反知性主義に陥りませんように | 旅はブロンプトンをつれて

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私は仏教書を読んでいてわからないことがあると、住職に質問します。
お寺を手伝う以上、仮に他の宗教の信者だったとしても、仏教のことを知らないと仕事はできませんし、他の宗教を知ることによって、自己の信仰がより深まるということもあると思うのです。
もともと歴史が好きですから、信仰の歴史について書かれた本を読んでいると、政治経済史とは別の視点から歴史を眺めることもできます。
そこで範囲の広い仏教について、その原初からの時系列に沿って本を読んでゆくと、後ろへ行けばゆくほど時と場所によって様々な未知のトピックが出てきて、お寺という存在が「なんだそういうことだったのか」と合点が行くことが多くなります。
そこで身近にいらっしゃる住職に確認を兼ねてお尋ねするわけですが、仏教一般の基本的なこと、例えば基本的な仏さまの教えとか、菩薩や明王の違いとか、或いは真言宗の専門的なこと、例えば密教における金剛曼荼羅と胎蔵曼荼羅の映す世界とか、ご自分の知っていることは説明してくださるのですが、その他のこと、例えば上座仏教をはじめとする他宗派の歴史や、そこで大切にされている哲学のことなどを尋ねると、「しらない、自分は真言宗の僧侶だから」と即答してくださいます。
そのたびに私は80代になるお坊さんが、仏教について訊かれて、知らないものについては知らないとはっきり言えるというのは、凄いことだと感じるのです。
そういえば、聖書講座を主宰していた90歳になるシスターも、最後に質問を受けるときには必ず「わたしで分かることであればお答えします」と断っていましたっけ。


「自分はそれについてはよく知らない」と涼しい顔で言える人というのは、自説に固執することがないので、他人の言うことを(それがどんなにくだらないと思われる内容でも)黙って聴くことができます。
そのうえで、自己の良心的な知性に照らして自分に納得がゆくかどうかを内省したうえで判断する。
得心の行かない点があれば、納得がゆくまで真摯にそれを追求する。
そうやっていくつになっても学習するのが真の学問の徒であるし、そういう人を知性的と呼ぶのではないでしょうか。
何でもかんでも知っていて、記憶力が抜群によいがために学校の成績も優秀で、大人になってもあり余る知識を四六時中開陳することでひけらかすような人間は、頭はよいのかもしれませんが、自分には未知の、或いは自己に馴染まない知識に対しては頭から決めつけてかかるという点で、反知性主義の人だと私は思います。
そういう人との交流は、自己の成長に資さないばかりか、却って発達や成長を阻害してしまうと私は考えます。


リチャード・ホーフスタッターという米国の政治史家が書いた『アメリカの反知性主義』と題された本を読むと、反知性主義者というのは、「知性の欠片も無い野蛮な人」とか「怠惰で全く学ぶ意欲の無い人」などではなく、知性があるがゆえに、陳腐な思想や安直な認識に憑りつかれている人のことをいい、そういう人は自分のことを「正義を尊び、ひたむきな知的情熱を以て本人の信じる道徳的行動に走る人間」だと信じている、十分理知的な人間のことを指すそうです。
(「赤狩り」で名を馳せたジョセフ・マッカーシー上院議員がよい例でしょう。彼は48歳でアルコール依存症がもたらした肝硬変によって亡くなっています)
20世紀半ばに活躍したフランスの思想家、哲学者のロラン・バルトは、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで、未知のものを受け容れられなくなった状態をいうと定義したそうです。
情報化社会の現代、異様に物知りで、ある話題について様々なデータやエビデンス等の証拠をもって訳知り顔で自説を披露したり、他人の意見について上から被せるように「論破」したりする知識人というのは沢山います。
そのような人たちは自分の中で既に正しい解答を確立しているため、他人の異論にはいささかの揺らぎも見せず、対話する相手に向って「是非の判断は既にこちらで済ませているから、あなたの主観や感情など私にとってはどうでも良い」という態度をとります。
ハーバード・スペンサーの『あらゆる情報をはばむ障壁であり、あらゆる論争の反証となり、そして人間を永遠に無知にとどめておく力をもった原理がある。
それは、試してもみないで頭から軽蔑することである。』の軽蔑がどこから来るかというと、自己の知性ゆえの他者への軽蔑と捉えなおせばわかりやすいのではないでしょうか。


