目があっても見えない人間 | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

先日、仕事で車を運転している最中の出来事です。
赤信号になったので、交差点の先頭で信号待ちをしていました。
交差点向うの横断歩道を左から右手へと歩行者が渡り始め、右からは右折する車が出て来ました。
歩行者の方は、日傘をさした女性でスマホを操作しながら横断しています。
車は小型の普通車で老人と思しき男性が運転しています。
見ていると、歩行者が横断中にもかかわらず、車はまったく速度を緩めることなく右折していって、「ドン」という音とともに、車の左前の角あたりと歩行者の腿のあたりがぶつかってしまいました。
いわゆる歩行者と車の右直事故というやつです。
スピードが遅かったせいか、歩行者は飛ばされることなくそこで尻もちをついたのですが、手に持っていたスマホはちかくに転がってしまいました。
すぐに起きあがってスマホを拾ってから、もの凄い剣幕で車のボンネットを叩きつつ、「降りてこい」と怒鳴っています。
そのときになってはじめて、私は歩行者の女性が言葉のイントネーションから日本人ではないことに気が付きました。


信号が青になったので、脇に寄せて停止した車の横を通り抜けてゆきましたが、その際に、ドアを開けようとする被害者の女性と運転手のお爺さんが呆然としている顔がチラッと見えました。
やれやれ、軽い事故で良かったと思うとともに、運転手の方も相当なお年と見受けられたので、あのような経験をしたら即免許を返した方がよいと思いました。
大きな事故の背後には、29の軽微な事故があり、その背景には300ものヒヤリとしたり、ハッとしたりするような異常を検知するというハインリッヒの法則があるといいますから。
と同時に、もし自分がこうした軽微な事故の加害者になったら、これは大事故への予兆だと感じて、免許を返納するだろうかと思いました。
少なくとも昨年に車をバックしていて壁から突き出したブロック塀に後部をぶつけてしまった時には、そうは思いませんでした。
しかし、角に出たポールやタイヤよりも背の低いブロック塀にホイールがこするなどということは、これまでも1~2年一度くらいはあります。
自分も車の免許をとってから30年以上経過しているので、大きな事故(トラックとの右直事故で自分が被害者)が1回のほか、軽微な事故は29回に達しているかもしれません。


そう考えたのも、この事故を目撃したあと、ある雨の日に自分の車を運転していたところ、今度は自分が事故を起こしそうになったからです。
その時は天候もあって、私の前も、これから右折して侵入する道もともに渋滞気味でした。
何回か信号が変わって列が進み、やっと自分も右折できそうだと思い、信号が青になって対向車も存在しないT字交差点の右折だったため、前の車に続いて交差点に進入し、右折し終わりかけたところ、横断歩道ではない、進行方向左手の渋滞している車線の車と車の間から、幼児の手を引きながら傘をさした女性が突如として現れたのです。
どうやら信号までいってから横断すると間に合わないから、渋滞している車の間を縫って急いで交差点を斜めに横断するところのようでした。
こちらが緩い速度ながら急ハンドルを切りながら急ブレーキを踏んだので回避できたものの、もう少しタイミングがずれていたらぶつかっていたかもしれません。
いや私が仮に高齢者で、ブレーキとアクセルをとっさに踏み間違えたら、2人とも跳ね飛ばして渋滞の車の列に突っ込んでいたことでしょう。

その時になって気が付いたのですが、今私が運転しているコンパクトカーのAピラー(フロントガラス両脇の柱の部分)は斜めに寝ていて、死角が多いのでした。
その証拠にボンネットに近い根元部分には三角形の小窓が開いています。
以前20年間乗っていたクロカン車は、このピラーが(垂直に近く)立っていて、車の性質上四隅の見通しが良かったのです。
くわえて、2人が出て来たのはワンボックスカー同士の間からで、背の低い私の車からは大人の差している傘も全く見えませんでした。
以前の車なら、アイポイント(目線)が高い分、斜め前の車の窓越しに歩行者が出てこようとしているのが見えたかもしれません。
もしかしたら私が目撃した事故も、たんに運転手が高齢者だったらから歩行者のことを見落としていたのではなく、こうした車の死角によって見えにくくなっていたのかもしれません。


ともに信号を守っている歩行者と車の事故で、どちらも動いていて衝突した場合、悪いのはもちろん車なのですが、目撃した事故の場合、私が観察していた限りでは歩行者にも落ち度があったように見えました。
それは日傘をさしてスマホを操作しながら両手を塞ぎ、視線を画面に集中しながら横断歩道を渡っていたことです。
スマホを観たり、操作したりしながら歩く人はこのご時世に珍しくはありません。
げんにその人もスマホの画面に目をやりながらも、青信号になったから横断を始めたわけで、ちゃんと信号を確認しているから交差点に足を踏み出したのでしょう。
しかし、彼女から見たらお向かいに右折しようとしている車、それも年寄りが運転している自動車が信号待ちしていたわけですから、そこに注意を払っておくべきでした。
少なくとも、車の運転手が自分のことを認識しているかどうかを見てから、見ていないなと感じたら青信号でも渡らないという慎重さが必要だったと思います。

