪グループに入っていますが、もとは京都と福井でそれぞれ鉄道事業を行っていました。

京都では嵐電の愛称で親しまれるこの嵐山本線や北野線のほか、叡電と呼ばれる叡山本線と鞍馬線も運営していましたが、後者は京阪電気鉄道の子会社になっています。

「京福」というと、「京阪」のように京都と福井を結ぶ鉄道計画があったのかと思われがちですが、京都と福井で事業していたから京福です。

京福電鉄のカードから80mほど進むと、綾小路通りと少し互い違いに交差するので、左折して160m東へ進み、一本東の坊城通りに出たら右折してすぐ右側、鶴屋という和菓子屋さんの奥が新選組発祥の地であり、屯所のあった八木家です。

八木家の裏は、律宗の大本山壬生寺があり、ここの境内はのちに新選組が力を蓄えて屯所を西本願寺に移した後も、武芸を訓練する場になっていたそうです。

新選組は当初は壬生浪士組といい、結成の経緯は次のような次第でした。

すなわち、東北は出羽国庄内藩出身の志士清河八郎(1830-1863)が、江戸に出て儒学や剣術(北辰一刀流免許皆伝)を身につけたのち昌平黌(幕府の学問所で東大の前身)に学び、その後諸国漫遊の旅に出て幕末期の政治的矛盾を見聞し、桜田門外の変に衝撃を受けて倒幕及び尊王攘夷思想に傾倒したのち、越前福井藩主で幕府政事総裁職にあった松平春嶽に対し、攘夷の断行と浪士の赦免、人材登用の建白を行い、これが取り上げられて浪士組の結成が許可されました。

清河は1863年に将軍家茂が上洛の際、その前衛として将軍警護の名目で200名以上の浪士組を率いて京に上り、壬生寺の東隣にある新徳寺にて浪士たちを前に、本当の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷のさきがけになることだと述べ、集まった浪士はもちろん、目付け役として配された山岡鉄太郎(鉄舟)の度肝を抜きます。

(千本通りに立つ壬生寺の標柱。千本通りはちょうどお寺の裏手にあたります。)

司馬遼太郎の『燃えよ剣』にはその情景が描かれています。

『清河は、一座を見渡した。

みな、かたずをのんで清河を見守っている。清河は、ついに意外なことをいった。

「われわれが、江戸伝通院で、結盟したのは、近く上洛する将軍(たいじゅ=家茂)の護衛たらんとするところにあった。が、それはあくまでも表むきである。真実は、皇天皇基を護り、尊王攘夷の先駆けたらんとするところにある。」

(あっ)

と声をのんだのは一同だけではない。清河と手を組んで浪士組結成のための幕閣工作をした幕府側の肝煎(きもいり)たちである。山岡鉄太郎などは、蒼白になった。清河は、山岡にさえ話していなかったのだ。(山岡という人は、数年後には見ちがえるほどの人物に成長したが、このころはまだ若く、策士清河の弁才に踊らされるところが多かった)

「われわれはなるほど、幕府の召しに応じて集まった。が、徳川家の録は食んではおらぬ。身の進退は自由である。ゆえに、われわれは天朝の兵となって働く。もし今後、幕府の有司にして(たとえば老中、京都所司代が)天朝にそむき、皇命を妨げることがあらば、容赦なく斬りすてるつもりである。」

維新史上、反幕行動の旗幟を鮮明にあげた最初の男は、この壬生新徳寺における清河八郎である。清河は、兵を持たぬ天皇のために押しつけ旗本になり、江戸幕府よりも上位の京都政権を一挙に確立しようとした。いわば維新史上最大の大芝居といっていい。

「ご異存あるまいな」

一座は清河にのまれてしまっている。というより清河に反対するどころか、彼の弁舌を理解する教養をもった者も、ほとんどいない。

そこを、清河はなめている。頭脳は自分にまかせておけ、汝(うぬ)らは自分の爪牙(そうが)になっておればよい、という肚である。

一同、発言なく散会した。』(司馬遼太郎著『燃えよ剣(上)』新潮文庫刊より)

当時「尊王攘夷」という言葉は、現代の「環境保護」と同じくらい、一般常識的なスローガンで、これを錦の御旗にされると、誰も異論を唱えられないという雰囲気だったといいます。

しかし、清河のこの物言いに反発して袂を分かったのが、近藤勇、芹沢鴨、土方歳三など、京都に残留して将軍警護を貫き、のちに尊王攘夷の志士たちを取り締るとして、片っ端から彼らを斬ってまわる新選組の面々でした。

つまり、清河の裏切りがあったからこそ新選組が誕生し、より物騒な世の中へと突入していったわけで、たとえその動機は一介の志士から新政権の首魁になることを目論んでいたとしても、司馬先生の言う「清河の大芝居」は幕府の瓦解を早めたという点では功績があったのだと思います。

(散る桜が浪士たちの最期を象徴しているようで、どこか虚しさが漂っていました)

なお、近藤もまた幕府が潰れるその刹那に大名になることを夢見たわけで、かたや東大卒のインテリで、もう一方は多摩の農民剣術道場のお師匠と、学問があっても無くても政治的な立身出世の野望を持つという点では、二人とも稚気染みているということも含め、似た者同士だったみたいです。

上述のように新選組は学問に疎い暴力集団で京都守護職預かりとなるまでは身なりも汚かったので、壬生浪士=みぶろ=身ボロと呼ばれて京の街の人たちからは蔑まれていました。

また清河八郎は幕府の命によって江戸に戻ったのち、刺客として送られた旗本の子弟たちに、麻布赤羽橋で斬り殺されています。

この壬生新徳寺における演説のわずか2カ月後でした。

面白いのは、清河を斬った佐々木只三郎は、4年後に坂本龍馬も斬っていて、本人もまた鳥羽伏見の戦いで傷つき、明治を見ることなく亡くなっています。

結局、暴力は暴力以外に何も生まないということなのでしょう。

なお、新選組の屯所のあった八木家は今も大勢のファンが訪れますが、そのお向かいにある新徳寺で清河八郎を偲ぶ人は殆どおりません。

こののち旧甲州街道のほうでは調布出身の近藤勇や日野出身の土方歳三に触れないわけには参りませんので、ここでは敢えて彼らの敵ともいうべき清河八郎に着目してみました。

(壬生寺山門)

今回は山陰本線と壬生浪士組の話で殆ど終わってしまいましたが、次回は千本通りと綾小路通りが交わる場所から、さらに南下してゆきたいと思います。