旧東海道にブロンプトンをつれて 京都三条大橋到着後(その5) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

堀川三条交差点から三条通りをさらに西に向かいます。
正面にはでかでかと「三条会」の字が掲げられたアーチがかかっており、堀川通りを渡ってから800mにも及ぶ西日本最大級と呼ばれるアーケード、京都三条会商店街に突入します。
通り名は由緒正しき三条だし、さぞかし昔からあった商店街かと思いきや、発足は大正3年と京都にしては新しい部類に入ります。
何でも当初はずっと手前東寄りの室町通りとの交差点、つまり前回ご紹介した衣棚町や釜座町付近から、この先の大宮通りとの交点あたりまでに立ち並んだ72店舗で発足したのがはじまりということで、当時は三条通りの両側に並ぶ家並みの裏手や西よりは田畑が広がり、西端の大宮三条からは夜になると嵐山や太秦の灯りが見えたほどだったといいます。
周辺から農作物が運ばれてきて集積し、これを運ぶ荷車などの通行が多くなるにつれて発展したということで、京都盆地を関東平野に見立てたら、甲州街道のような位置づけだったのかもしれません。
アーケードに入ると、今まで以上に昭和の匂いがプンプンするお店が並んでいます。
河原町通りを渡った先にあった三条名店街とはある意味対照的で錦小路のように道幅が狭い分ごちゃっとした感じです。
横浜でいったら、三条名店街や寺町京極商店街が伊勢崎モールなら、三条会はさしずめ洪福寺・松原商店街や、大口商店街の風情といったところでしょうか。


なお、自転車は全時間帯通行可で地元買い物客のそれが圧倒的に多いようです。
それでも、前回昭和の香りがすると書いた烏丸三条と堀川三条の間の昭和の感じは同じ昭和でもまだ後期のちょっとバブルが入っている雰囲気でしたが、こちらはもっと時代が遡って中期、すなわち戦後から高度成長期にかけての、映画でいったら「ALWAYS三丁目の夕日」みたいな雰囲気で、夏だったらランニングシャツ、冬だったら半ズボンの子どもたちが、輪転がしやベーゴマ回し、フラフープやゴム跳びをやっていそうな感じです。
(もちろん今どきそんな子どもはおりません)
アーケードに入ってすぐ振り返り、堀川通りを見返したらゴトゴト音を立てて京都市電が横切っているのではないか?と錯覚しそうになります。
そう考えると、三条通りって三条大橋から自転車でどんどん西へ行くにしたがって、タイムマシンに乗って時代を遡っている気分になります。
このままさらに夕日を追いかけると江戸時代、戦国時代、室町時代、平安時代の京に遡っていって、応仁の乱の盗賊とか十二単を召した女性をのせた牛車とすれ違ったりして(笑)
380m北に二条城があるにもかかわらず、何度も京都に行っている自分でさえも三条会商店街は初めてだったので、こんな楽しみ方もあるのかと、また新たな発見をした気分になりました。


実はこれと同じ思いができる場所が東京にもあります。
赤羽駅あたりから都電に沿って荒川区を横断し、奥州・日光街道の宿場町千住をかすめ、三ノ輪付近から南下して浅草で隅田川を渡り、両国、門仲(門前仲町)、月島、豊洲、辰巳、新木場と東京湾近くまで達すると、「今昔東京物語」を観ているような気分になります。
順番は時系列ではありませんが、荒川区内から浅草にかけては昭和レトロ、そこから両国、門仲あたりは浅草寺や富岡八幡宮に代表される江戸前の雰囲気が残り、そして豊洲から新木場にかけての臨海部はタワマンの林立で近未来みたいですから。
しかも、このルートは直線でも17.4㎞と歩くには長く、かといって都電荒川線やバスを乗り継ごうにも乗り換えが多くて途中を飛ばしてしまうため、自転車で移動するのが最適なのです。
さらに、新木場からはブロンプトンをたたんで始発の有楽町線かりんかい線、或いは京葉線に乗れば、だいたいどの方向にも帰れるというおまけまでつきます。