酷なことを書くようですが、相手が自分のことを観ていることを前提で、スマホを操作しながら道路を横断をしていたのなら、歩行する際の注意義務を怠っていたと言われても仕方ありません。
それを棚に上げて相手を非難するのは、やはり一種の傲慢だと思うのです。
翻って自分が歩行者の時、こうした「ながらスマホ」で歩くことが、どれほど重大な結果を招くかについて予想しているでしょうか。
私は急いでいて余裕がない時、たとえば道に迷って約束の時間が迫っている時など、ついつい道を確認するために「ながらスマホ」をしてしまった経験があります。
スマートホンが無い時代だったら、しようにもできなかった行為ですが、それでも「危ないことをしている」という認識はあっても、自己の行為をとめられません。
それでも、衝突してしまったら悪いのは車の運転手です。
こう考えると、車の運転は割に合わない行為だと感じ、これからどんどん高齢者に近づいてゆく自分は、益々車に対する興味が減退してゆきます。


そんなことを考えていたら、事故を目撃した数日後、お寺の駐車場で高齢者の運転する車が単独事故を起こした現場に接する羽目になりました。
寺務所にバス停でバスを待っていた人がきて知らせてくれたので駆けつけてみると、軽乗用車が電柱にぶつかって脱輪しています。
乗っていたのは80代のお年寄り夫婦で、きけば道を間違えてお寺の駐車場で転回しようとしたところ、思ったほどハンドルが切れずに目の前に電柱が迫り、慌ててブレーキを踏もうとしてアクセルを踏んでしまったとのこと。
同乗者の奥さんは苦しそうにしていたので、救急車と警察を呼んだのですが、2人とも気が動転しているのか「大事にしたくないので呼ばないでください」と言ってきます。
呼ばないも何も、脱輪して前部が壊れて動かない軽自動車はどうにもできません。
でも、このやり取りから、世間の目が高齢者の車の所有と運転にいかに厳しいかが感じ取れてしまいました。
さらに駆け付けた、そのお年寄り夫婦が向かおうとしていた家の人によると、彼らのご姉妹が危篤になったので家に呼んだところ、事故を起こしてしまったということで、原因は単にお年寄りだからということだけではないようです。
目的地に何らかの理由で急いでいて、そこを通り過ぎたため戻ろうとして慌てて事故を起こすというのは、年齢に関係なく誰にでもあり得ることですから。

げんに、事故現場に到着した救急隊員も警察官も、「もうお年なんだから免許の返納を考えてみては如何ですか」などと差し出がましいことを言う人は独りもおりませんでした。

それに対して、110番通報をした時の、「ああ、またお年寄りの単独事故か」的な雰囲気が気になりました。
警察も事例が多すぎて、半ばやっつけ仕事になっているのかもしれません。


中高年の私がブロンプトンで信号待ちしているような場合、向かいで右折しようとしているオートバイや車が、信号が青に変わった途端に、こちらからの直進車を出し抜こうとダッシュで交差点内に突進してきそうだとか、ナビの操作中や通話中で、こちらの存在を一顧だにしていなさそうだとか感じる場合には、ひと呼吸おいてから自転車で走り出すようにしています。
というのも、小径車は他の自転車に比べて漕ぎ出しが軽い分、初速が早いので、向こうが「どうせ自転車なんて走り出しは遅いのだろう」とたかをくくっていて、いざ互いに走り始めたら衝突してしまうケースがあるからです。
逆もまた真実なりで、私の方が「どうせ歩行者や自転車など来ないだろう」と見込み違いをして、遠くを確認せずに交差点を通過しようとして、予測が外れて出会いがしらの衝突をしてしまうこともあり得ます。
こうして考えると、ちゃんと確認したつもりでいてもそれが足りずに予測が外れて事故に遭うこともあるわけで、結局のところ事故を起こす人の年齢というのは、要因のひとつにはなり得ても、それだけを原因にしてしまうのは理に合わないわけで、自動車事故のニュースに接するたびに、運転手の年齢を確認し、たまたま自分よりもずっと年上だと(実際に高齢の場合が多い)「自分はまだ大丈夫だ」と安心してしまう自分は何なのだろうと考え込んでしまうことがあります。


そして、こうして立て続けに事故を目撃したり、自分が運転中にヒヤリと感じたりすることがあったというのも、上述の法則ではありませんが、何かの暗示かもしれません。
ひとは自分に都合の良いように物事を解釈するから、自分が被害者になることを予想したり、被害者に同情したりすることはできても、自己が加害者になったり、その立場にたってみたりすることはしにくいといいます。
同時に、歩行者としても、自転車やオートバイや車の運転としても、「見えているはずのものが見えない」「見えないのに見えると思っている」が高じて「見えているのに見ようとしない」「見なくても自分だけは大丈夫」という傲慢な状態に陥り易いのではないかと思います。
しかし、ブロンプトンに乗っている時に特に思うのは、こうした勘違いしやすい、悪いところに落ち込みやすい人間だからこそ、「もっとよく見よう」とすることもできれば、「何もしないのが一番」とか「どうせ見えないのなら、わざと見ない」と真逆に開き直ることもできるわけで、前者を選択したときには、それまで自分が気付かなかったことが見えてきて、「もっと冷静に物事には接しよう」とか「さらにもっと善く見よう」というところへ近づいてゆくのではないかと思います。

目があっても見えないのが人間というもので、しかしながら、見えないからこそ見えない対象を見ようと努力し、その結果心に見えてくるものがあるのではないでしょうか。
知っている人はお気付きかと思いますが、ブログのお題は聖書の詩編(115編)です。
最終的には、人間に見えないことでも神さまにはすべてお見通しだというところに行き着くのかもしれません。