旧甲州街道へブロンプトンをつれて 3.上高井戸宿から4.国領宿へ(その4)つつじヶ丘駅から深大寺 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

金子のイチョウ)

京王線のつつじが丘駅に近い、国道20号線の滝坂下交差点から旧甲州街道の旅をつづけます。

つつじヶ丘駅はもとの名を金子駅といいました。
この付近一帯の地名でもあって、武蔵七党のうち村山党を構成する金子一族の本拠地でした。
村山党は平安後期から鎌倉時代にかけて秩父党畠山氏に従い、平氏方から源氏方へと主を変えました。
鎌倉幕府の衰退期にあった分倍河原の戦いなどでは、討幕軍に加わって良く働いたといいます。
室町期から戦国時代に至っては、関東管領の上杉氏の衰退に伴って後北条氏へと鞍替えし、のちに徳川家康入府の折には旗本に加えられるなど、時代の趨勢を見極めるのが得意だったようです。
当時の土着武士団は、時勢によって主人を変えるのは普通のことというよりは、優秀な武士ほど見極めが鋭かったといいます。
「忠臣は二君に仕えず」という言葉は、江戸期の平和な時代になってスローガン的に広まった言葉のようですから。
こうした由緒ある金子駅の名前でしたが、戦後にJR八高線の金子駅と混同されること、京王帝都電鉄による同分譲地名で宅地開発が行われたことで、1957年に今の名前になりました。
滝坂下交差点から40m進んだ右(北)側奥には、金子のイチョウという金子氏の根拠地だった場所に江戸中期に植栽された大きな木が残っています。

(金龍寺)
滝坂下交差点から150m先の右側、つつじヶ丘交番前信号を越えてすぐの場所にあるのが、曹洞宗の金龍寺です。
鎌倉時代に栄西禅師によって開山され、戦国時代に曹洞宗に中興開山されました。
ここのお寺は徳川幕府より朱印状をもらっていたこともあってか、山門には朱色で「大雲山」と金字山号の扁額がかかっており、両戸口にはこれまた金色で三つ葉葵の立派な家紋が架けられているので、国道からは少し引っ込んでいてもとても目立ちます。
どこからともなく、「人生楽ありゃ苦もあるさ、挫けりゃ誰かが先に行く」というあのテーマが聞こえてきそうです。
つつじヶ丘交番信号を左折して南に入ると、すぐ先がつつじヶ丘駅北口ロータリーになります。
深大寺に行く場合、ここから高頻度で運転されているバスに乗るのが便利です。
金龍寺の入口からつつじヶ丘信号を越えた250mさき、西つつじヶ丘信号直前の路地を右折します。
右手に教会をみて、310mさきのゆるやかな上り坂にかかる手前で斜め左に折れて、そのまま120mすすんだ突き当りにあるのが、金子厳島神社です。
ここの神社は、「経水泉」と墨書された木片を所蔵していて、それは境内にある弁天池が、武蔵坊弁慶が仏道の修行に励んだ折、この池の水を汲んで墨をすり、大般若経を写経したという伝説に因んでいます。

(金子厳島神社)
金子厳島神社入口のY字路まで戻って、さらにつつじヶ丘駅を背にして先ほど見えた緩い坂を登り、210mさきの柴崎2丁目交差点を右折して神代植物公園通りに出ます。
390m先の上ノ原五差路交差点を斜め左前方に進路をとり、290m先の庚申塔のあるY字路を左、絵堂場橋で中央高速を渡り、510m先右側にあるのが法性院というお堂です。
ここは現在宗教法人格をもっていませんが、かつては深大寺の寺中寺で、絵馬堂の跡とされて、それでこのあたりの地名も絵堂になっているということです。
そのまま進むと、左側は落ち込んだ崖になっており、崖線の上を進んでいることがわかります。
360m先で都道121号線に突き当たるので左折して、右手に青渭(あおい)神社を見ながら40m先の路地を右折します。

(法性院)