そして相手に反論の余地を与えないよう、「お忘れですか?あなたが過去に発言したことや、行動したことを」と退路を塞ぐわけです。
成長する人は過去にはとらわれず、過去の自分を乗り越えることによって絶えず今の自分をつくってゆくのに、反知性主義者はなまじ知性があるがゆえに、それを悪用して、「お前は軸がブレている未熟な人間だ」と故意にマウントして自己の優位性を保つことに腐心します。
人の目が届かないところで、アカハラやモラハラを繰り返している自他ともに認める教育者などが、その典型でしょう。
彼らは自分よりも知識量が豊富だとされる(肩書を持っている)人には媚びへつらい、逆に自分よりも「知性に劣る」と決めつけた人には高飛車に出ます。
自己の知性を誇るべき相手から自説の誤りを指摘されようものなら、それこそ烈火のごとく怒るか、涼しい顔を装ってスルーするかのどちらかで、曲がり間違っても目下の人も含めた周囲の人たちから「学ばせていただく」という態度はとれません。
テレビに出てきてコメンテーターとして得意顔で学説とやらを披露する学者も同類で、彼らのかまびすしい言動を見聞きしたくないというのが、テレビの視聴をやめた理由のひとつでした。


小説でいうと、石川達三氏の『青春の蹉跌』の主人公、江藤賢一郎が典型ではないでしょうか。
物語の中盤で彼が司法試験に合格したあとの表現にそれがよく表れているので、抜き出してみました。
『しかし彼は現在の自分を誇らしく思うばかりで、客観的な冷たい眼で自分を反省する気持ちはもっていなかった。そのことに一つの誤りを犯していた。
 彼が合格したのは司法官吏や弁護士となるための資格試験であった。試験の内容はほとんど全部が日本の法律に関する問題であった。彼が合格したということは、彼が日本の法律だけについては多くの知識をもち、深い解釈までも知っていることが認められたという、それだけのことだった。法律以外のことについては、彼は凡庸な青二才に過ぎなかった。文学、美術、理化学については何も知らない。商業、工業、医学のことはもとより、日本の地理歴史も詳しくは知らない。宗教に関しては何の知識ももたない。さらに人格的、道徳的な方面ではまことにまことに未発達なひとりのエゴイストに過ぎなかった。
 そのことについての反省を、賢一郎は考え忘れていた。法律の試験に合格したことを、全人格的な合格のように感じ、そのことに満足し、そしてそのことの危険を考え忘れていた。』(石川達三著『青春の蹉跌』新潮文庫より)


こんな人や集団は、それほど優秀でどんな学問的業績があっても、他人の未来の発展を潰しているという点と、その自説が無誤謬であるという信じている点において、今すぐ子どもや学生など将来のある人たちと触れ合うことを中止した方が良い人間だと私は思います。
そして、そのような人間の書いた論文は、どんなに素晴らしい内容で、それが世間から賞賛されようとも、著者の人間性がゆえに、残念ながら害毒になってしまうと思います。
面白いことに、このような人がリタイアすると、誰からも相手にされなくなります。
相手にする人がいても、ひたすら空虚な関係になります。
そりゃそうでしょう。
自分の人生が「あがり」だと思っているような人と、趣味にても学問にしても、晩年までともにしたいと思う人などおりません。
自分は無誤謬だと信じているから、年老いていままで自分で出来ていたことができなくなっても、皆環境や他人等外部のせいにします。