三条会に入って最初に交差するのが岩上(いわがみ)通り。
この通りは1602年に徳川家康の宿所として二条城(これは幕府の呼称であって、朝廷では「二条亭」と呼んでいた)造営の際に移転した岩上神社(岩神社、現中山神社)に因みます。
次に交差するのは猪熊通り。
こちらは平安京の西洞院(にしのとういん)大路に沿っていた猪熊小路に由来し、そもそも平安後期の関白、近衛基実(もとざね)が猪隈殿と呼ばれていたからといわれています。
このあたりまでは堀川の伏流水が豊富で、昔から染物が盛んだったそうでとくに京都名産のひとつとして、「猪熊の紺」という言葉が残っているそうな。
お次が黒門通り。
この通りは豊臣秀吉の地割(今でいう区画整理事業)によって新設された通りで、関白となって京都に居所を求めた彼によって築かれた聚楽第の東門が鉄(くろがね)門だったことからこの名前がつきました。
時の権力者はやはり天皇のお膝元である京都に自分専用の宮殿なり城なりを造営してこそ真の天下人という思いが強かったのかもしれません。
今でいったら地方から成長した企業が大手町や日比谷に本社機能を構えるようなものでしょうか。


黒門通りと交差した先、堀川三条から180m西へ進んだ右側にあるのが、八坂神社又旅社です。
お隣には八坂御供社があり、このあたりの町名も御供町です。
八坂神社ってあの祇園の北にある神社とどのような関係が?と思って由緒書きを読んでみると、平安前期の869年に京の都には疫病が流行し、当時の神泉苑(歴代の天皇のための禁苑、すなわちお庭、今の皇居でいったら二の丸庭園とか皇居外苑にあたる)南東角にあたるこの地に、66本の鉾を立てて祇園社より神輿を迎え、疫病退散の祈祷を行ったことから、御旅所(神社の祭礼において祭神が巡業する時、神輿を鎮座しておく場所で、旅の宮とも呼ばれた)をここに設けたのがはじまりということでした。
日本では祈祷のために神さまも旅をするのですね。
キリストもまた旅をしながらあちこちで病人を癒していました。
こちらは出前祈祷というか、出張祈祷というのか…。
そういえば仏教も出開帳というのがあったような。
又旅社ということは、八坂神社の神さまはリピーターだったのかしらん。
その神泉苑ですが嵯峨天皇が花見をしたり、或いは弘法大師が雨乞いを行ったりと由緒があるのですが、室町期以降は度重なる戦乱で荒廃した後に二条城の造営によって規模を大幅に縮小されたものの、江戸前期に寺院として復興し、現在は東寺真言宗の寺として念仏狂言が催されています。


八坂神社又旅社の60m西で交差するのが大宮通りです。
平安京の大宮大路(東大宮大路)にあたり、ここを右に折れて北に向かい、現在の二条通りにあたる二条大路以北が大内裏(平安時代の御所)の東端と接していたからこの名前がついたとされています。
ここから平安京時代の「中央通り」だった旧朱雀大路(現:千本通り)はそう遠くないということでしょう。
しかし、江戸時代にはかなり田舎だったというこのあたり、京都のように歴史が千年を越えてしまうと、かつての中心街が田舎になり、かつての田舎が繁華街になりということが起こり得るのかもしれません。
なお平安京遷都より前、京都盆地を最初に治めた賀茂氏の時代から、このあたりは大宮郷と呼ばれていたからという説もあります。

大宮通りを南に下ると、550mほどで阪急京都線と京福電鉄嵐山本線の四条大宮駅に出られます。

京福電鉄って、あの京都市電を彷彿とさせる通称嵐電です。

三条通をこのまま西進してゆくと、嵐電が道路の真ん中を走る区間に至ります。

上記の都電荒川線もそうですが、ブロンプトンにはトラム(路面電車)がよく似合います。

実際に乗ると「ブロンプトンで走ったほうが早い」のですが、それでもあののんびりペースが「逍遥」(=そぞろ歩き)という言葉に近くて、どちらもそんなに急いでも意味がないと思わせてくれる稀有な乗り物だから相性が良いように思います。
なお、大宮通りの向こう左(南)側には三条大宮公園があり、アーケードの公園沿いにはもの凄く安い布地もの屋さんの出店をみかけました。