青渭神社は深大寺の総社で、少なくとも西暦900年より以前に創建された古社です。
都道から路地に入る角には、縁結びにご利益があるといわれる樹齢700年のケヤキの巨樹がそびえています。
そのまま都道を背に路地を入ってゆくと120m先で突き当たるので右折、すぎ左折とクランクして、右手神代植物公園に沿って武蔵野らしい明るい林の中を進んでゆくと、突如として右手奥に駐輪場を併設した植物園の深大寺門、正面に左手に名物の蕎麦を出すお茶屋さんが並び、左手下り坂の入口には深大寺の北門がみえる四辻にでます。
ここが深大寺の真裏にあたり、段丘の坂を下って左折すれば、170mほどで深大寺です。

(青渭神社とケヤキ)
神代植物公園は1961年の開園でもとは防空緑地帯だそうです。
ところで、なぜお寺の名前の「深大」ではなく「神代」なのでしょう。
このあたりは江戸期に深大寺村だったのが、明治後期の合併により神代村に改められ、その流れで上記緑地帯も神代緑地と呼ばれていました。
ところが1955年に調布町と神代町が合併して調布市が誕生すると、住居表示に「深大寺」のつく地名が多く誕生したため、植物園と中学校、市の出張所と団地に「神代」が残ったそうです。
さて、四辻から坂をおりて深大寺の山門前に立ってみましょう。
裏手から来ると、正面の参道は週末などかなりの賑わいを見せています。
天台宗の別格本山である深大寺は、東京都内でも浅草寺に次ぐ古いお寺といわれています。

奈良時代前期の頃、この近くの柏の里(現在の調布市佐須町)に右近の長者と呼ばれるお金持ちが住んでいました。
彼は妻の虎女とひとり娘の三人で暮らしていたが、娘は美しく成長すると近在の氏素性がはっきりせず、貧しい家の福満という青年と恋に落ちました。
財産家の長者は2人の仲を引き裂こうと、池の中にある小島に娘を幽閉したところ、福満は池の畔で悲嘆にくれていました。

福満は三蔵法師が天竺を目指した時、流沙河で仏を念じたら深沙大将(じんじゃだいしょう)という水神が現れて川を渡してくれたという故事を思い出し、一心に仏を念じたところ、一匹の亀が現れて彼を背中に乗せたので小島にわたることができ、2人の熱意に長者も結婚を認めました。
この2人の間に生まれた子どもは大変利発で、後に満功(まんこう)上人となり、彼が法相宗の寺として奈良時代の733年(天平5年)に建立したのがこの深大寺ということになっています。
その後平安時代になって天台のお寺となったということで、「浮岳山」と額の掛かる茅葺の山門が、桃山時代の建築ということで、このお寺の中で最も古い建物です。
本尊は恵心僧都とも呼ばれる平安中期の僧、源信の作と伝えられてる宝冠阿弥陀如来像ですが、詳細は不明です。
なお、明治42年(1909年)に、元三大師堂の檀下から発見された銅造釈迦如来倚像は7世紀、すなわち白鳳時代と呼ばれる飛鳥後期の作で、関東地方では大変珍しい古仏だそうです。

(深大寺北門付近の茶店)
深大寺の参道をそのまま東方向に120m進むと、深大寺通りに出ますが、通りを挟んで南側の緑地が、深大寺城址です。
戦国時代、ここは関東管領上杉家が、多摩川の南から勢力を伸ばしてくる後北条氏に対する前線基地として機能したらしく、後北条氏の勢力がさらに北の河越城にまで及ぶと、防衛拠点の意味が失われて廃城となりました。
そのまま深大寺通りを東へ170m進み、都道121号線に突き当たったら右折して南進します。
中央自動車道をくぐり、560m先の佐須町交差点で右折し、佐須街道を200m西へ向かった右側にあるのが、虎柏(こはく)神社です。
この神社は北向きで深大寺と相対する形で建っていて、上述の虎女を祀ったとも言われていますが、詳しいことはわかりません。
ただ延喜式にも登場し、創建は崇仁天皇2年(589年)とされているので、古いことは確かなようです。
虎柏神社をみたら、佐須街道を東方向に引き返し、佐須町の交差点も突っ切って510m先、左手に小学校がある柏野小前信号を左折して90m南に行った右側にある、天台宗祇園寺によりましょう。