いままで散々「正しい自分」を支えにしてきたものだから、「もはや正しくなくなってしまった自分」に向き合えず、「間違い」を自分の外に求めることで死ぬまでの時間稼ぎをするわけです。
お年寄りがどちらかを見極めるのに簡単な方法があります。
一緒に歩いてみて、「もう少し年寄りを労わってゆっくり歩きなさい」と注意してくる方が反知性的で、「悪いけれどそんなに早く歩けないからどうぞ先に行ってください」という方が知性的な人です。


学校教育の弊害だと思うのですが、反知性主義の人を観察していると、知識の質や量を個人に属する資質や能力だと勘違いしている人が大勢います。
本当は、その知識を組織や社会の中で活かし役立てるのも、逆に他人を苛めたり排撃したりするために使うのも、当の本人次第なのに、そのことは忘れて自分の過去の肩書や栄誉が知性の裏打ちだと思っているのです。
ある人は、知性のある人というのは、その人がいることで周囲が明るくなり組織が活性化するような場合であり、反知性主義の人は、逆にその人が知性を用いていることによって、周囲から笑顔が消え、疑心暗鬼に陥り、勤労意欲や創作意欲が削がれる、そんな風に知性がどう発動されているかを観察してみると分かるといいます。
具体的にいうと、前者は失敗を恐れず、仮に失敗しても手を変え品を変え、もがき苦しんでも再挑戦し続ける人で、後者は状況をシニカルな目でしか見ようとせず、嫌味ばかり言って他人から希望を奪い取ることで嬉々としている、或いは裏でほくそ笑んでいる、そんな知性を歪んだ目的に使っている人でしょう。
私はそういう人が、堂々と先生をやって、彼女の言う「自分よりも知性の低い人たちを」半ば馬鹿にしながら指導している姿を見たことがあります。
会社にもいましたが、教育施設の中となるとよりタチが悪いのです。


考えてもみてください。
真面目ではあるけれども、それゆえ意識的、無意識的に関係なく、自己を含めた人間の成長を信じていない人や、逆に自分は克己のうえに完成された人間だと思い込んでいる人が、彼らのなかで自分より未熟だとしている他人の成長の手伝いをしたらどういう結果になるのかを。
そんな人たちが管理する学校は、彼らの言う正しい社会の役に立つ反知性主義者を量産する一方で、正直に真心をもって学問を修めようとしている人たちをドロップアウトさせるだけです。
このようなタイプの人が家族や学校、職場に居て、彼らの相手をすることから逃げられない場合、その的になった人は、延々と歪んだ人間関係を続けているうちに、だんだんと「この人には何を言っても無駄だ」という諦観に支配されるようになり、その人自身の生きる力が衰弱してゆくといいます。
私も実際にそういう経験をして自分がダメになったことがありますから、どんな立場であっても、今そのような反知性主義者やその集団と学問や仕事を一緒にしなければならないときは、自分からそこを離れて、そういう人たちとは距離をとることをお勧めします。
あれならまだ、独学をしていた方が希望は持てます。
最後に、反知性主義者は自説に固執すると書きましたが、本も素直に読めません。
また、自説を裏付けたり肯定したりする本はよく読みますが、自説に都合の悪い書物は無視します。
こうして、えらく偏重しているのにそのことに気づかず、自分はいかに正しいか(正しかったか)についてアカデミックに高説を述べる知識人が再生産されるのだと思います。
「ひとのふり見てわがふり直せ」とはよく言ったもので、自分は死ぬまで学びつつある人間であるためにも、普段から謙虚で虚心坦懐でいるための訓練を続けようと思います。

 

『知性は、知性以外の人間の美点を致命的に犠牲にして手に入れるものと理解すべきではない。むしろ、それらの美点を完成させるものとして理解する必要がある。理性的な人間なら、知力を行使することが根本的な人間の尊厳を示すことであり、人生のいくつもの正当な目標のひとつとしてあることをまず否定しまい。』(リチャード・ホーフスタッター著 田村哲夫訳『アメリカの反知性主義』みすず書房より)