ここで大宮通りを左折して1ブロック南に並行している六角通りを右折し、公園の南側にある寺町へ立ち寄ってみましょう。
右側には浄土宗西山禅林寺派の光明院、そのお向かい左側には、やはり浄土宗の善想寺があります。
山門脇には泥足地蔵と呼ばれる地蔵菩薩像が祀られています。
このお地蔵さん、1200年前に伝教大師最澄さまが自ら彫られたと伝えられている念持仏(守り本尊)で、大師の亡き後は琵琶湖西岸の坂本村に祀られていました。
その時代の田植え期に日照りが続いたため、あるお百姓が三日にわたって雨乞いを祈願したところ見事に大雨が降り、近在の百姓たちは田植えを終えることができたのですが、肝心な祈願した本人が腹痛のため植え付けを断念してしまいました。
しかし一夜明けると彼の田は見事なまでに苗が植え付け終わっていて、不思議に思いお礼参りにゆくと、地蔵の下半身は泥にまみれており、このお地蔵さんが腹痛を起こした百姓に代わって田植えをしたのではないかと言われたところから泥足地蔵の名がついたそうです。
なお、六角通りをそのまま西へ進むと京の街には珍しくクランクしている箇所に出くわしますが、その付近が平安時代から明治まで用いられていた六角獄舎の跡です。
京都が大火に見舞われるたびに小刻みな移転をしていたようですが、幕末に禁門の変によって生じた火災(いわゆるどんどん焼け)においては、脱走を恐れた京都西町奉行の滝川具挙が、同僚の東町奉行や上役の京都守護職(松平容保)の許可を得ずに、まだ判決の出ていない33人もの尊王攘夷浪人や志士たちを解き放ちせずに独断で斬罪に処した例があり、この獄舎の黒歴史になっているようです。
(結局火は獄舎迄まわりませんでした。)

三条通りに戻って西へ向かいます。
大宮通りの次に交差するのが神泉苑通り。

このあたりから、三条通りそのものの道幅が広がってゆきます。

これは三条会アーケードの西側出口が二条駅に近いからだと思われます。
そこから三条会商店街の西端、千本三条交差点までの420mは、商店街の中でも飲食店が増え、また左右に名もない路地のびっしり建て込んだ住宅街に、ゲストハウスや職人の店が点在する、かなりコアな街になります。

私が注目したのは猫本サロンサクラヤさん。
猫の本ばかり集めた本屋さんです。
実は旅の途中に東海道の国府津で見かけた「本読みの猫」の絵が忘れられず、ここだったら誰の作品なのか知っていそうな気がして、次に京都に行くときはぜひ立ち寄ってみたいと思っています。

もう一軒本読みにとって気になるのが、右手の町屋裏手にある朗読専用劇場アールラボさん。
朗読を聴くのはもちろん、エントリー費(1,000円)を支払うと、10分以内で好きな本を朗読させてもらえるそうです。
いや、朗読なんて学校出てから公共の場所では全然していませんが、人が朗読するのを聴くのも、自分で声を出して読むのも、もちろん文字を黙読するのも、言葉を理解するうえで大切なことだと思います。
ホメロスの叙事詩や、ヒンズー教の聖典に含まれるバガヴァット・ギータ―など、口頭伝承文学を印刷された文字で読む現代の私たちと、口伝の時代に生きた人々の意識の差を探究した米国人司祭のウォルター・オング著「声の文化と文字の文化」等を読むと、そのことがよくわかり、祈りや偈文、経文などのことばを読む際の意識がずいぶんと変わります。
私だったら何を読みますかね。
やはりアウグスティヌスの「告白」か、聖書の詩編やイザヤ書か。
ああ、自作の祈りのことばでも良いかもしれません。

千本三条交差点でアーケードはおしまい。
正面100mさきに山陰本線の高架橋が見えています。
この交差点を右折して280mほど北上した左側にJRと地下鉄の二条駅があります。
次回はここ千本三条交差点から左折して、千本通を南下したいと思います。