(深大寺山門)
祇園寺も開山は天平勝宝2年(750年)で、上記深大寺を創建した満功上人が生まれ、かつ後年に館を構えた場所と伝わっています。
その経緯から、深大寺の住職といえども祇園寺を尋ねる際には駕籠で乗り入れることができないほど格式が高く、上述した明治になって深大寺元三大師堂から発見された釈迦如来像は、もとはこの祇園寺にあったのではないかといわれています。
山門を入って右手、閻魔堂との間にある朝鮮石人像は、デザインが朝鮮半島集落にある将軍標(チャグンビョ=日本の道祖神や二十三夜塔にあたる)に似ていて、半島から船の重しとして運ばれたという説があるそうです。
前述した右近長者の末裔といわれる温井家の屋敷跡からは、秦の始皇帝の頃の文字で、皇帝賛美の内容を記した青銅の鋳文が発見されたこともあり、国分寺崖線下に位置するこのあたりは古来より湧水に恵まれていたため、農業には向いていたので、先の長者の娘と福満青年の恋物語は、古くから住む土着の豪族の娘と、新たに大陸から渡ってきた青年との間に生まれた話なのかもしれません。
福満という名前自体が日本人らしくないし。

(虎柏神社)

右奥には板垣退助が植樹した自由の松があります。
これは明治になって(それまで幕府直轄領で、佐幕意識が色濃かったことの反動で)自由民権運動が盛んになった多摩地域で、このお寺の住職が音頭をとって「自由民権運動殉難者慰霊大法要」が執り行われた際に、板垣が出席して植えたということです。
「板垣死すとも自由の松はすくすく伸びている」とのことですが、最近の政治における自由って、民権の自由ではなくて、権力を持つ人間の自由勝手気儘じゃないかと思ってしまう昨今、泉下で板垣退助さんは何を思っているのでしょう。
なお、お寺の掲示板によると、祇園寺では茶道体験ができるみたいです。

(祇園寺)
祇園寺から柏野小前信号まで戻り、右折して佐須街道を東に向かえば、1.15㎞先の柴崎駅入口交差点で国道20号線に復帰できます。
但し、そうすると西つつじヶ丘信号から柴崎駅入口まで旧甲州街道を省略した形になってしまうので、970m先の四つ角(信号機は無し)を左折し、540m先、段丘を上り返した頂上の、金子厳島神社裏手にある柴崎2丁目信号まで行って右折すれば、元来た道に出て西つつじヶ丘交差点まで戻ることが可能です。
いずれにせよ、新宿から京王線に乗ってつつじヶ丘で下車し、今日ご紹介したコースをめぐると、畿内までゆかなくても飛鳥から奈良時代にかけてへと思いを馳せる、ブロンプトンによるポタリングができてしまいます。

巡る時期ですが、深大寺門前の名物が蕎麦ということで、夏バテ防止に食べる意味でも7月、8月に訪れて木陰で涼むというイメージが強いのですが、今回12月から1月の寒い時期に行ってみて、冬枯れの武蔵野の雑木林も趣があるものだと感じ入りました。
蕎麦の旬は「夏そば」とか「夏新」と呼ばれる夏向きの品種もありますが、普通は昼夜の寒暖差が激しい秋(10~11月)に収穫されるものであり、それを以て打たれる新そばが粋とされています。
私は食べる時間がありませんでしたが、東京の私鉄の中でも東急と並んで運賃の安い京王線にブロンプトンを乗せてつつじヶ丘駅で下車し、河岸段丘を上り下りして運動しながら深大寺に至り、初冬の新そばをつるつるとすすりながら、虎柏神社や祇園寺のいにしえを思いつつ、野川をもっと遡上して野川公園や多摩霊園に至り、その西端の浅間山から午後のシルエットになった富士山を望楼するなんて、現代に生きる江戸っ子ブロンプトンホルダーの、粋なポタリングだと思います。
次回は西つつじヶ丘交差点に戻って、旧甲州街道の旅を再開させたいと思います。

(自由の松)